Over the Music of the Night

 
 
 
 その翌日、ラインダール氏は普段よりずいぶん早く鐘楼へ向かった。「彼」はああ言ったが、やはり去ってしまったのではないかと不安だったと言う。しかしそんな氏を、彼は苦笑混じりに出迎えた。
 特別と言えることはその一度きりで、彼と氏の関係はおおむね元のように修復された。氏はたまに彼のフードに隠れた顔を思い出し、思わず目線を逸らしてしまうことがあったが、彼はそれについて何も言おうとはしなかった。
 他に変わったことと言えば、それまで晩の鐘を奏でることの多かった彼が、朝か昼の鐘を奏でる機会を増やしたことだった。晩の鐘を多く弾いていた頃に比べ、胸の痛くなるような切なさが彼の音楽から消えた。氏との間にあんな事があったにもかかわらず、彼の奏でる曲は豊かで、優しさを増したように聞こえた。
 それはもちろん、町の人々の耳にも明らかだった。一目、謎の名演奏者(カリヨネア)の姿を見ようと、時折、人々が塔の前に集うようになった。それをラインダール氏がどうにかごまかしてやり過ごすことも限界になろうとしていた。
 そんな中、いつものように晩の鐘を奏でて、彼らが翌日、誰がいつ弾くかを決めるときになって「彼」は言った。
「明日の朝の鐘は、私に弾かせて欲しい」
「もちろんかまわないよ」
「それを最後に、私はこの町を離れようと思う」
 氏は慌てて彼を見返した。彼は静かな目をしていた。
 ラインダール氏は彼を咄嗟に止めようとして、思いとどまった。それが難しいことが氏には良くわかっていた。
 氏は、ただ溜息をついた。
「仕方のないことなのだね」
 彼は頷いた。
「……せめてそうした決心は、もう少し早く言ってくれないかね。別れの晩餐でも準備したいのに今からでは女房に頼むこともできんじゃないか」
「すまないね」彼は一瞬だけ笑みを浮かべた。「私にとっても、突然決まったことなのだ。祈ることができると、ようやく思えるようになったのでね」
「……きみは初めから祈りと口にしていたな」
「そう」彼は目を閉じて頷いた。「祈るために。私にはそれがどうしても必要だった。だが、今回は、もう無理かと思ったよ。ここの責任者があなたで良かった。あなたには感謝している」
 彼は真摯に語った。が、残念なことに、彼の言うことは氏にはほとんどわからなかった。
「何を言っているのかわからんよ」
「そうだろうね」
「まあいいさ。……きみさえ良ければせめて私の秘蔵のワインでも持ってこよう。それで別れの杯くらい交わそうじゃないか」
「いいのか?」
「できればきみを引き留めたいが、思えばきみの演奏を耳に出来ただけでも私の人生の僥倖だよ。そのくらいしても罰は当たるまい」
 氏は片目をつぶり、一度家にとって返した。宣言どおり、特別なワインと夫人に作らせたつまみを持って再び鐘楼に戻った。
 

「本当に持ってきたね」
 「彼」は笑って言った。
「私は約束を守る男なのでね」
 氏は答えた。
 そこで氏は急にばつが悪くなって、氏自身が言うには照れて語った。
「ただね、たしかに秘蔵は秘蔵なのだが、味の保証はできんのだ」
「その気持ちが嬉しい」彼は静かに言って、しかしそれから笑みを漏らした。「どこの品だね?」
「ブルゴーニュ」
 その瞬間、彼の瞳が微動した。
「シャニィ……」
 彼はそんな単語を呟いた。その時の氏には意味がわからなかった。後に調べて、氏はフランスのブルゴーニュ地方にそんな名前の町があることを知った。
 「彼」は表情を消して言った。
「……ブルゴーニュなら、名産地だろうに」
「まあね。おまけにそれなりに寝かせた品だ。……ただ、これが樽詰めされる前に戦争があってね」
「戦争?」
「ああ。だから、あまり手が掛けられていなかったんじゃないかと言われているのだよ。そのお陰で、私にも手に入れられるくらいの値ではあったのだがね」
 言いながら、氏は麻袋からボトルを取り出し、ラベルを彼へ向けてテーブルに置いた。
「ブルゴーニュ産の赤。1870年の物だ」
「お……」
 それを見た彼は、大きく目を開いてひと言喘いだ。テーブルに突かれた彼の手が震え、彼の身体も震えた。彼は顔を手で覆い、それからもう一度そのボトルを見た。
 打ち震える彼に、ラインダール氏はもちろん驚いた。
「どうしたのかね? 具合でも悪いのか」
 彼はわななくように首を振ったが、ラインダール氏は不安になった。
 思えば生まれ持っての奇形だという彼の言葉を信じていたが、あるいは戦傷ではないのかとまで、氏は考えた。
「大丈夫かね……」
 しかし彼は頷いた。彼のあえぎはほとんど嗚咽のようになっていたが、それでも彼は頷いた。
「すまない……驚かせた。ただ、こんなことがあるのかと……。なんと言えば良いのだろう。これも何かの導きか? これも与えられた幸いか?」
「きみが何を言っているのか、私にはわからんよ」
 当惑する氏に対して、彼はもう一度頷いた。
「そう」彼は息をついた。頬には涙の伝ったあとがあった。「それを説明するには、長い話をしなくてはならない」
 そして、彼は彼の物語を始めた。
 
 

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