Over the Music of the Night

 
 
 
 それは長い物語だった。「彼」の古い、忘れがたい出来事だった。
 その話の中には繰り返し繰り返し、ひとりの女性が出てきた。彼はその女性を「彼女」と呼んだ。名で呼ぶことはなかった。恐らく実在するであろう「彼女」が何者であるか、知られることを憚ったのかも知れない。
 彼の話の中で、「彼女」は始め小さな少女だった。その話では、身よりのないというその少女に、彼はある種の共感を抱いたように思われた。彼は、彼女に姿を隠したままで歌を教える。彼との絆が結ばれて行く中で彼女は成長し、やがて美しい、美しい娘になった。
 彼の口を通して語られる彼女は、美しかった。
 濃く豊かな髪。真白い肌。若くたおやかな肢体。天までも届く声。そして、「彼」のことを亡き父親が送ってくれた<守り神>だと信じ続けた、孤独で純粋な魂。
「私は彼女に焦がれた」
 彼はラインダール氏に言った。
「私は、彼女を愛していた。……そう、私はその気持ちを愛と呼ぶ。だが、それが愛と呼んで許される感情であったのか、今の私には定かでない。けれど他のどんな名が付けられる? 私は彼女さえ居てくれれば良いと思っていた。ただ彼女だけを求めていた。こんな顔の私を、彼女が受け入れてくれることを──絶望していたが──しかし夢見ていた。切望したのだ」
 やがて、いくつかの出来事が起きた。
 彼女の前にひとりの青年が現れた。青年はいささか身分が高すぎることを除けば申し分のない若者だった。若者は彼女の昔なじみであるらしかった。二人は再会してすぐに親しくなった。
 「彼」は自分を抑え切れなくなって、彼女の前についに姿を現す。けれど彼の秘密を暴いてしまった彼女は、彼を恐れた。怯える彼女を守ったのは、その誠実な若者だった。
「私は狂った。……狂ったのだ、と思いたい」
 そして彼は、彼女を連れ去り自分の側に置くために、あらゆる手を尽くす。その中には、かつて彼が言った<とても恐ろしいこと>、凶行と呼ぶべき行いもあった。そうやって彼は最終的に、無理矢理彼女を連れ去ることには成功した。
「彼女は、そのとき初めて私に怒りを見せた。……私はずっと後になってその事に気づいた。おろかなことだ……。私は本当におろかだった。彼女は私の顔を見て恐れ、私の影に怯えてはいたが、あの日まで私を嫌悪したことはなかったのだ。彼女は怯えながらも、私を哀れんでいた。時折たしかに、親愛の情と尊敬を向けてくれていたんだ。だが、あの頃の私にはそれが理解できなかった。なぜなら彼女は私の顔を見たからだ! だから、どうしても、どうしても、私にはそれがわからなかった」
 そんな彼に、彼女は告げたという。「歪んでいるのはあなたの顔ではなく、その心よ」。
 しかし、すべては遅すぎたと彼は述懐する。私は手遅れだった、と。彼は最後には彼女の恋人になった件の若者の命を質に取り、彼女に自分の側にあるよう迫った。
「そこで、彼女の幻想は完全に絶たれた。彼女の前には、私の忌むべき魂の醜さだけが残ったろう。あのとき彼女は、私を憎んだ。私のこの顔ゆえにではなく、ただこの魂ゆえに。……だが、私はね」
 この痛ましくも恐ろしい物語を固唾を呑んで聞いていたラインダール氏に、彼はほんのわずか顔を歪めるようにして笑って見せた。
「私は、そのとき勝利を感じていたよ。勝利……いや、あれは本当に勝利の予感だったろうか? ……わからない。私は絶望してもいた。私が本当に望んだものは、もう決して手に入らないと思っていたようにも感じる。しかし、彼女を得られることはたしかだった。若者は命がけで、私との取引に応じないよう彼女に叫んでいたけれど、彼女があの男を見捨てられないことを私は知っていた。だから私は彼女を得られると、確信していたんだ」
 彼はそこで一度言葉を切った。彼は長い時間を掛けて息を吐き出した。
 そして、おもむろに立ち上がった。
 彼は床を見つめて佇立(ちょりつ)した。まっすぐに立ち、口を閉ざし、(こうべ)だけをわずかに垂れた。その姿にはこれから神の前で懺悔しようとする者のような厳粛さすらあった。その厳かな空気にラインダール氏までも座っていてはならないような気になって、氏もまた共に立ち上がった。
「……彼女は、青年に向けて何かを呟いた。私はそれを見ていたし、わかろうとすれば彼女が何を言ったかわかるはずだったが、知りたくはなかった。それから彼女はゆっくりと私を見た。そう、彼女は、私を見ていた。彼女は……」
 彼の目は宙をさまよった。彼の目には、正にその時の彼女の姿が映っているかのように見えた。その身体が小さく震えた。彼は、わずかに嗚咽を漏らした。
「なぜだろう? 彼女の顔からは憎しみが消えているように見えた。彼女は、ひどく、ひどく痛ましい顔で私を見ていた。彼女は私を『なんて不憫な闇の生き物』と呼んだ。彼女は私に近づいてきた。あれほど哀しく、あれほど痛みに満ちた人の顔を、私は見たことがない。なぜ彼女はそんな顔を……? 彼女はまた言った。『あなたはいったい、どんな人生を送ってきたの?』。……私は、ただ近づいてくる彼女を見ていた。彼女がなぜそんな顔をするのか、私にはわからなかった。彼女の言葉の意味を、考えもしなかった。その時でもまだ、私の胸は勝利と絶望だけでいっぱいだったのだ。だが、今はわかる。あのとき彼女は私を見ていた。この私を。仮面を外した私の顔を。何より彼女は私の人生そのものを見ていたんだ……!」
 彼はラインダール氏に背を向けた。彼は両手で顔を覆い、背を震わしながらしゃべり続けた。
「彼女はまっすぐ私に向かって歩いてきた。彼女は私の目の前に立った。彼女は言った。『主よ、わたしに勇気をお与え下さい』。『その強さで、あなたがひとりでないことを示しましょう』。そして彼女は……彼女は私に口づけた! …………私はね、それまでキスというものを知らなかった。私は誰にも口づけたことがなかった。口づけられたこともなかった。そんな私に、彼女は口づけたんだ。私のこの歪んだ顔にためらいなく触れて。ねえ……あなたにわかるだろうか? そうして私を見上げた彼女が、私の目にどんなに美しく映ったか。彼女は静かに私を見ていた。変わらずそこに生きて、私の側に立っていた。そして、彼女はもう一度私に口づけた……! ……彼女は、彼女は一度は私を憎みすらしたのだよ? 彼女は紛れもなく私を憎んだはずだった! 私はそれだけのことを彼女にしたのだ! ……それなのに彼女は私に口づけてくれた! それも二度も!」
 彼は大きく喘いだ。何度もしゃくり上げた。
 やがてそれが落ち着くと、彼はゆっくりと天を仰いだ。
 

「……私は、あの時の彼女を表すことばを今も知らない。
 あのとき、彼女は天使だった。神に遣わされた存在そのものだった。
 私はそれまでの人生で、ただひとつの小さなキスを求めていた。
 彼女は私に、その口づけを与えてくれた。
 けれど、彼女が与えてくれたものは口づけだけではなかった。
 あのキスを通して、彼女はそれより遙かに大きなものを私に注いでくれたんだ。
 彼女は私の人生を見た。私の絶望を感じてくれた。
 だから彼女は、そんな私がひとりではないことを伝えるための者になろうとしていた。
 ……見返りを求めず、彼女自身の人生すらなく……。
 あの時、彼女はすべてを捨てて、彼女のすべてを私に与えようとしてくれたんだ──!」
 

 彼はそれだけ言うと、大きく背を折り曲げ両手に顔を埋めて嗚咽した。嗚咽はこらえきれず、すぐにむせび泣きへと変わった。そのむせぶ声に混じって、二度、彼はたしかにひとりの女性の名を呼んだ。彼の通る声はラインダール氏の耳にも届いたが、氏はそれを記憶の中に封じ、その女性の名を、決して口外することはなかった。
「……私は知った」彼は涙に混じって言った。「私が愛というものを知らなかったのだと知った。何の見返りも求めず、自分自身のためには何ひとつ求めず、ただ他者のためにあろうとする──私は夢見たこともなかった。そんな心がこの世にあることを、私は想像したことすらなかったのだからね。……それから彼女は当たり前のように私を見て微笑んだ。……彼女は、美しかった。私にはあまりにも美しすぎた……。おろかな私の思い込みや、私の中を黒く塗りつぶしていた世界への憎しみも、彼女が与えてくれたものの前では無力だった。そんなものは彼女の前ですべて浄化されてしまったのだ! ……ああ、そうだ……。あれをこそ、まさに祝福というのだろう。けして許されるはずのなかった私は、それなのにこの世のすべての幸いを与えられた! そして……そしてね。私は絶望した。今までのいつより絶望したんだよ」
「どうしてだ」それまで黙って聞いていたラインダール氏が、思わず声を上げた。「きみは救われたのではないのかね。なぜ絶望する必要がある?」
「だって、そうじゃないか? 私は彼女の真の美しさを、そのとき初めて理解したのだよ。彼女が真の天使であったことを、あの時、初めて知ったんだ。そして私は彼女を愛した。真の意味で、心から、……あまりにも深く! ……ではどうなる? 私がこれまでしてきたことはなんだった? 私は彼女をどれだけ傷つけ、どれほど苦しめた? いったいどれだけの血を流した! ……私は自分が罪を犯してきたことに気がついた。私は、彼女を得てはならなかった。私は、それを許せなかった。救いがたい私に、彼女はそれでも真の愛情を向けてくれた。そんな彼女だからこそ、私は自分が彼女のそばにあることを許すわけにはいかなかった……!」
 彼は組鐘鍵盤(ベイヤード)に寄りかかった。
「私はあまりの絶望に泣き出したよ。愛しているのに……愛しているからこそ……私はどうしても彼女のそばにいてはならなかった。私は彼女から離れた。あの若者に向けて、彼女に向けて、行けと叫んだ。ひとりにしてくれと。彼女はすぐに恋人を捕らえていた縄を解いて、二人は抱き合った。私はまた行けと叫んだ。すべて忘れて、私をひとり置いて行けと! そう言っている私は自分の体を千に切り刻んでいるようなものだった。だが、それでも私は彼女を愛したんだ! 他にどうしようもないほどに!」
 彼はそこまで叫んで力尽きたようにうなだれた。息を吐く音がラインダール氏の耳にも届いた。彼は長く沈黙した。やがて乱れたフードを直し、顔を隠して彼は氏をわずかに振り返った。
 ラインダール氏は尋ねた。
「それで……きみはどうしたんだね?」
「……私は一人、死ぬだろうと思っていた」彼は静かに言った。「自分の命を絶とうと思ったわけではない……。そんな必要もなく、ただ死ぬだろうと……。私は彼女をあまりにも愛した。だからこそ、そばにいられなかった。そしてあまりに愛しているからこそ、離れていなければならないことに、耐えられないと思ったんだよ。とても生きては行けないと……。私を奮い立たせていた世界への憎しみも、もう残ってはいなかった。惜しむものは無かった。私はすべての幸いを得たのだからね……。それ故に、私の未来には絶望だけが残された」
 彼はそれから疲れたように再び椅子に座った。そして、胸元に手を添えた。
「私はね……本当に、そのまま消えてしまうつもりだったのだ。少なからずそれでいいとも思っていた。彼女と共にあれない人生を生きるより、それは救いにも思えたからね。……けれど、そんな私のもとへ彼女が戻ってきた。……私はね、思わず言ったよ。きみを、愛している。私はたしかに彼女に告げた。……思えばそれだけは心残りだったのかも知れない。私は、彼女に伝えたかった。私が今、初めて、彼女を本当の意味で愛したことを彼女に知って欲しかった。そんな私に、彼女は黙ってある物を渡してくれたんだ。とても大切なものだった。その中には彼女の想いが込められていると、私は感じた。それがどんな想いなのか、私は未だにすべてわかっていると思わない……けれど私はたしかにそれを与えられたのだ。彼女は最後にもう一度だけ笑ってくれた。そして今度こそ去っていった。それで、私は生きなくてはならないと思った。私は彼女を見送った。私にとっての夜の調べ、夜の物語はそれで終わった。私は仮面を捨てた。それまでの私の世界を捨てた。そして、私は歩き始めた」
 氏は、彼の向かいに自分も腰を下ろしながら尋ねた。
「……では、きみは……、それから今まで、ずっとひとりで?」
「そう……。時にこうして旅をし、時にはどこかに留まった。人目につかない隠れ家でひとり暮らしていたこともある。……あれから私は独り、生きてきた。彼女と離れてしまった孤独を感じながら、それでも彼女に与えられたものに支えられて」彼は目を細めワインボトルへと目を向けた。「あの出来事があったのが、1869年から(*)……70年。ちょうどこのワインが作られた頃のことだ」
 ラインダール氏も、つられてそのラベルに目をやった。
 氏は再び彼を見た。
「きみが祈るというのは、その女性のために……?」
「そうありたいと、いつも思っている」彼は答えた。「けれど常にそうであったわけではなかった。むしろそうでないことの方が多い……。彼女と共にあれないこの孤独の大きさは、いつも耐え難かった。時に抑えきれないと思う時がある。ただひと目でいい、彼女の姿がもう一度見たいと、どうしようもなく思う時がある。ただひと声……それが私に向けられたものでなくても良いから……彼女の声が聞きたいと。私が生きていることを、彼女に与えられたものに支えられていることを、伝えたいと思う時がある」
「伝えればいいじゃないか。その女性とて、喜ぶのではないのかね」
 だが、氏の言葉に彼は首を振った。
「それは出来ない。それは、決してしてはならないことだ……。私は再び彼女のそば近くに行って、大きすぎる欲望を抱かずに済ませる自信がない。なにより私たちの間にはあまりにもたくさんのことがあった。たとえ再会の喜びがあるのだとしても、彼女の前に姿を現さないことだけが、彼女へのこの愛を示す、私にできる唯一の方法なのだ」
 だからこそ、と彼は言った。
「……私は時折、こうして立ち寄った街の鐘楼に駆け込み、その鐘を弾かせてくれと願うのだよ。私は少しでも遠くに届く、美しい鐘の音に思いを託してきた。『私は今もきみを想い、たしかに生きている。そのことをきみへ伝えたい』。そんな言葉が、鐘の音に乗って大気を震わし、彼女の元にいつかは届くのではないかと夢想しながら奏でる。そうすると私の痛みは薄らぎ、渇きにも似た切望は去った。そして最後には、ただ祈りが残る。私は、私にすべてを与えようとしてくれた彼女へ感謝を捧げる。そして彼女が今もこの世に在ることに感謝し、最後にただひとつ、彼女の幸いを祈る日が来る」
 そう語る彼の声は天使のように優しく、美しかった。
 そして彼は言った。
「……あなたには感謝している。私は今度こそ、自分を抑えられなくなるのではないかと思っていた。それほどに切望は強かった。……この鐘楼の組鐘奏者(カリヨネア)が、あなたで良かった。十分な時を過ごさせて貰った。私はまた、祈ることを思い出せた。……ありがとう」
「私は何もしておらんよ……」
 氏は言ったが、彼は微笑んで首を振った。そして言った。
「これで、私の話は終わりだ」
 

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* 映画では劇中1870年の表記がありますが、1870年から1871年にかけてパリはプロイセン軍の包囲網の中にあったことから、当サイトでは、映画劇中は1869年から1870年にかけてであると設定しています。