Over the Music of the Night

 
 
 
 ある日、ラインダール氏は「彼」に言った。
「そろそろ町の皆が、きみの存在に気づき始めているよ」
 「彼」は氏を見つめ、無言で見えている方の眉をひそめた。その頃でも彼は変わらず半面を隠していて、氏は彼の顔をすべて見たことはなかった。
「日に一度、私ではない別の弾き手に替わっているのではないかとね、噂になっている。無理もない」
 氏としては苦笑せざるを得なかった。彼我の実力差は素人の耳にも歴然としていた。しかし、「彼」は深刻な顔で溜息をついた。 
「では、もうあまり長居は出来ないな」
 彼の漏らした言葉に、氏は驚いた。
「なぜ」
「私には一ツ所に長く留まるつもりがないからだ」彼は言った。「それは、私には出来ないことだ」
「どうして」氏は思わず尋ねた。「ここにいて、良いのではないかね。こう言うのは癪だが、きみのような弾き手は二人とおるまい。このままここに居座ってしまってはどうかね」
「気持ちは嬉しい」彼はひっそりとうつむいて笑った。けれど、急に表情を消して言った。「しかし、私は異形のものだ。それは顔がそうであるからだが、そればかりではなく、私は異形なのだ。あなたのように私を受け入れてくれる者もあるが、多くの人間の中にあれば、必ず私を受け入れられない者が出てくる。そのことが、ともすれば私の周りのすべてに波風を立ててしまう」
「私がきみをこの塔に入れたのは、きみが悪人には思えなかったからだ」
「善し悪しではないのだ」彼は静かに答えた。「また、優劣でもない。私が人と同じではない、それが問題になる。それに、私を受け入れられぬ人々が悪いわけでもない──今は、そう思う」
「しかし、こんな風に一人で旅をして、どこにも留まれないのであれば、きみは……」
 そこで、ラインダール氏は言葉を切った。その先にどう続けて良いのか、氏は掛ける言葉を探しあぐねた。その氏の求めるものを知っているように、「彼」は言った。
「私はひとりなのだ。そうあるように、生きてきた」
 そう語る彼の口調は、あくまで静かだった。皮肉も嫌みもそこからは感じられなかった。彼はただ事実を淡々と告げているように見えた。真摯で、遠い目をしていた。そう言う彼は、たしかに独りだった。そばにいるラインダール氏とは違う世界にいた。
 そして、それは彼がいつも組鐘(カリヨン)を弾いている時の表情であることに氏は気が付いた。
「きみはひとりなのか」
「そうだ」
 答えに遅れて、彼は不意に微笑した。その眼差しが遠くから鐘楼の中へと戻ってきた。
「そうしていても、時にこうしてあなたのような人に出逢える。……そのおかげで、この人生がけして悪いものではないことを、私は時折確かめる」
 その言葉を聞いて、次の一言は、何とはなしにラインダール氏の口を突いて出た。
「そんな風に思えるとは、きみは神に祝福されるべき人だな」
 それはある意味で、無邪気とも言える賞賛だったかも知れない、と氏はやや哀しい表情で述懐した。けれど、その時の氏はあくまで本気だったのだろう。生まれ持って科せられた奇形を呪うこともなく、また世間を責めることもない彼は、氏の目には得難い存在として映った。
「神に?」
 しかし、問い返した「彼」は、その時、珍しく皮肉げな笑いを浮かべた──ように思われた。そして、その笑いは完成する前に驚きに取って代わられた。彼は何かに気づいたように表情を止め、顎に手をやるとそのまま黙って考え込んだ。
 その話は、彼が考え込んでしまったためにそこで打ち切りになった。
 

 彼は、結局その後の数日をずっと考え込んで過ごした。組鐘を弾いているとき以外は、ほとんど物思いに時を費やしているようだった。
 
 

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