Over the Music of the Night

 
 
 
 それから、二人は黙って氏の秘蔵のワインを空けた。
 ワインはその特別な夜にささやかな彩りを添えた。華やかさはないが、滋味豊かな品だった。ゆっくりと二人はグラスを傾けた。少しずつ時を惜しむように、ゆっくりと。やがて、ワインの残りが少なくなった頃、「彼」は言った。
「明日、朝一にあなたは大通りの角にある宿の、いちばん上の部屋に行くといい」
 彼はひとつの宿の名を告げた。それは氏も知っている、町に一つの宿屋だ。しかし、氏は戸惑った。
「宿? 自分の町で宿屋に泊まれというのかね」
「いいや。……その宿に私はひとつ部屋を取っている。ほとんど使わなかったがね……。私の特徴を告げて、中に入れてもらいなさい。顔を隠した男と言えばすぐにわかるだろう。この鐘楼がいちばん良く見える角部屋だ。この町で、あの宿のあの部屋がいちばん美しく鐘の音を聞ける位置にあるのだよ……。そして、そこで待っていなさい。いつもの時間になったら、私は祈りを奏でる。あなたは、私の祈りを聞くだろう」
 そして、二人は別れた。
 翌朝、ラインダール氏はいつもより二時間早く目を覚ました。氏は何度か鐘楼へ行こうかと迷ったが、しかし「彼」に言われたとおりに町の宿屋へと夫人を伴って向かった。宿の女将に告げると女将はすぐに了解した。「あの気持ちの悪い男の知り合いなのかね」と尋ねられたが、ラインダール氏は無言を通した。女将は鐘を鳴らす時間にこんなところにいる氏を奇妙な顔で見送ったが、それ以上は何も言わなかった。
 氏は通された部屋の窓を大きく開けた。
 その日、空は透き通るように晴れていた。まだ初夏には遠い春の朝の風はそれでも暖かく、澄んでいた。
 窓辺に立ち、氏は待った。まっすぐに背を伸ばし、その時をじっと待っていた。窓の下の通りには朝市が立ち、町の多くの人々が行き交っていた。そのざわめきを聞きながら、氏は鐘楼を見ていた。
 やがて約束の時間が訪れて。
 そして、それが起こった。
 

 瞬間。
 その音を聞いたすべての人間は(そら)を見た。
 誰もが同時に青い空をその目にした。
 その時間に特別な鐘が鳴ることを知っていたラインダール氏さえも、思わず目を向けた先は空だった。
 朗々と輝く音が、突如天から降り注ぐ。
 聞いたことのない旋律が、あっという間に空間を満たした。
 光に満ちた音は歌う。
 この世のすべての幸い。
 祝福と祈り。
 天上の光。
 そして、愛──。
 氏は突然我に返った。鐘楼を見た。それがあの鐘の音であることに氏はようやく気がついた。
 その塔から鐘の音が光の輪となって広がるのが、氏の目には見えた。
 絶え間なく鳴り響く旋律が大気中をどこまでも伸びていく。
 氏は思わず階下に目をやった。通りを見た。
 道行く誰もが皆、かすかに口を開けて空を見上げていた。誰も歩いてはいなかった。誰も何も言わなかった。恐らく誰も、それがあの鐘の音だとは気づいていなかった。
 そして誰もがその音を聞いていた。
 旋律はどこまでも広がっていく。
 「彼」の奏でる調べは世界へと響き渡った。
 光とともに豊かな旋律は遙か遠くまで。
 圧倒的な音の洪水が町を包み、天まで届く。
 美しさと優しさは、清く大気と世界に染み渡る。
 やがて響きは風を抜け、千里の距離をも駆けるだろう。
 氏はその音が駆け抜ける(まばゆ)いばかりの軌跡を見た。
 ──これが、夜を超えた彼の「祈り」。
 その響きの意味をただひとり知るラインダール氏は、気づくと窓枠を握りしめていた。
 そして氏は願った。
 どうか届け、どうか「彼女」の元へ届けと。遠い距離を(かけ)る中でやがてこの響きが消えようとも、この旋律がひとつの曲を成さなくなっていくとしても、彼の祈りだけは彼女に届くようにと、いつの間にか氏は滂沱の涙を流しながら祈っていたという……。
 やがて太陽がわずかだけその位置を高くして、音は午前の光に溶けるように消えていった。
「……なんだったのかしら……」
 音が消え、残響も消え、ずいぶんな時間が経ってから、ラインダール氏は妻の声で我に返った。氏は夫人に適当な一言、二言を残して宿を出た。氏は鐘楼へ老いた身体で走った。けれど、300段を超える階段を上りきった先に「彼」の姿はもうなかった。二人が前の晩に酒を酌み交わしたテーブルに、一言、感謝の言葉を綴ったカードが残されていた。
 氏が宿屋にとって返して女将に問いつめても、「彼」はいつも一日分から数日分の宿代を先払いして、最後の支払いがその日の朝までだったことがわかっただけだった。町中で、春も半ばというのに頭から外套を被った男の噂を尋ねて回っても、誰もなにも知らなかった。
 こうして、「彼」は幻のようにその町から消えた。

 
 ──これが私の知る「彼」のすべてです。
 長い話でしたが、記事にはならないでしょう? なにひとつ嘘ではありませんけれど、あまりにも物語のようでね……。
 あの後、この小さな町はしばらく騒ぎになりました。あの朝起こった奇蹟のような音の話で持ちきりだった。あれは神が再び降誕された音だと、未だに信じる者も少なくありません。
 ……ええ。幾人かは、あれが鐘の音だと気づいて私の所へやって来ました。特に、日に一度、組鐘(カリヨン)の弾き手が変わっていたことに気づいていたような人たちはね。その謎の弾き手の演奏があの日を最後に消えたので、すぐにわかったようでした。
 私はやって来た人々に「彼」の話を正直にしました。……今あなたに話して聞かせたほどに詳しくではなくともね……。あの朝、鐘を鳴らさなければならない時間に私が鐘楼にいなかったことや、半面を隠した人物がこの町にしばらく滞在していたことは宿の女将が証言してくれましたしね。
 やがて、幾人かはあの朝の音が「彼」の手による演奏だったとたしかに信じて、この奇蹟の弾き手の話は人々の口から口へと少しずつ伝わって行ったようです。それがあなたの元まで届いた。……そういうことでしょう。
 ……ああ。そうですね。なぜ、私がこんなに詳しい話をするのかと、あなたは疑問に思うのですね。これは「彼」の秘めた、本当に大切な話なのに。
 ただね、お若い方。……もしこうして私が彼の話をすれば、その話は遠く万里を越えて伝わっていくかも知れないではありませんか。この鐘の音より遙か遠くまでね。
 故あって顔を隠さねばならなかった流浪の、けれど奇蹟の音楽家が、彼を救ってくれたひとりの女性を想って今もたしかに生きて、そして彼女のために祈っている。そんな話がいつかは「彼女」の耳にも届くかも知れないでしょう。
 もしそうなるならと、私は祈らずにはいられないのですよ。
 ……さて。私の話も、もうこれで終わりです。
 これから晩の鐘を鳴らしに、この塔を上がらなくては。さすがにこの歳になると上までのぼるのも楽ではありません。私がここの鐘を弾けるのもそんなに長い間のことではないでしょう。
 その前に「彼」の音が聞けて、本当に良かった。
 ここの鐘を聞いて行かれますか? 嬉しいですね。
 ……ほう、それは偶然。あの部屋に宿をとっておいでとは。
 それはいい。
 「彼」の演奏にはかなうべくもありませんが、どうぞ聴いてやってください。
 なにぶん、この田舎町で観るべきものと言えば、この鐘くらいのものですからね。
 

<FIN>

 

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