More Beautiful Than He Dreamed It

 
 
 
 彼の創造物には、往々にして「完成像」が存在する。
 美しい建築も、彫刻も、音楽までも。それらはすべて、実際に──つまり物理的にこの世に生み出される以前に、彼の中で完成されているのが常だった。
 たとえば音楽なら、彼は各々の楽器と最高の弾き手を意識の中に作り上げた。時に気むずかしい楽器の持つ癖にまで思いを馳せ、そこに生まれる意図しない共鳴までも楽しむことができる。あるいは最高の弾き手をもってしても演奏が不可能と判断されれば、曲自体の難度を下げ修正を加えることもあった。
 彫刻ならば、彼はそれを意識野で中空に置く。前後左右はもちろん、上下まで含めたあらゆる角度から美しく見えるよう、完璧な造形を描いた。
 だが、そうして頭の中では出来上がっている完成像も、現実に造っていくとなれば時間が掛かるものだ。
 細部まで完璧にイメージできる者にとってすれば、物質世界で完成されるまでに掛かる時間は無意味に思われるほど長い。
 自分の頭の中にあるものをそのまま一瞬で生み出せればと彼が考えることは、だから少なくなかった。この地底に王国を築いた後の一時期はアウトプットの必要性すら感じなくなったこともある。ほとんどのものは彼以外の誰に見せる目的があるわけでもなく、それならば頭の中でいつでも手が加えられるように"取り置き"しておく方がずっといい。それはある意味、最も理に適ったやり方だ。
 にもかかわらず彼がその手の空想に耽溺せずに済んでいるのは、造っていく過程で新たなインスピレーションを得る喜びを知っているからであり、また、想像ですべてを済ませてしまうことの途方もない虚しさを知っているからだろう。
 そう。
 虚しさだ。
 幼い頃はずっと夢想していた。
 まだ彼の手が小さく、か弱かった頃。すでに膨大な量の創造物が未熟なからも彼の中にはあった。それと同時に彼にはまだ、物理的に何かを生み出す力がなかった。
 だから、その頃は現実と想像が今よりなお混在していたように思う。彼は粘土をこね回すように、目に映る物も、聞こえてくる音も、頭の中で変形させ、響きを変えて音楽にして楽しんだ。それが彼の初めて覚えた、そして唯一許されていた遊びだった。
 けれど、遊びよりもっと切実に思い描いたものもある。
 ぬくもりを──。
 彼は、触れられることを想っていた。
 母が彼に手を伸ばし。
 指先が頬に直に触れる。
 それから、キスを……。
 思い描いていた。
 けれど想像の中でさえ、彼はそれに成功したことがない。
 母親に触れられることを、まったく描けないわけではなかった。ごく稀に、事故的に発生する母親との一瞬の接触から、その手の冷たさを記憶に留めた。自分の顔の中では、まだしも人間らしい形をしている唇に触れて、人の唇の感触というものを理解した。そうしたパーツを集めて完璧な幻想を、長い時間を掛けて組み立てた。
 だが、いつも成功しない。
 たしかに彼の意識の中でさえ、彼の母親は現実の彼女そのままに口吻(くちづけ)を拒んだ。だが、それは初めの一時期の話で根本的な原因ではない。自分を騙すことができるように、彼はいつしか、微笑んで自分に優しく手を伸べる母の姿を描くことができるようになった。
 それなのに、いつでも、その指先は、唇は、彼に触れる寸前で止まる。
 母が止まるのではない。
 彼が止めるのだ。
 あとほんのわずかで触れられる、と思う瞬間に、彼はなぜか決まってその光景を自ら粉々に砕いてしまった。
 そうして、壊れてしまった夢の欠片を見て呆然とする。
 夜、眠る母親の元に潜んで行って実際に口付けようとしたこともある。
 気配を消して母親の枕元に近付いた。母親が起きてしまうことがないように、息を殺して、幽霊のように何の物音も立てず動く術を身につけて。
 闇の中から眠る母の規則正しい呼吸を見ていた。決して起きないだろう深い眠りを確かめて、そっと白い額の上にかがみ込み、唇を近づける。
 けれど、やはり成功はしなかった。
 どうしても触れることができないのだ。
 触れられる、というその時に、身体が止まる。
 理由はわからない。
 今もわからない。
 そんな時はいつも、何もない世界が目の前に広がっていた。
 空白の光景。まるで逃げ水のように、近付くと見えていたはずのものがすべて消えている。
 感じるのは、望んでいたものがどこにもない、という感覚。いつの間にか欲したものの正体さえわからなくなっている。
 そして、想像だけですべてを済ませようという時も、突き詰めた先に、同じ虚空が見えた。
 だからこそ自分は何かを物理的に残そうとするようになったのだろう。
 彼はそう憶測している。
 しかし、そうした小難しい理由とは別に、至極単純な理由からこの世に生み出される彼の創造物もある。服飾の類はその典型だった。こればかりは実用物であるから、頭の中に置いておくだけというわけにはいかないのだ。
 かといって、仕立屋にデザイン画を渡してしまえば完成まで彼の仕事はなくなる。頭の中にあるものが形になるのを待つだけの時間が続き、出来上がってくるものといえばデザインや質感まで含めて、あらかじめ彼が脳裏ですでに完成させたものそのままだ。もちろん完璧を求めたデザインである以上、それで不満があるわけではないが、少なくとも新しいものを創造し、手にする喜びはすでに過去のものだ。救いがあるとすれば、選りすぐった仕立屋に任せているおかげで、彼のイメージとほぼ違わぬものを身につけられることくらいだろう。
 だから、クリスティーヌのガウンも、そうだった。
 衣装そのものは当然として、それをまとったクリスティーヌの姿までも、デザインが完成した時点で彼には一点の曇りもなく脳裏に思い描けた。そもそも、思い描くことが出来なければ彼女に最もふさわしいデザインなど創れない。
 彼の意識野で彼女は自在に立ち上がり、歩く。彼女の普段の歩みと平均的な歩幅から、最もシルエットが美しく見えるドレープの長さを見つけ出すのは、彼を持ってしても検討に検討が必要な作業だった。椅子に腰掛けた時のひだの数はどの程度なら美しいか、あるいは床に裾を広げ腰を下ろした時は? あらゆる場合を考え、それでいて彼女の肩に重くのし掛かることなど万が一にもないように使う布地とレースの量、デザインについて計算を重ねた。
 それは当然ながらひどく楽しい作業で、飽きることなく熱中できた。ようやくひとつのデザインを作り上げる頃には、彼のデザインしたドレスを、あるいはガウンを身にまとうクリスティーヌの姿がいくつも同時に展開できるようになっていたほどだ。
 従って、クリスティーヌが──マダム・ジリーを通して密かに贈られた──そのガウンを身にまとう瞬間がついに来たといっても、光景そのものはとうの昔に彼の中では実現されているものだった。幸いにして、彼がいつも以上に完璧さを要求した仕立ては、これと見込んだ職人の誇りに掛けて寸分の狂いもなく完成されていたからなおさらだ。
 だから、「彼が手がけたものを、実際にクリスティーヌが身にまとう」。それが喜びのすべてであり、至福になるはずだった。
 そう。それは確かに至福だ。
 だが同時に、予測の範囲内に納まる喜びでもある。
 そのはずだった。
 

 そうして今、彼は自分の愚かしさを目の当たりにしている。
 かつて彼女の声がオペラ座の亡霊の思い描く至上の美をやすやすとうち砕いたように、いま目の前に在るクリスティーヌは彼に想像力の限界というものをありありと見せつけた。
 この地底の王国で、自分こそが神にでもなったような気がしていた──この世のすべての美しいものは自分の中に生み出せると思っていた──愚かな男の思い上がりをその歌声で粉砕した時と全く同じ。
 クリスティーヌは、美しかった。
 形容できる言葉などない。
 湖面の上、密かな闇に抱かれてたたずむその姿は、彼の想像など遙かに超えて。このまま彼女を見つめ続ければ息をすることも忘れ、忘れたまま死ねるのではないかと思うほど。
 美しかった。
 彼女を見つめてこのまま死ねるなら、と彼は本気で考える。
 そんな甘美な死は他にはない。有り得ない。
 だが、主を失えばこの王国は彼女にとって開くことのない牢獄と化すだろう。彼はそれを思い出し、かろうじて呼吸を取り戻した。
 大きく息を吸う。そして吐く。
 彼女を見た。
 自分が彼女と向き合っている。その実感が潮のように彼の胸に押し寄せて、満たされる。
 彼らを脅かすものは何もないこの王国で、クリスティーヌは変わらずそこに在った。
 焦がれていたのだと、彼は思う。焦がれ続けた。
 その姿は歓喜に彩られて輝きを増し。
 触れたい、と彼は思う。
 手を差し伸べた。
 その手を、彼女は躊躇いなく取る。
 彼はただ支えるだけで良かった。彼女は自ら立ち上がる。彼がそっと導けば、小舟がわずかに揺れて水音が立つ。それだけで彼女は音もなく彼の世界の中心に降り立った。彼が手がけたガウンが、ロウソクの灯に照らされ夢のように白い。
 その美しさは、もう何を持っても形容できない。今、彼が感じている想いも表せない。意識のすべてが彼女に向かっている。もう彼女しか見えず、そして瞬きすら惜しい。
 言葉は失われていた。
 呼吸を忘れずとも、そのぬくもりに溺れるだろう。
 『彼の王国』までもが新たな生を吹き込まれたように、その輝きを変えていく。
 彼は、未だかつて彼自身さえも聞いたことのないような声で歌い始める。
 その旋律、響き、調べ。すべてに共鳴するクリスティーヌを感じながら。
 彼は、彼女をその腕に包む。
 

<FIN>