どのくらいの時間、そうして月を見ていたろう。
彼の耳にかすかに滑り込んでくる澄んだ響きがあった。多くの音楽に精通した彼にとっても少し珍しく感じられる旋律は、北の国の民謡だ。
まるで北欧の神話に出てくる
彼からわずかばかり離れたそこにクリスティーヌが立っていた。彼と同じように月を見上げ、歌を歌っている。
それは久しぶりに聴く曲だった。
懐かしい、と言っていいだろう。
昔、彼が<音楽の天使>として幼い彼女の前に現れたばかりの頃に、彼はよくその歌を彼女に歌わせた。まだ歌声に心を乗せる喜びをクリスティーヌが思い出せないでいる頃、それでも彼女が辛うじてどこか嬉しげに歌えたのが、父親から習ったのであろう、こうした故郷の歌だった。けれど彼女が歌う喜びを思い出した後はずいぶんと聴いていない。
月を見上げ、彼女は歌っている。
彼はその姿を見つめた。
青く白い月の光が音もなく彼女に降り注ぐ。
光は真白い額を照らし、長いまつげの影が瞳へ。
その瞳が美しい光を集めて瞬く。
輝きが彼女を包み、光は彼女の内から溢れた。
神のみが与え賜う麗姿が、そこにあった。
五歩の距離の先に立つ彼女の姿に、彼はふと目を凝らす。白い練り絹に包まれたその背中に翼が生えていないかと、彼はじっと見つめた。そこに翼が見えないことが、ただ不思議に思われた。
やがて、彼女は唇を閉ざす。
白い顔がゆっくりと彼へ向き、彼女は一度まばたいた。
「お邪魔だった?」
彼女が言った。
「いや」
と彼は答える。
「耳障りでなければ良かったのだけれど」
「きみの歌をそんな風に思ったことなどないよ」
そう言うと、クリスティーヌは愛らしい口元を小さくほころばせた。
彼は少し目を細める。
「……久しぶりに聴かせてもらったな」
「ええ」彼女は頷いて、もう一度月を見上げた。「でも、あまり顎を上げるとだめね。声がきちんと出なくて」
たしかに、とそれは彼も認めざるを得ない。今し方の彼女の声はベストの発声とは言えなかった。
「望むなら、真上を向いていても声が出るこつを教えよう」彼は続けた。「だが、今は余計に懐かしい思いができたようだ」
それは彼の嘘偽りない本音だったが、暗に未熟だった頃の歌声を思い出すと告げられたからだろう。クリスティーヌは少しばかり不安な面もちで彼を見た。<音楽の天使>が離れていくのではないかと怯えるとき、幼い彼女は決まってそんな顔をした。
今ならわかる。
彼女にとっての、その恐れの大きさ。
そして<天使>を騙った自らの罪深さも。
男は後悔し、わずかに視線をうつむけた。その目の端で彼女がふと優しく笑った。
「そうね」クリスティーヌは目を閉ざした。「そう……、すべてが懐かしいわ」
「……ああ」
彼は彼女を見る。くるぶしまで流れ落ちたレースの裾が、かすかな風の中で揺れている。
辺りを短い静寂が包んだ。
「何を考えていらしたの?」
彼女が尋ねる。
男は一度視線を足下に落とし、気付かれないように小さく息を零した。次に空を見上げると、月は先ほどと寸分違わぬ位置に留まり続けていた。
その不自然に気づきながらも、何気なく答える。
「人が月に触れられるようになるまで、あとどのくらいの時間が掛かるか計算していた」
「え?」
挙がった声に彼は視線を転じた。クリスティーヌがぽかんと口を開いて、目を丸くしていた。
「月に触るの? 人が?」
「不可能ではないさ」彼はゆっくり言った。「人が空を飛べるようになったように、十分な速度と、エネルギー、最善の経路を得て──その他にもいくつか必要だが、立とうと思えば、人はいずれ月にも立てるだろう」
彼の言った言葉のどのくらいを理解できたか解らないが、クリスティーヌは軽く眉根を寄せた表情で首を傾げた。
「それ……どのくらい掛かるものなの?」
「そうだな」
彼は目を閉じた。息を止めて思考を走らせる。
これまでの技術進歩の加速度を導き、その値を幾何級数的に上方修正してから単純な進歩の速度曲線を考えた。既知の公式を満たすのに必要な未知の情報、その精確さを得られるまでの時間を予測した。それらを曲線上に配置する。更にいくつかの、理論とは無縁の要素を思った。
答えを出すまで、五秒とはかからなかったろう。
「──純粋に技術だけなら、五十年弱。しかし莫大な資金が必要だ。危険もつきまとう。そうしたことにこだわるなら百年……もっと掛かるだろう。かなり多数の人間が、月に行くということに熱狂的になる理由でもあれば、技術的に可能になった時点で実現するだろうけれどね」
「すごいわね」クリスティーヌが優しい声で言った。「でも、嘘でしょう?」
「正確かどうかは別として、嘘ではないさ」
「いいえ」彼女は微笑んで首を振る。「あなたは、そんなことを考えていたわけではないでしょう?」
彼はクリスティーヌを見る。彼女は静かに彼を見ていた。
その眼差しを受けて、彼は大きく息をつく。
「そうだな」
「今夜は本当に明るいわ」クリスティーヌは歌うように言った。「こんなに明るい月を見ているあなたを見るのは、珍しい」
「ああ」
「……何を、考えていらしたの?」
かすかな風が吹いて彼のコートの裾をわずかに揺らす。
暖かい春の風。
なぜか懐かしい花の香りがする。
彼はその空気に包まれて、やがて静かに頭を垂れた。
「……きみのことを……」
そう告白する。少し遅れて彼女を見た。
彼の視線の先に、彼女は哀しい顔で立っていた。
──こう言えば、きみはきっとそういう顔をする。それは彼が予測したとおりの表情だった。
叶うならそんな顔をさせたくなくて言葉をそぎ落としたつもりだったが、思えばそれも無意味なことなのだろう。口にしても、しなくても、クリスティーヌの瞳には心に響くような理解があった。共鳴にも似た共感を伴った、深く、澄み透った哀しみ。
そんな彼女のぬくもりに触れたいと思った。
あるいは彼女の足下にこの身を投げ出したかった。
彼はわずかに手を伸ばし、一歩、彼女へ向けて足を踏み出しかける。
しかし、彼はそんな自分をとどめた。
<あの日>から変わらず、とどめた。
彼が手を伸ばした先で、一度クリスティーヌの姿がかげろうのように揺らぐ。それを見て、彼は助けを求める形で伸ばした手を下ろした。
これは幻だ。彼は思う。
そう。限りなく幻に近い。
そして、何より、本当だった。
彼の見ている前で、そんな彼女の表情が変わった。不意にあまりにも深い痛みを浮かべる。信じがたいものを見るような、彼に向けられるその眼差し。
『なんて可哀想な……』
『あなたはどんな人生を送って来たの……』
彼女の唇がそんな言葉を紡いだ。
それは幻ではなく、劣化することのない彼の記憶の再生だった。彼女はここにはいないのだ。その姿を、まるで目の前にいるように思い出せたとしても、彼女であればどんな言葉を返すのか、完璧に思い描けたとしても、彼はあの口づけを受けた日から遠く離れ、二度と彼女の姿を目にすることなく長い時を過ごした。だから、これは彼が思い出す彼女の姿。あの日、紛れもなく彼の前にあった、彼女の真の姿。
おおきく見開かれた美しい瞳には彼の姿が映っている。その目で彼女は彼の醜さと悲しみを見た。彼女はあの時、まるで奇跡のように彼の孤独を、彼の悲嘆を、彼の人生そのものを共に感じてくれたのだ。
そして、彼女は浄めた。
そのすべてを。
──クリスティーヌ。
彼は声にせず呟く。
彼女に焦がれ、
いったいどんな人間にそんなことができたろう。
彼女こそが天使。
それが、紛れもない本当の彼女だ。
だからこそ、もし、今もただ想うのはきみのことだと告げるなら、クリスティーヌが哀しい顔をすることは、彼には自明だった。
今もなお、こうしてその姿が目に浮かぶほどに、その声が聞こえるほどに誰よりもきみを想っている──もし、そう告げることがあったなら、彼の思い描いた姿そのままに、クリスティーヌは彼の人生を憐れむだろう。心の底から哀しむだろう。
──そんなきみを愛している。
身を斬られるほどに苦しく、離れた悲しみを思いながら、深く、この命のすべてで愛している。
かつて彼女が歌ったそのままに、彼が彼女を思わぬ日はなかった。その度に想いは深まり、痛みは増し、離れてしまった悲痛に喘いだ。それでも彼女を奪うことはできない。触れることは決してしない。自分のためにではなく、ただ彼女のために。それは
彼はそうして、繰り返し、繰り返し、彼女が教えてくれた「愛する」ということの本当の意味を知る。
愛を与えられたと確かに知った。
──だから、きみが哀しむことはない。
声に出さずそれを呟いて、彼は自らが組み上げた幻を見る。その言葉を彼女に伝えたいと幾度思ったか知れない。
しかし、それは彼女には伝えられないことだった。伝えることは許されず、告げる術はどこにもない。
それどころか、彼女の顔が憂いに曇ることがないように祈ることすら、彼には二度とできない。
なぜなら、クリスティーヌはもういない。
彼女がもう、この世のどこにもいないからだ。
朝日が墓地へと射し込んでいた。光を透かす薄い
彼はただひとり墓の前にうずくまっていた。夜露を吸い込んだコートは冷たく重く、老いた体にのし掛かっている。彼はその下で微動だにしなかった。
夜の幻想はもう消えた。今は冷えた自身の体が感じられるばかりだ。
このままここで消えてしまうことを、彼は夢想した。息を止めてしまえばそれだけで良いと思った。彼女がいない世界で今も呼吸している自分こそが信じられない。世界ごと消えてしまっても構わないとまで思う。
このまま息を止める。意志の力だけでそれができると、彼は信じた。
いっそ日に照らされた亡霊のように消えてしまえばいいのだ。かつて自らに架せられた名を思い出し、彼は力無く笑った。<ファントム>。音楽の天使などではない、オペラ座の亡霊。懐かしいその呼び名に相応しい最期ではないか。本当はあの日、自分は幻となって消えて良かったのだ。
──……けれど、そうならなかったのは、彼女が……。
彼は息を吸いこんだ。目を見開き、うずくまっていた姿勢から頭を上げた。墓石に刻まれた彼女の肖像画を見る。
嗚呼……と、彼は声にならぬ声を漏らした。
ここに眠るそのひとは、彼の顔を見ても、彼を亡霊の名では呼ばなかった。怒りと憎悪で彼の罪を責め立てた時でさえ、彼を化け物と蔑むことはしなかった。彼女は彼を知ってくれた。彼女は手を差し伸べた。そして最後に、彼を人としてこの世界に生み出した。
──そうだ。だからこそ、私は死なず、生きてきた。
冷えた彼の指先が動く。すがるように胸元を探るその指先が、小さな感触に触れた。
「……私は、私が生まれた夜を覚えている……」
彼は語りかける。
幻想の中で見たあの白く小さな月は、あの日見た月だ。
あの夜。羊水のようなオペラ座の湖水から上がり、子宮のごとき地下の王国を捨て、産道そのままの地下道を抜けた。彼は彼女に与えられた命を手に、この世に新たに生まれ出た。その時、遠く炎上するオペラ座を背にして見上げた空に、あの月があった。
それは昔。本当に遠い昔のことだ。そう呼べるほどに彼は長く生きた。荒野に生まれ落ちた子どものように、生まれたばかりの目であの月を見てから今まで。ただ彼女に与えられたものに支えられ、孤独の中それでも生きることを学び、そして生きた。
その生は、今も続いている。
彼はもう一度、墓石を見た。澄んだ朝の光にひとりの夫人の名が照らされている。
──クリスティーヌ。
彼はその名を呼ぶ。
──クリスティーヌ。
救い主の意味を戴く、その御名に相応しき聖なる
墓は、その彼女がもうこの世にいない
その彼女に与えられた命が、今もここにある。
彼は胸に手を押し当てた。てのひらの下、彼の心臓の真上に、あの日、授けられた指輪がある。今あるすべては彼女から始まった。どれほど遠く離れても、どれほど時が流れても、美しく、優しく、哀しく、愛しく、繰り返し繰り返し、彼女を思うことで、彼は生きた。
彼女に与えられたその命で、目に映るすべての美しいものをこの生に刻み、彼女に返すつもりで、彼はずっと生きてきた。
──……私は、
彼は思う。投げ出さず、最後まで、生きていく。
そして本当にこの生を全うしたその時、すべては彼女へと捧げられるだろう。
彼は空を見上げた。明るい光、淡い春の青空が彼の頭上にあった。遠くで雲雀が鳴いている、その声が聞こえた。木の梢が揺れ、葉擦れの音がする。光が降り注ぎ、空気は澄んでいた。終わることなどないと思われた慟哭の跡も、真新しい墓石に吸い込まれ、いずれは乾くだろう。彼女に与えられた命で、彼は、そのすべてを見る。
やがて、彼は静かにその場へと
クリスティーヌ。
貴方に伝えたい。
貴方に与えられた命で見る。
世界は今日も、こんなにも哀しく、美しい──。
<終>