Over the Music of the Night

 
 
 
 別の日、「彼」は晩の鐘を鳴らして始末を終え、組鐘鍵盤(ベイヤード)のピアノ椅子に腰を下ろすと、また思考に戻って行った。
 ラインダール氏は、彼の邪魔をせぬように、そのまま去るつもりだった。しかし氏はそこで、いつも彼の頭の右半分を隠しているフードが、わずかにめくれかかっていることに気が付いた。彼の脇に回り、少し覗き込めばその中が覗き込める程度に。
 そのとき氏は、人ならおそらく誰しも襲われるだろう誘惑に駆られた。
 つまり、氏は考え込む彼の右側に回り込んだ。そしてフードの下の顔をそっと覗き込んだのだ。
 ラインダール氏の名誉のために敢えて言うならば、氏をそのような愚行に走らせたのは好奇心ばかりではなかったろうと思う。氏は、「彼」が本当に人の中で生きていけないような異形なのか確かめずにはおられなかったのだろう。
 そして、氏は紛れもなく確かめた。
 その詳細を、ラインダール氏は決して口にしなかった。ただ、この件を語るとき、普段どちらかといえば血色豊かな氏の顔は青ざめた。
 「彼」の顔を見たラインダール氏は息を飲み込み、無言のあえぎを漏らして、後じさった。
 それまで完全に意識を思考の中に沈めていたかに見えた男が、その音には気が付いた。
 彼はラインダール氏が何をしたのか悟った。これは推測だが、「彼」にとって間近で息を呑み、後じさる乱れた足音を聞くのは、恐らく繰り返された出来事だったのだろう。
 彼は椅子を倒す勢いで立ち上がり、半面を手で隠すとラインダール氏を()めつけた。
 氏は生命の危機をそのとき感じたと告白した。もし、「彼」の目に人を殺す力があったなら、自分は千度も死んでいたに違いないと。
 男は悪鬼のような形相で、一歩足を踏み出した。しかし、そこで彼の歩みは止まった。
 そのとき彼は狼狽えたように見えた、と氏は言った。彼の視線は床の上を這った。彼は進めた一歩の距離をさがり、最後に恥じ入るように顔を伏せた。
 あまりにも彼が悄然とうなだれたので、氏は一瞬前の恐ろしさを忘れた。むしろ自分が酷いことをしてしまったという罪悪感に苛まれた。
「すまない……」
 そんな氏に対して、先に「彼」が詫びた。
「すまない。急にこの顔を見られると、私は今でも我を失ってしまうのだ。すまない。恐ろしい思いをさせた」
 彼があまりにも落ち込んだ様子で謝るので、氏はますます罪悪感を募らせた。
「いや、私こそ、悪かった。こんな事を言うのも恥ずかしいが、魔が差したのだ。いや、いや……そうじゃない。きみの顔が知りたかった。こんな事を言うと言い訳に聞こえるだろうが、きみがこの町にいられないという、その理由を確かめずにはいられなかったのだ」
 彼はフードで顔を覆い直し、その陰から伺うようにラインダール氏を見た。
「申し訳なかった」ラインダール氏は繰り返した。謝らずにはおられなかった。「悪意ではなかったことを、どうかわかって欲しい」
 彼は小さく頷いた。
 それから、彼は溜息をついた。
「私が、人の中にいられない理由がわかるだろう」その声は嫌みではなく、いつものように静かで、諭すような響きさえあった。「私は、人の中にはいられないのだ」
 それが顔だけのことを指しているのか、それとも顔を見られて激昂してしまう精神のことも言っているのか、氏は、尋ねることが出来なかった。彼の言わんとしていることがどちらの意味だったとしても、たしかに彼が人と交わって生きるのが難しいことが、わかってしまったせいでもあった。
 かわりにこんな問いかけが氏の口を突いて出た。
「きみは、いったいどんな人間なのだね。その顔を隠しながら、ずっと独りで旅をしてきたのかね?」
 彼は短くそうだ、と答えた。 
 その一言は、本当に一言で、悲しいくらいに短かった。そして短さに比べて今や意味はあまりにも重かった。その重さを受け止めきれず、氏は大きく息を吐き出した。
「……神は、何故こんなむごいことをなさるのか」
 彼は伏せていた顔をわずかに上げて氏を見た。そんな彼を氏は見つめ返した。氏の目にはまだ彼の右顔が焼き付いていたし、それは恐らく一生忘れられないものではあったが、悪しきものとは、その時はもう思わなくなっていた。
「なあ、きみ。そうは思わんかね? きみほどの才を持つ者が、どうして人目から隠れて生きねばならんのかね。おかしなことだ。神がこの世にありながら、どうしてこんな理不尽が起こる」
「その答えを私は知らない」
 彼は静かな口調で言った。
「……けれど、もし神がたしかにおわすというなら、少なくとも、私はその祝福を受けるに値する人間ではなかった。むしろ私は罰せられるべき人間だった。それは遠い昔の私で、今の私は多少なりとも変わったが、しかしそれでも私は私だ。私は過去に、とても恐ろしい事をした。到底償い切れぬほどの罪を犯してきたのだ」
「まさかその罰で、その顔になったと言うのではあるまいね」
「いいや、そうではない」彼は沈んだ口調で言った。「私はこの顔のせいにして、罪を犯した。確かにこの顔が原因であったことも、全くなかったとは言うまい。しかしそれがすべてではなかった。私は本当に、惨いことをしたのだ。そのために私はとても大きなものを……あまりにも大きなものを失いもしたが、それでもなお(あがな)い切れたとは思わない。とても償いきれないし、とても許されるようなことではない、あなたにも話せないようなことを私はしてきたのだ」
 信じられない、と氏は呟いた。呟きながらも最前の彼を思い出し、もしかしたら有り得ることかも知れないとも思った。
「そう、あなたは今し方、その昔の私を垣間見たろう」彼はまるで氏の心を見透かしたように言った。「だからわかるはずだ。私は、ああいう人間だった」
「しかし、今のきみからはとても想像できないよ」
 氏の言葉に彼はわずかに微笑んだ。
「……三日前に、あなたは私に言ったね。私は神の祝福を受けるべき人間だと」
「ああ、言ったとも」
「私は神を知らない」彼は微笑んだまま言った。「そして私は祝福など受けるに値する人間ではなかった」彼は天使のような優しい声で続けた。「それでも、そんな私に差し出された救いの手があったのも確かだ。あれをこそ……祝福と言うのだろう。そんなことをずっと考えていたよ」
 それから彼は、ラインダール氏に対して今日はもう帰るように勧めた(その頃、「彼」はその鐘楼で寝起きを許されていた)。氏は思わず不安になって尋ねた。
「明日、私がやってきたら、きみはもう居なくなっているなどということはないだろうね」
「そうしたいのは山々だが」彼は本当か嘘かわからない調子で言った。「しかし、私はまだ……祈ることが出来ずにいる」
 後半の呟きは、氏の耳には独り言のように聞こえた。
 
 
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