She is nothing but a girl.

 
 
 
 舞台が終わった。
 クリスティーヌは控え室のスツールに腰を下ろし、ただ座っていた。舞台化粧を落とすわけでもなく、着替えるわけでもなく、ただぼんやりと。
 舞台が引けたあと、彼女がそうして幾ばくかの時間を過ごすのは常のことになりつつあった。それは、一言で言って休息の時間だった。舞台の上で生命も魂もすべて捧げるように歌う、そのあとに、こうした時間はごく自然に必要なものだったのだ。
 けれど、そうして休み、動き出せるようになるまでの時間が、このところ日増しに長くなっている。
 舞台に立ったあと、疲労が激しいのは本当に当然のことだ。彼女の師の要求は決して易々とこなせるようなものではない。天空を目指す『彼』は一切の妥協を許さなかった。必然、クリスティーヌもまた、彼のために歌うその時、文字通り全身全霊を捧げることになる。だから、カーテンコールの拍手に応える頃には、頭から血が引いていく音を聞くことも珍しくはなかった。けれど、それを厭うたことはない。そこまでして初めて舞い上がれる、たどり着ける場所があることを彼女は知っている。
 ……けれど疲れている、とクリスティーヌは思った。
 ひどく疲れている。
 行儀が悪いと思いながらも、クリスティーヌは肘を鏡台の天板に突いて、軽くこめかみを押さえた。控え室に飾られた花の香気にすら今は気分の悪さを覚える。
 クリスティーヌに届けられる花の贈り主は、彼女が舞台に立つ度にその数を増した。贈られる花の量はさらに増えた。今では到底彼女の控え室には納まりきらず、花はオペラ座の端々に飾られ、あるいは皆に振る舞われている。
 このうら若きプリマドンナに捧げられる花に満開のものは少なかった。花はほころび始めたばかりのような可憐な出で立ちが多く、色も白を混ぜたような風合いの優しい花がほとんどだった。だから、花を分けてもいやがられることはまずない。例外は真っ白な花ばかりでできた花束くらいのもので、そんなお弔い用のごとき花束が贈られてくることは、さすがに少ない。
 けれど、たとえ珍しいこととはいえ、そんな真白い花束が贈られることもたしかにあった。そして、それはむろんのこと、弔いを意味した悪意あるいたずらなどではなかった。
 その白い花束は、オペラ座に集う人々の「クリスティーヌ・ダーエ」に対するイメージを端的に物語っていた。彼女自身も、それに気づいている。
 『天使』と、舞台で歌うようになってから、幾度呼ばれたかわからない。
 クリスティーヌのもとに届けられる崇拝者たちからの手紙には、彼女の歌声を崇め、役への理解を讃え、抜きん出た美貌に恋いこがれる言葉が熱心につづられた。引きも切らさず送られてくるその手紙の中では、女神(ミューズ)や聖女と言葉は変わっても、皆がクリスティーヌ・ダーエを舞台に舞い降りた奇跡のように崇めていた。
 クリスティーヌは息を吐いた。
 頭の隅に鈍い痛みを感じる。
 肩も重かった。
 そんな自分の肉体を彼女は感じる。周囲の誰とも、さして変わりのないものだと彼女は思う。
 それは事実として、そのとおりに思われた。
 彼女自身には特別なことなど何もない。彼女はただの、年若い娘だった。少しばかり顔形は整っているかも知れないが、ダンサーの中には美しい娘などいくらもいる。歌声がすぐれているのは、彼女を持って生まれた力以上に引き延ばした天才がいたからだ。役の解釈に秀でているのも同じ。ましてや、彼女は重力から自由になれるわけでもなく、その背に翼を持っているはずもなかった。
 けれど、人は彼女を天使と崇めるのだ……。
 クリスティーヌはノックの音に我に返った。彼女は慌てて時計をたしかめた。控え室に戻ってから、まだ十五分とは経っていない。そのことにクリスティーヌは軽く安堵の息を漏らす。それから、彼女は扉を叩く相手に応えた。
「やあ」
 ごく軽い挨拶とともに花束を抱えて入ってきたのは幼なじみだった。このオペラ座のパトロンでもある子爵。そして、彼はクリスティーヌと<幽霊>の秘密を知るごく少数の一人でもあった。誰よりも知っていると言っていいほどだ。それでいながら──あるいは、だからこそ──暗黙のうちに、表向きはクリスティーヌの恋人に見える役所を演じてくれているのもこの青年だった。富にも地位にもおよそ不自由することのない紳士たちからクリスティーヌ・ダーエを守るためには、<オペラ座の幽霊>ではなくオペラ座のパトロンの方がはるかに有意だったからだ。
 隠し事をする必要のない友人の姿に、クリスティーヌは肩が軽くなるのを感じた。
 だが、一方のラウル・ド・シャニィはクリスティーヌの顔を見てにわかに顔を曇らせた。
「……疲れているようだね。邪魔したかな」
「いいえ、大丈夫」
 言って、クリスティーヌは唇の両端を上げて見せた。
 

 ラウルはいつものように花を脇に置くと、ストールの横に膝をついた。
「今日も本当にすばらしかった」
 それは決まり切った文句になりつつあったが、彼はまじめに言った。今日に限らず、その言葉が本心でなかったことは、これまで一度もない。
「ありがとう」
 クリスティーヌが口にしたのも、型どおりの言葉だった。
 人目のある所──つまり、クリスティーヌに少しでも近づきたいという紳士たちの集う場所を除けば、彼らの間には、こうした礼儀正しい距離感が心がけられていた。
 けれど、いつもは当たり前の返事を、それでも真摯に返してくれる彼女の目が、今夜はどこかうつろであることにラウルは気がついた。実際、クリスティーヌの顔色は悪かった。
「どうかしたかい?」
「いえ……、あなたの言ったとおりね。少し疲れているみたい」
「公演が多すぎる?」
「そんなことないわ」
「じゃあ、何かあった?」
 クリスティーヌは一度沈黙する。彼女は首を横に振った。
「いいえ、何もないわ」
「……僕が聞いてはいけないことだったかい?」
「そうじゃないの」クリスティーヌはすぐに否定した。それから、「ただ……」と口にして、そのまま口ごもった。
 ただ?と聞き返そうとして、ラウルはそのまま口をつぐんだ。うつむいたまま黙ってしまった彼女を、黙って待った。
「ねえ、ラウル」クリスティーヌが顔を上げた。「わたし、きちんと歌えていた?」
「え?」
「今日のわたしの歌、だめではなかった?」
 ラウルは軽く驚いた。呆れた、と言い換えてもいいかもしれなかった。彼女の歌が駄目だとしたら、この世に聴けるものはないだろう。
「すばらしかったよ。本当に、すばらしかった」それだけは真剣に答えて、ラウルは少し笑った。「あんまりすべてを捧げて歌うから、倒れるんじゃないかと、それは少し心配になったけれどね」
 ラウルの軽口にクリスティーヌも微笑する。
 それから、どちらともなく真顔に戻った。クリスティーヌの表情は、明るくなかった。
「……どうかしたかい?」
「いえ……本当に、なにもないわ」クリスティーヌは言う。「本当に……ただ、わたし、きちんと歌えていたかと思って」
 ラウルは思わず溜息をついた。
「今夜の君がちゃんと歌えていなかったと言うなら、世の中に歌と呼べるものはなくなると思うけれどね」
「そう……」
 最大級の賛辞にも、クリスティーヌは心動かされた様子がない。彼女は元々伏せがちだった目を、そのまま静かにつむった。
 しばらくして、クリスティーヌが目を開けた。
「ラウル」
「なんだい?」
「わたし……天使のように歌えている?」
 なんだって? そう聞き返しそうになるのを、とっさにラウルは留めた。
 留めたが、クリスティーヌの質問は彼の意表を突いた。彼女が自分自身を天使と標榜することは、まず考えられなかった。想像したこともない。
 尋常ではないと思った。
「──歌う君は、本当に、天使そのものだよ」
 だから、慎重にクリスティーヌの様子を見つめながらラウルは言った。
 同時にその言葉に偽りは一点もなかった。クリスティーヌの歌声には常に奇蹟が宿った。神がこの世に在ることを知らしめるほどに圧倒的だった。だが、たとえ歌わずとも、ラウルはクリスティーヌの中に天使を見た自分を知っている。彼女がありのままで示した奇跡のような愛情を、彼もまたすぐそばで目にしたのだ。
 だが、ラウルはそれを口にすることはしなかった。それは、あの奇跡を注がれた者だけが告げて良いことに思われた。
 ラウルの沈黙をどう思ったかわからない。クリスティーヌが細く息を吐いた。
「……ラウル、わたしは、天使じゃないわ……」
 そこで、膝上で固く握られた小さな両手が震えていることにラウルは気がついた。
「わたしは天使じゃないのよ」
「クリスティーヌ……」
 その手にラウルは触れかけて、やめる。
 代わりに微笑んで、努めて穏やかに問いかけた。
「『彼』と、何かあった?」
「いいえ、何もないわ」
 クリスティーヌは本当に、と何度も繰り返す。それから、不意に彼女は顔をゆがめた。
「……だって、わたし、何もできない。彼に何もしてあげられないのよ」
 
 
 

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