Over the Music of the Night

 
 
 
 「彼」が試しに、と言った期間は驚くほど短く済んだ。もっとも驚いたのは自分だけで、「彼」にはわかりきっていた結果だったろうと氏は笑う。
 翌日、人通りが少ない時間になって鐘楼を再び訪れた「彼」は、楼閣を見回して小さく何度か頷いた。屋内でもフードは変わらず頭から被ったままだった。彼は氏にも見える片方の目を細めて語った。
「ここは鐘も名品だが、この楼閣がいいのだね。腕の良い設計士がいたのだろう。鐘に対して、ベストに近い空間と天井の曲線を保っている。鐘の配置もいい」
「見ただけでそんなことがわかるものかね」
「私には」
 彼は短くそれだけ答え、氏を苦笑させた。
 それから彼は鐘楼の奥へ進み、鐘の一つ一つを丹念に確かめた。
「……ただ」彼は言った。「長い間使い込まれて、同じ所を打たれたために鐘の一部が摩滅している。そのためにわずかだがバランスが崩れているようだ。それに鐘同士の間隔も少し崩れているね。そのあたりを調整すれば、音は見違えるように良くなるだろう」
「大がかりなことをする気ではないだろうね?」
 氏は顔をしかめて尋ねた。いくら氏が見張っているとはいえ、あまりに大ごとにするつもりはなかった。
 そんな氏に彼は首を横に振った。
「多少、手間が掛かるというだけのことだ。大がかりなことではない」
「それなら良いがね……」
「悪いようにはしない」
 男は言い、そっと鐘の表面をなでた。その手つきが(うやうや)しくすらあったので、氏はそれ以上、何か言うのをやめた。
「もうひとつ、頼みを聴いて貰っていいだろうか」
 男が言った。
「内容にもよる。なんだね?」
「さすがに片目を隠したままでは作業に障りがある。見張るときに、出来れば私の背中側から手元を見ていて貰えると助かる。特に私の右半面は目に入れないように」
 氏はそれを聞いて半ば呆れた。
「それで見張る意味があるのかね。しかも面倒な」
「申し訳ないがお願いしたい。この顔は……見て気分の良くなるものではないのだ」
「そんなに見せたくない顔ならば、仮面でも付けてはどうかね」
 不意に男は手を止めた。ゆっくりと、彼は氏へと目を向けた。
「昔、」彼はひどく静かな表情で語った。「昔は、私も仮面を付けていた。だが私はそれを捨てたのだ」
 なぜ、という言葉が氏の喉元まで上がった。しかし、氏はそれを口に出来なかった。
「できれば今は、私の顔を見ないようにして貰いたい」
 彼の言葉に、氏はつばを飲み込み、頷いた。
「……まあ、心がけるがね……」
 彼は氏に対して短く礼を言い、また鐘に向き直った。
 実際のところ、ラインダール氏が「彼」を見張っている必要も、意味も、ほとんどなかった。「彼」の技術は完璧だった。おまけに彼は恐ろしく器用であるらしく、鐘をいじる手つきの細かさと速さは、ラインダール氏の目では何をしているのか追うのがやっとという程のものだった。
 だから「彼」が鐘の整調をする数日間、氏が見ていたのは彼の鐘に対する姿勢だけだった。そして「彼」は鐘に対してひどく真摯だった。丁寧に、ただ丁寧に鐘を扱う後ろ姿には切実さまで漂っていた。長年この鐘楼に携わってきた氏が他の職人に見たことのないほど確かな技術を持つ「彼」が、鐘を害する気がないことはそれで明らかだった。
 だから氏が彼の作業に見張る意味で付き添ったのは、最初の半日だけだった。あとは、時折様子を見に行く程度だった。そんな自らを振り返って、氏は思いきった事をしたものだと笑ったが、「彼」にはそれほどの何かを感じたのだろう。
 氏の付き添いが必要なくなった彼は、昼夜を問わず鐘楼の中で作業を続けた。
 その数日間も朝と昼と晩。鐘を鳴らさなくてはいけない時間帯はもちろんあった。その時には、彼は言われずとも鐘を鳴らせるようにしていた。しかし、彼の手によって整調された鐘と、まだ彼の手がついていない鐘では驚くほどの差があった。ひび割れていた音は滑らかに、曇りは消えて豊かさを増し、そして響きは澄んでいた。単に手際がいいというだけでなく、その音は「彼」の感性の確かさを一瞬でラインダール氏に悟らせた。
「見事なものだ」彼のすべての作業が終わった時、氏は心から彼を讃えた。「同じ鐘とは信じられないくらいだよ」
「これがこの鐘の本来の響きだ」彼は当たり前のように答えた。「この鐘楼は、本当に素晴らしい。私はそれを本来の姿に戻したに過ぎない」
 彼は目を細めて鐘を見ていた。それからわずかに物言いたげに氏を見つめた。
 その視線を受けて氏は苦笑した。
「そんな目をしないでくれたまえ。これだけのことをして貰ったのだ。私は約束を守る男だよ」
「弾かせてもらえるのか?」
「きみの奏者としての技量は知らんがね。これだけの調律が出来るのに、まさか全く弾けないはずもなかろうよ。明日の朝、まず試しに弾いてもらおうじゃないか」
 彼はその時わずかに息を呑んだ風に見えた。そして短く礼を言った。
「きみの演奏が楽しみになってきたよ」
 氏は言った。
 

 その氏の期待は、裏切られることがなかった。
 いや、裏切られるどころではなかった。
 翌朝、「彼」がごくお定まりの一曲を弾いた時、ラインダール氏は彼の隣で棒立ちになった。それから大きく喘ぎ、しばらくは口がきけなかった。
「……なんという……」
 氏はやっとの事でそれだけ呟いた。それから意味もなく額の汗をぬぐった。その日は確かに暖かい一日だったが、高みにある頂塔近くに吹く早朝の風は清々しく、とても汗を掻くような温度ではなかったというのに。
「きみは、なんという……」
 「彼」はじっと組鐘鍵盤(ベイヤード)に視線を注いでいたが、顔を上げて横に立つ氏を見た。
 ラインダール氏は言葉を失った。胸や腹から熱いものが湧き上がってくるのを感じた、と氏は言う。それは大きな感動であると同時に、氏自身が寂しげに告白したところによれば、嫉妬でもあった。氏も常日頃から当たり前に弾いているさして面白味もないメロディは、彼の手に掛かった途端、魔法のようにその響きを変えた。それは決して鐘の整調が済んだからではなかった。彼が弾いたからだと、氏は悟っていた。
 彼の手から生み出された鐘の音は、朝の光を帯びたように輝きをまとって町中へ広がっていったのだ。
 彼はただ黙って氏を見ていた。その時、「彼」が黙っていてくれて助かったと、ラインダール氏は自嘲した。もし何か言葉を掛けられていたら、それがどんな言葉であっても、その一言を引き鉄に感動より嫉妬が上回ってしまったかも知れないと言って。
 しかし彼はずっと黙っていた。そして、氏は自らをなだめることに成功した。
「素晴らしい」
 氏は言った。
「本当に、素晴らしい」
 口に出すと、それは心からの讃辞になった。
 途端に感動は純粋なものになり、興奮して氏はまくし立てた。
「一体どこでこれほどの技術を? いや、技術だけではない。すごい才能だ。本当に、感動した」
 氏の言葉に、彼は無言だったが、初めて少し微笑んだ。
「ああ、すごい。生きている内に、こんな演奏が聴けるとは思わなかった。嬉しいよ。……少し悔しいが、本当に嬉しい」
「正直な人だ」
「こういう気持ちは黙っていて良いことがひとつもない」
「……名言だな」
 彼はひどく生真面目に頷いた。その様子が妙に可笑しくて、氏は笑った。
 それを切っ掛けに、氏は(本人曰く悔しくはあったが)「彼」にしばらく鐘の演奏を託そうとした。もっとも、彼自身の願いで彼が弾くのは日に三回の内の一度きりで、時間帯は晩が多かった。他の二回はこれまでのようにラインダール氏が弾いた。
 あれほど弾くことを望んだ鐘なのに、日に一度で良いのかと尋ねた氏に、彼はいくつか理由を挙げた。彼自身、日に一度弾ければ充分であることや、彼は町の人々のために弾いているわけではないから、そんな人間が鐘楼を占拠すべきではないこと。しかしラインダール氏が苦笑気味に語ったところによれば、「彼」は「彼の音」に町の人々が馴染みすぎてしまうことを、氏のために案じてくれたのではないかということだった。
 「彼」は紛れもなく他に比肩する者のない弾き手だった。その音は多彩で、旋律の向こうには曲が持つ世界が鮮やかに広がった。故に決まり切った刻を知らせる鐘の音ではあまりにも惜しく、ラインダール氏は「彼」に好きな曲を弾くことを許した。彼は氏にそう言われたとき、驚いた顔を見せたが、それからは日に一度、彼の望む曲を弾くようになった。
 彼は鐘を奏でる機会の多くを晩の時間帯に費やした。彼は去りゆく陽を惜しみ、夜の安らぎに導くような曲を選んだ。そして、その旋律にはいつも切々とした響きがあった。
 組鐘は、本質的にピアノやヴァイオリンほどに繊細な楽器ではない。その鐘の音にそれほどまでに心を乗せられるものだろうかと、ラインダール氏はいつからか疑問に思い始めていた。
 彼の奏でる音は胸を絞るように何かを惜しみ、訴えていた。それが何かは、その時の氏にはわからなかった。
 
 

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