Intoxication
 
 
 
 
 彼女は死んでいるように美しかった。



 その娘について話す時、いったい何から語ればよいのか、彼にはおよそ判然としない。しかし、これだけは言わねばならぬということがあるとすれば、それ は、「その娘がおよそ生きている風には見えなかった」ということであろう。
 もっとも、≪オペラ座の幽霊≫などと自称して生きるエリックには、そんな話を語る相手もいはしない。誰かに彼女のことを話そうとする自分を、だから彼はいささ か面白くも感じた。彼は自分がどれほど彼女を見つめているか、知っているか、それを誰かに誇示したいのかも知れないと分析する。だが、おそらくそれは本当 ではないだろう。
 いずれにしても、この一年あまりというもの彼は実によくその娘を観察した。それはたしかだ。
 娘は名をクリスティーヌ・ダーエと言った。思えば、娘を初めて見た時には、その名も知りはしなかった。娘はこの≪彼のオペラ座≫のオーディションに現れ た。そこで見たのが始まりである。正団員のテストなどではなく準団員の募集ではあったが、国立音楽院(コンセルヴァトワール)の卒業時期に合わせてオー ディションが行われるのは幸いというものであろう。その時期に開かれるこの催しは、新政府が芸術の維持にまったく無頓着でないことをささやかながら示し ているように思われた。共和派による粛正の嵐が吹き荒れた直後の荒廃ぶりから考えれば、立派なものである。
 その日のオーディションには、当然ながらその娘と同様に音楽院の卒業見込み者が多かった。彼らはみな若く、すでに老年の域に達したエリックの目から見れ ば、稚い子どもと大差ない。彼らは、彼らにとっての一大行事を前に緊張と興奮に包まれていて、エリックはその場に立ち合うことが好きだった。彼らのまぶし さにはいらだちを覚えないでもなかったが、気に入らない相手には少々のいたずらをしてやることもできたし、もしすばらしい才能があれば、それを拾い上げて やることもできるからだ。もっとも、エリックがこのオペラ座に住み始めてから、そのような才能とはついぞお目に掛かったことがなかったが。
 しかし、その中にあって問題の娘は浮いていた。彼女は明らかに異質だった。──そう、だからこそ、娘はエリックの気を引いたのだ。
 前述したとおり、緊張と興奮に包まれたオーディションの場で、娘はひとり淡々としていた。落ち着いているという程度の話ではなかった。表情は極端に乏し く、とりわけ瞳はうつろだった。娘は目線を天井の辺りに固定していたが、何を見ているという風でもなかった。緊張のあまり少し頭がおかしくなっているので はないかとエリックが疑ったほどだ。それに、同じ学舎で学んだ同窓の友がいるはずなのに、彼女は誰とも口をきかず、また誰かが彼女に話しかけることもな かった。周囲のものには、まるでその娘が見えていないかのようだった。
 実際、その娘を誰も気にとめていなかったとしても不思議はない。彼らはこれから行われる試験のことで頭が一杯であったろうし、ライバルとして意識するに は、娘の存在感はあまりにも希薄だった。その希薄さこそが、エリックの目を止めたとも言える。
 なぜなら、本来その娘は無視することが難しいほど美しかったからだ。金の髪は陽の光で紡いだようだったし、肌は白磁そのものだった。体つきはバレリーナ と言ってもじゅうぶん通用するほどたおやかで、これで歌えるのかと思うほど首も細かった。その首の上に乗った小さな顔は、芸術品のように整っていた。
 そう。その娘はいっそ芸術品そのもの──人形のように見えた。美しさばかりではない。娘は一見すれば人と同じような容姿をしていたが、その整いすぎた容姿と、自我の希薄な顔つきはあまりに違和感があった。一度目を止めてしまうと、彼女ははっきり言って人には見えなかった。生きた人間の中に等身大の人形が何食わぬ顔をして一体混じっているかのようだ。あるいは天使や妖精というものが目に見えれば、こんな風であるのかもしれない。周囲の人間が誰もその娘と言葉をかわさないこともあって、エリックはだんだんと自分にしか彼女は見えていないのでないかという気になった。仮にその娘の背中に突然羽が生えたとしても、エリックは驚かなかった自信がある。
 むしろ、エリックは彼女が本当に生きている人間であったことに驚いた。
 彼女の番が回ってきて、ようやく人々はその娘に意識が向いたようだった。さすがに、舞台の中央に一人で突っ立っていれば、どれほど存在感が薄い人間でも 人目にとまるものである。彼女はクリスティーヌ・ダーエと名乗り、その珍しい姓も少しばかり人々の興味を引いたのだろう。それに、気をつけてみれば、人々 にもその娘が整った容姿をしているとわかったかもしれない。
 それから娘は歌い始めたが、そこでまたエリックは愕然とすることになる。それも、八割方は悪い意味でだった。華奢な見た目に相応しく、娘にはあまり声量 はなかった。高音になると喉を絞るのか、キンキンとした響きを持ったし、低音はじゅうぶんに出ているとは言い難い。もちろんずぶの素人とは比べものになら ないが、国立音楽院の学生としては、ぎりぎりで卒業できるというレベルであろう。
 もっとも、見るべきところが全くないわけでもなかった。彼女の声にはおよそ研鑽というものが感じられなかったが、原石としてみるならば、その素養にはエ リックさえも心惹かれるものがあった。彼女が問題なく発声できる音域で聴けば、その声は澄んで、しかも甘いときめきを呼び起こす何かがあった。清純な乙女 を演じさせればどれほど似合うだろうか。そんな想像を働かせたくなるような声だったのだ。
 しかし、これではとても合格しないだろう、とは思われた。娘には、そうした素養では到底補いきれない欠落を感じた。どこがどうとは言えないが、その娘に は明らかに何かが欠けていた。それも致命的な欠落だった。
 エリックはその日、彼女が一曲目を歌い終わったところでオーディションを見るのをやめた。自分が目をとめた娘の歌があまりにもひどくて聴いていられな かったせいでもあるし、その娘が彼のオペラ座に入ってこないだろうことが、なぜだかひどく残念に思われたからでもあった。
 
 

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