She is nothing but a girl.

 
 
 
 泣き出す寸前の表情で、クリスティーヌが続けた。
「『彼』は、わたしをひどく特別なもののように扱ってくれる。……彼はわたしの中に天使を夢見てるのよ。それなのに、わたしは彼に何もしてあげられない。当たり前よ。わたしは本物の天使じゃないもの。わたしは……」
 そこでこらえきれなくなったのか、クリスティーヌは顔を手の中に伏せた。てのひらで押さえられた口から、小さくくぐもった呻きが聞こえた。
 クリスティーヌは、天使ではない。
 その姿を見て、ラウル・ド・シャニィはそんな当たり前のことに改めて思い至った。
 クリスティーヌ・ダーエは天使ではない。それは、彼女がどれほど清く美しい容貌をしていようと、その歌声で舞台上に圧倒的な光を呼び起こそうと、間違いのないことだった。たとえ、奇跡のような愛情でひとりの男を救ったことがあってさえも、彼女は天使ではなく人だった。彼女の年格好を思えば、クリスティーヌはまだなんの力もない──言葉を選ばなければ、ただの小娘に過ぎないのだ。
「わたし、本当に、何もできない……」
 そう言ってラウルの前で涙を流すクリスティーヌは、自分の非力に苦しむ少女以上の何者でもなかった。
 だから、ラウルは努めて優しく声を掛ける。彼は自分の中にその優しさを思い出した。
「そんなことは、ないだろう?」
 ラウルの言葉を、クリスティーヌはがんぜない子どものように首を振って拒絶する。
「きみがしてあげていることがあるはずだよ」
「だめなの……無理なの。あなたならわかるでしょう? ……わたしは何も変わっていないの。小さな子どもの頃と……今も、何も」
「……『小さなロッテ』?」
「そうよ。彼を救ってあげたいの。それなのに、わたしはあの頃のままで……。そばにいるのに何もしてあげられないのよ。わたし、歌うことしかできない。前よりも、もっと彼を苦しめている気がする」
 それはきっと違うだろうとラウルは思った。
 あの可哀想な男にとって、クリスティーヌがそばにいてくれることや、自分のために歌を歌ってくれることは、彼女が思っているほどに無価値ではないはずだ。
 けれど、同時に、ラウル・ド・シャニィは彼女の非力もたしかに知っていた。
「クリスティーヌ、顔を上げて。きみは、自分にできないことがあることを、責めてはいけない」
 クリスティーヌは少しだけ顔を上げてラウルを見た。どこかぼんやりとしたその表情には、ラウルの言葉に対する疑問が浮かんでいた。
「きみが、自分で言ったとおりだよ、クリスティーヌ。きみは、天使じゃない」
 ラウルは一言一言、丁寧に区切って言って聞かせた。
「きみは当たり前の、『人』なんだ。まだ若くて、女性で。できないことは、あって当たり前だ」
 そうだろう?と確かめれば、クリスティーヌの肩から力が抜けた。
「ええ、そうよ……そうなの」
 彼女は弱くうなずいた。うなずいたまま、顔を上げず、手で顔を覆った。
 そうしてうなだれるクリスティーヌは、舞台の上で神々しく輝く彼女ではなかった。間違いなく人以外の何者でもなかった。そして、ラウルは、このか弱く、今にも折れてしまいそうなクリスティーヌを知っていた。おそらく誰よりも。
 クリスティーヌは天使ではない。ずっと昔から、彼女こそが天使を待つ者だったのだ。クリスティーヌは、天使の歌声を聞ける「小さなロッテ」を羨むだけの少女だった。そんな彼女自身は、天使と崇められることはおろか、歌が上手くなりたいと望んだことさえなかったように思えた。幼い日のクリスティーヌは、ただ天使が奏でるというすばらしい音楽を聴きたがっていた。そして、父親を亡くしてからは、残された「天使を贈る」という約束だけを救いにしていた。
 だからこそ、ラウルはクリスティーヌを守る者になろうとしたのだ。輝く奇跡ではない、孤独な彼女の支えになりたかった。
「クリスティーヌ、手をどけて。僕の話を、聞けるね?」
 クリスティーヌは言われるままに手から顔を上げた。すがるような目がそこにあった。ラウルは彼女の手を両手で包む。掌に濡れた感触があった。
「……きみは変わったよ」
「え……?」
「きみは自分が昔のままだと言ったけれど、きみは、とても変わったよ。以前のきみは、きみこそが助けを求めていた。怯えて、震えていた。『彼』にだって、同情して涙を流すことはあったかも知れないけれど、こんな風に、彼を助けようとして、自分の無力に涙を流すことはなかったはずだ。それは、とても大きな違いだよ。とてもね」
「でも……」
「何もできないと思っているんだね? 今、自分にできることでは不十分だと」
「ええ……」
「だから、きみは今、少し疲れてしまったんだね……」
 彼女は黙って深く頷いた。クリスティーヌの頬を新しい涙が流れ落ちた。
「……それで、きみは、どうしたい?」
「……『どう』……って?」
「……きっと、もう、彼にしてあげられるできる限りのことは、きみはしているんだろう。けれど、きみに、例えば彼の顔を普通の人間のようにして、彼をすべての苦しみから救ってあげるような奇跡はなんて起こせない。人間にそれは無理なんだ。当たり前だね。けれど、それなら、きみはどうする?」
「言っている意味がわからないわ……」
「もう、彼を救うことに疲れてしまった?」ラウルは首を傾げて尋ねた。「彼を救おうとすることを、やめてしまいたいかい?」
「そんなことないわ!」
 間髪入れず返ってきた答えに、ラウルはほろ苦い思いで、しかし微笑んだ。
 クリスティーヌは気づかない様子で言い募った。
「わたしは、あのひとを救いたいの。ただ、何もできない自分がいやで……」
「わかっているよ」クリスティーヌをラウルは宥めた。「よく、わかった」
 そしてラウルは笑った。
「その気持ちを忘れなければ大丈夫だ。自分に何もできない気がして、つらいことはあると思う。それが苦しくて、疲れたと思ってしまうこともあるかもしれない。でも、それでも助けたいと思い続けられるなら、人は頑張れる。……そういうものだよ」
 クリスティーヌは何かに気づいたようにラウルを見つめた。ラウルは静かな気持ちで彼女に微笑むことができた。
「クリスティーヌ。人ひとりが誰かにしてあげられることは多くないね。けれど、支えになりたいと思う気持ちを捨てられない限りは、できることをしようじゃないか」
「ラウル……」
 クリスティーヌの言葉はそこで途切れた。ラウルは、その先を聞こうとは思わなかった。その必要もなく、彼は自分の中に今もなお彼女を支えようという意志があるのを感じた。あの屋上での誓いと同じほどに──今のこれは彼女との誓いではなく、自分だけとの誓いではあったが──おそらく一生をかけて果たされるだろうと、そう思えるほど強く、彼女を支えていきたいと思っている自分を、彼は確かめた。
 やがてクリスティーヌが頷いた。
「ええ……、そうね。そうだわ」
「顔色が良くなってきたね」ラウルは安心して笑った。「もう大丈夫だ」
 彼はクリスティーヌの手を放した。
 

 一瞬離れたラウルの手を、クリスティーヌは思わず握り返していた。
「ラウル……」
 言いたいことがある、と彼女は感じた。つかんだ手を離せないまま、クリスティーヌはしばらく目を伏せた。
 けれど、言葉にして良いものは見つけられなかった。そのまま長い時間が経って、やがて、くすりと彼女は笑った。
「……今、あなたに抱きつきたいくらいなのだけれど……」
 彼女の言葉に、ラウルがわずかに苦笑した。
「それは、さすがにやめておくべきだろうね」
「そうよね」
 微笑んでクリスティーヌは手を放した。ラウルは立ち上がった。
「長居をしてしまったね。そろそろ失礼するよ」
「ええ」
 クリスティーヌも立ち上がる。部屋を去ろうとするラウルを戸口まで送った。何事もなかったかのように、当たり前のような短い挨拶を交わした。
「じゃあ」
 最後にそう言ってドアノブに手をかけたラウルが、ふと、何かを思い出したようにクリスティーヌを振り返った。
「クリスティーヌ。僕は、少しでもきみの助けになれたろうか」
 ラウルはそれを本当に素朴な疑問として口にしたように見て取れた。けれど、その姿はクリスティーヌの胸を打った。クリスティーヌは思わず呼びかけた。
「ラウル」
「うん?」
 彼が曇りのない目でクリスティーヌを振り返る。
 そんなラウルに、クリスティーヌは自然と姿勢を正した。彼の目を見つめ、彼女は言った。
「ラウル。わたしはあなたを尊敬します。──あなたのその優しさと強さを、心から、尊敬します」
 それは、掛け値ない本心だった。この青年は、いつでも、何も惜しむことなく彼女を助けようとしてくれた人だった。彼女が落としたスカーフを取りに海に飛び込んだ、まだ少年だった昔からそうだった。
 ラウルはわずかに驚いたようにその場で立ち止まった。
 しばらくして、ラウルはクリスティーヌへと向き直った。
「さっき、僕はきみを天使ではないと言ったけれど、僕はきみの中に清いものも、得難い慈しみも見た。僕は……」ラウルはそこで一度言葉を切った。「僕こそが、きみを尊敬している。この先も、ずっときみを助けたいと思っているよ。苦しい時があったら、そのことを思い出してくれると嬉しい」
 そう言う彼の表情は、静かに澄んで、明るかった。
 今、誰かを救いたいと思う側になって初めて、その真の強さと優しさを理解したとクリスティーヌは思う。
 クリスティーヌは一歩、前に進んだ。
 彼女は両腕を伸ばす。
 そして、ラウルに抱きついた。
「ありがとう」
 彼女は魂を込めて言った。
 そっと背中に添えられる手の感触があった。添えられた手は、あたたかった。
「……きみの助けになれるなら、それが、僕の誇りだ」
 クリスティーヌは目を閉じて、その言葉を思う。
 そのまま長く抱き合って、それから、どちらともなく離れた。
 二人は顔を見合わせて、お互い静かに微笑んだ。
「わたし、急いで帰らないと」
「うん、行っておあげ」
 クリスティーヌは笑って頷く。
「じゃあ、また。次の舞台を楽しみにしてる」
「ええ、また」
 ラウルは軽く手を上げて控え室を後にした。
 クリスティーヌは扉が閉まるのを見届けてから、すぐにメイクを落とすべくドレッサーへと向かった。気持ちは明るく、軽くなっていた。