Intoxication
 
 
 
 
 ところが数ヶ月後、娘はオペラ座に入団してきた。これはエリックを本当に驚愕させた。彼は娘の容姿が美しいもの だったことを思い出し、ダンサーばかりでなく、いよいよ歌手までも公娼として扱う気になったのかと本気で嘆いた。
 どうやらそればかりではないらしい、とエリックが知ったのはしばらく経ってのことだ(しかし、彼がその疑いのすべてを捨てることはなかった)。課題曲は エリックが聴いたとおりの出来だったが、二曲目の自由曲は多少なりとも聴くに値する内容であったらしい。それは悲しい曲で、支配人室で目にしたクリス ティーヌ・ダーエの履歴によれば、唯一彼女が音楽院時代に優等賞を取った曲でもあった。つまりは彼女の得意曲ということらしく、それを聞き逃したことをエ リックは少し残念に思った。そして、そんな風に残念に思った自分を不思議に思った。あの娘が多少マシに歌ったとしても、エリックの耳に適うほどとは到底思 われなかったからだ。
 しかし、何はともあれその娘は彼のオペラ座に入り込んで来た。そして、以降エリックはその娘をオペラ座の端々で目にすることになる。
 エリックは当然ながら人目を忍んで行動することが多かった。必然的に彼はひと気の少ない場所を利用することがままあったが、娘はどういうわけかそういう 場所をうろついていた。若い娘などはいかにも嫌がりそうな陰湿な裏通路でも、その姿を見かけることが少なくなかった。何か故あって人目を逃れるようにして いるのかと、そんなもっともらしい理由をエリックが考えたこともあったほどだ。しかし、そうでないことはすぐにわかった。娘は単にめくらめっぽうにオペラ 座の中を徘徊しているだけで、結果として他人が足を踏み入れないような場所も歩き回っているだけだった。だからというわけでもないが、クリスティーヌ・ ダーエが奇矯な娘であることを、エリックはすぐに諒解した。
 エリックはその特異な人生の中で、あらゆる人種、あらゆる人々を見てきた。オペラ座の人間ならばあらゆる角度から見つめてきたという自負がある。だが、 クリスティーヌ・ダーエはその中の誰とも少し趣を異にした。エリックが知っている中で、いちばん近いのは気が違ってしまった女だろう。しかし、今度の娘は 正気といえば正気である。それがより一層理解を困難にした。
 そんな彼女だから、周囲から浮き上がるのも早かった。
 まず第一に、クリスティーヌ・ダーエは歌が下手だった。はっきり言って、オーディションの一曲目、エリックが聞くのをやめた課題曲はまだしもマシな出来 だったことを彼は知る。才能がないわけではないだろう。むしろ素質はあるほうかもしれない。だが、娘の歌声は問題点の枚挙にいとまがなかった。中でも歌声 に生気が欠けている点は致命的だ。彼女はコーラスガールの一人として全体の声量を増やす以外にはまったく役に立たないだろうと思われた。
 第二に、娘は歌唱力と相反して、容姿には恵まれすぎていた。金の髪と青い瞳は、人々の理想を形にしたようだった。エリックは娘が北の国の生まれであるこ とを知ったが、その異国人の少女の美しさはガラス細工のように繊細で、この国の人間にとってはおそらく物珍しくも映ったろう。娘の容姿は一度人の意識に止 まると、当然のことながら注目ややっかみを買うことになった。娘に歌の実力がないために、事態は悪いほうへ転がった。当初は、よくある下世話な疑いを掛け られることが当たり前だったし、実際にエリックもそれを疑った。また、娘の実力を考えれば、その容姿を用いて今の席を手に入れたとしか思えないこともたし かだった。
 第三に、娘は完全に無気力で、あらゆるものに対して無関心だった。これが彼女の最大の特徴であり、人々から彼女を完全に孤絶させる要因となった。その娘 の歌声に著しく生気が欠落していることも、見た目の割に存在感が異様に希薄であることも、すべてがこれに因ると言えた。
 人々は、その娘に好悪を取り混ぜて接近した。娘の美貌に興味を持って近づく紳士は少なくなかったし、娘に興味が集まることを好ましく思わない他の女たち の嫌がらせも、やはり少なくなかった。しかし、それらに対して当の本人はいっかな頓着していないように見えた。彼女の周囲で起きる物事は、彼女に何らの影 響も与えず透過しているようだったのだ。逆に、彼女から周囲に影響を与えることもほとんどなかった。彼女の意識ではどうすることもできない容姿ばかりは周 囲にささやかな影響を及ぼしたが、それ以外の何かが周囲に働きかけることは一切なかったのだ。嫌がらせの一環として彼女は人目につかぬ隅の楽屋においやら れたりもしたが、娘は諾々とそれに従ったし、嫌がらせという悪意自体が娘の中を素通りしていくかに見えた。
 それでも彼女が狂っているわけではない証拠に、彼女の受け答えはまともだった。まれに、彼女に交際を直截的に持ちかける紳士もいたが、彼らに対してだけ は、彼女は明確な意志を示した。彼女は彼らからの申し出を必ず断った。その口調にはやはり覇気というものがいっさい感じられず、冷淡でも反発している風で もなかったが、彼女が紳士からの申し出を丁重に、しかし必ず拒絶する点は揺らぐことがなかった。いや、拒絶と呼べるほど意志の強さがあったわけではない。 しかし、彼女が彼らの誘いを飲むことは決してなかった。どれほど甘い言葉をささやかれようと、時に恫喝されようと、彼女はそのうつろな静けさで、彼らに丁 重に断りを入れた。
 それが若い娘にありがちな潔癖さの現れなら、紳士たちにも理解できたろうし、中には余計、彼女にそそられる者があったかもしれない。しかし、彼女はあま りに敬虔な修道女か、あるいは心のない人形の如くしているので、紳士たちはやがてその娘から遠ざかった。
 その一連の様子を見ていて、娘がオーディションの日に、学友の中にあっても一人であった理由をエリックは理解した。オペラ座でも同様のことが起きたから だ。その極端に無気力な娘を、人々が不気味に感じるようになるまで長い時間は掛からなかった。しかし、放っておけば娘のほうから何か悪事を働くこともな い。クリスティーヌ・ダーエは目に付かぬところに追いやって関わらずにおくのがいちばん良い存在であることにオペラ座の表舞台に立つ人々が気づくまで、大 した時間はかからなかった。
 そうしていったんクリスティーヌ・ダーエから離れてしまうと、人々はそんな娘が今もオペラ座にいることをすぐに忘れた。容姿以外に取り立てて目立つ部分 もない──しかも、その容姿すらも印象の薄さゆえに忘れ去られる──娘は、もはやこの劇場の装飾と大差がなかった。オペラ座にはまことに理想的な容姿を与 えられた女たちがいくつも飾られているのに、命のない彫像であると言うだけで、その女たちに恋いこがれる人間などいないのと等しく。
 オペラ座に集う人々にとって、クリスティーヌ・ダーエも彫刻の女たちと同じように、生きている女とは見えなくなったのだろう。
 
 

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