Intoxication
 
 
 
 
 そんなクリスティーヌ・ダーエの徘徊は、彼女が劇場にやってきて半年が経っても止むことがなかった。この劇場は 迷宮のように広いので、正直に言ってとりわけ賢いとも思われないその娘が劇場の全体を把握しているとは思いがたく、半年経ってもまだ彼女が初めて知るよう な場所はいくらもあるようだった。しかし、さすがにその頃になると、娘はふつうの住人なら到底知らないような場所にまで足を踏み込むようになっていた。エ リックはもちろんそうした場所の存在を知っていたが、オペラ座には、もはやそこに人がいることすら忘れられたような場所にも生きている人間がいるのであ る。
 ある時、娘はそうした場所に足を踏み入れた。
 娘の存在感はオペラ座の表舞台にあっては相変わらずまったく希薄だったが、さすがに暗がりの中で、影と一体化したように暮らしていた人々の目には、そう は映らなかったようだった。影の中で生きていた彼らは、この美の殿堂に住まいながら若さというもの、美しさというものを、気が遠くなるほど長いあいだ目に していなかったに違いない。突然現れたこの美しい娘は、そんな彼らの目にはおそらく輝くばかりに映った。
 娘は闇の中に潜んでいた老人たちの存在に、わずかに驚いたようだった。それから、娘は彼らの領域を侵してしまったことを詫びた。彼女は礼儀正しく、その 声は優しかった。
 クリスティーヌは思わぬ所に人がいた驚きこそ示したが、およそ彼らを厭うという様子がなかった。それが当然であることが、エリックにはわかる。なぜなら 娘は虚無のただ中にあり、その心は何を持ってしても、良いほうにも悪いほうにも揺れるということがないからだ。つまりは老人たちを厭うだけの精神がこの娘 の中には生きていなかった。
 エリックはすでにそのことを重々承知していた。だから娘が老人たちに対して、一見すれば天使のように優しく振る舞える理由が、まったき虚無にあることも 正しく理解した。しかし、それがわかってなお──あるいはわかったからこそ──エリックにとってそれは致命的だった。
「娘さん」老人のひとりが枯れかけた声を出した。「こんなところに、いったい、どうしたのかね」
「オペラ座の中を歩いて回っていたのです」娘は答えた。
「迷ったのかね?」
「どうでしょう……?」娘はまばたいた。「たぶん、迷ってはいないと思うのですけれど」
「それならいいがね。ここは、とても広いからね」
「はい、とても広いですね」
 娘は口を閉ざし、会話は途切れた。彼女の口元は完璧な曲線を描いて結ばれた。その姿は人形が動くのをやめて本来の姿に戻ったように見えた。
「娘さん」とまどったように、また老人のひとりが声をかけた。
「はい」と変わらない調子で娘は答える。
「帰るのなら、気をつけてお帰り」
「はい、ありがとうございます」
 娘は丁寧に礼を言って微笑を浮かべた。娘の青い瞳は変わらずうつろだったが、その場に居合わせた老人たちは、そのうつろさには気づかなかったに違いな い。彼らの目には、おそらく闇にさした光のように、その微笑だけが焼き付いた。エリックは老人たちの表情から、彼らが受けた衝撃を読みとった。エリックに は老人たちの感じた衝撃が痛いほどによくわかったのだ。
 娘は再び優しい声で別れの挨拶をして、たどってきた道を元に戻った。途中何度か迷いかけたようだが、なんとか自力で地上に戻った。娘はなにひとつ特別な ことはなかったように(事実、彼女にとってはなにも特別なことなどなかったのだろう)、その後は日々の生活を普段どおりに過ごした。
 その一部始終をエリックは見届けた。そして、その日の夜、彼は地下の王国に戻ってきてから喩えようのない苦しみに懊悩することになる。エリックは自分が 見てはならぬものを見たことを悟った。
 エリックは老人たちがあの娘から受けた感銘を理解した。オペラ座の陰で、人々から忘れ去られて久しい彼らに、あのように若く美しい娘が優しく声をかけて くれることなど想像だにできなかったろう。突然ふらりと現れ、短い会話を交わしてやはりふらりと去っていった娘は、彼らの目には幻のように、天使のよう に、見えたはずだ。
「おお……」
 エリックは老人たちが感じたに違いない感慨を思い起こし、思わず顔を両手で覆った。
 娘は優しかった。娘は美しく、若さに溢れていた。にもかかわらず、彼女は老いて醜い老人たちを厭うということがなかった。その感動をエリック以上に理解 できる者などこの世にありはしない。
 クリスティーヌ・ダーエのうつろな心は、老いの前にもささやかな醜さの前にも揺らぐことがなかった。
 ならば、あの娘は自分の顔を前にしても揺らぐことがないのではないか──と。
 とうの昔に諦めた、そんな期待が頭をもたげた。エリックは自分を止めることが難しいのを感じた。
 エリックは娘の優しさが虚無によるものであることを何度もたしかめる。それはある意味、むなしさだった。彼女はただうつろなだけだ。そこに愛情が存在し ているわけではない。
 しかし、エリックは悟った。あの虚無こそ、自分にとって唯一の救いでなかったか。
 娘は、ただ老人たちに優しく振る舞った。そんな光景は、おそらくこの世の誰にとっても問題ではない。だが、エリックだけはあの光景を、決して見てはなら なかった。
 
 

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