Sing for me.

 
 
 
 このところ、ファントムはクリスティーヌに対してよく触れてくるようなった。
 いや、これは行きすぎた表現になるか。
 このところクリスティーヌへ触れることに対するファントムの躊躇いは、ようやくわずかながら薄らいできたようだ。なんとも微妙な言い回しだが、実情としてはこの程度がせいぜいだろう。
 しばらく前まではひどかった。彼はよく、明らかに何かを欲する顔でいるのに、何も言わず、当然何もせず、ただ彼女の前に立ちつくしていた。察したクリスティーヌが構わないと言ってさえ、彼から触れてこようとはしなかった。
 まるで穢すのではないかと恐れているようだ。クリスティーヌはそう思った。恐れているという言葉は大げさではない。男はそれほどに頑なで、自らがクリスティーヌに触れることを禁じているかのように見えた。
 対するクリスティーヌの側はと言えば、彼女は触れ合う必要性を感じていた。彼を抱きしめてあげたくて、彼女はここに残る道を選んだのだ。それなのに遠のくばかりでは意味がない。したがって、彼女はことあるごとに自分から彼への接触を試みなければいけなかった。
 オペラ座という環境にありながら、亡父の御霊の枠の中にあったクリスティーヌは、その実、特異なほど純真に育った娘である。男性に自分から触れるなんてはしたない、慎みがないと思われるのではないかとは彼女なりの気がかりだった。それでも日々ささやかなキスや抱擁を心がけて、今では挨拶のキスや出かける前の軽い抱擁からぎこちなさは薄れようとしている。少しずつではあるが、彼からもクリスティーヌに触れてくることができるようになった。
 それでもオペラ座の幽霊を称した男は、今なお触れる前に構わないかと了承を得たり、そもそも願いを口に出すまでに時間が掛かったりと、クリスティーヌが了解した後でさえ手を伸ばす時はおずおずと消極的だ。
 そんな中で、男がクリスティーヌを抱き寄せるときには腕をしっかり回すようになり、触れ合う時間そのものも長くなっていることは、ともすれば奇跡的な進歩と言えた。
 休む前のひとときを寝台に積み上げたクッションにもたれて過ごす。それは、そんなふたりの最近の日課だった。男はクリスティーヌの腰に腕を回し、時には肩に頭をもたせかけることもある。
 かといってそれ以上の何かがあるわけでもないのだが。
 立派な男性と一緒にいるというより、人見知りの大きな子どもの相手をしているよう──、とは、クリスティーヌが薄々ながら、しかし常々思っていることだった。かくいう彼女だとて子どもと呼ばれる歳をいくつも出てはいないのだが、そうとしか思えないのだから仕方がない。あるいは大きな犬か猫だろうか。クリスティーヌはさらにそうも考えた。
 人に触れられることに馴れさせるという辺り、こちらの方がより適当であったかも知れない。
 そう言えば、小さい頃は大きな犬が飼いたかったわ……。
 クリスティーヌはなんだか可笑(おか)しくなって苦笑混じりの溜息を漏らした。
「クリスティーヌ?」
「え?」
 眠っているかのように静かだった男に急に呼びかけられて、クリスティーヌは少し慌てた。今の溜息を聞かれてしまったのだと気づくと、途端に彼女の気分は重くなった。彼とともにいる時に溜息をつくことや物思いにふけることは、おおむねにしてこの相手に要らぬ猜疑を抱かせる。それがわかっているのに気を緩めてしまったことが、クリスティーヌには悔やまれた。
「どうした?」
 案の定、尋ねる男の声は少し低い。男はこんな時に限ってはかつての威圧感を取り戻した。
 その圧力を前に、クリスティーヌは思わず身をすくめる。幼い頃から「厳しい天使」と対してきた彼女の習性は、そう簡単に抜けるものではない。
 だが、脅えにこらえてクリスティーヌは笑顔を作った。
「なんでもないのよ」
 彼が威圧的に振る舞うのは、それこそが恐れの裏返しだと、今は知っている。それで初めてできるようになったことだった。「昔のことを、少し思い出しただけです」
「昔?」
「ええ。まだ、父がいらした頃のこと……。大きな犬が飼いたいと思っていたわって、急に思い出したの」
「きみは犬が飼いたいのか?」
「今はそうでもないけれど……。ただ、少し懐かしかっただけ」
「……そうか」
 クリスティーヌに悪びれた様子がないのを感じたのだろう。男は目をすがめはしたものの、圧力はやわらいだ。
「生き物は……そう、悪くない」男は少し沈んだトーンで言った。「彼らは少なくとも人を見た目で判断したりはしないからね」
「そうね……」クリスティーヌは男の手を撫でた。「ここにも何かいるといいかしら」
「そうだな。犬、猫、猿……美しく鳴く小鳥」並べて見せた男は、それから不意に笑った。「だが、こんな陽も射さない場所に閉じこめるのは哀れというものだ」
 確かに可哀想だ、とクリスティーヌも思った。
 このひとのようにかわいそう。
「猿ならいるわね」クリスティーヌはおどけて言った。「シンバルを叩く」
「ああ、いるな」男もかすかに笑った。「それに、美しく歌う翼を持つものも」
 白鳥のこと? と尋ねかけて、クリスティーヌは思わず開きかけた口を閉ざした。
 それが何を指しているのか、誰を指しているのかに気づいて、急に息苦しくなったからだ。
 クリスティーヌがこの彼に口づけ、人生を通してそのそばに残ることを決めた日以来、彼はクリスティーヌを侵しがたいもののように扱うようになった。かつて力ずくで彼女を地下に連れ去った強引さは、もはやどこにも見つけられない。
「彼は、きみの中に真に尊いものを見たのだろう」
 彼女にそう言ったのは幼なじみの青年だった。
「私は、あのとき、きみの背中に真白い翼を見た」
 男自身もそう語った。
 クリスティーヌは双方に対して首を横に振った。それは買いかぶりだと思う。自分がそんなものでないことは、誰よりも彼女が知っている。
 彼女に言わせれば、彼こそが美しく歌う翼を持つものだった。彼の正体も哀れさも知った今ですら、それは変わることがない。今も唯一彼の声だけが彼女に霊感を与え、彼女を天上の世界にまで運ぶことができた。
 たとえその背に広がる翼が黒いとしても、それは永久に変わることがないだろう。
「クリスティーヌ」
 ささやくように呼びかけられて、クリスティーヌは我に返った。
「なにかしら?」
「いや……」
 クリスティーヌが微笑んで問い返すのに対して、男は顔を伏せた。彼が口ごもってうつむくのは、決まって何か頼みがあるときだ。
 それを知っているクリスティーヌは、どうしたものかしらと男の横顔を窺った。黙って待つのがいいのか、彼女から聞かせて欲しいとねだったほうがいいのか。効果的な方法はおおむねその二通りに分かれる。
 しばらくの逡巡の後、彼が口を開く様子がないので、クリスティーヌはもう一度尋ねた。
「……どうなさったの?」
「歌を」
「はい?」
「歌を歌ってくれないか」
「え? 今から?」
 クリスティーヌは少し驚いた。
 枕元に据えられたブレゲの置き時計は、すでに深夜と呼ぶに近い時間を示している。オペラ座にあって眠りにつくにはまだわずかばかり早いとは言え、クリスティーヌは首をかしげた。
「今からレッスンを?」
 そう尋ねると、男は珍しく少し驚いたようだった。
「いや、そうではなく。……ただ」
「はい」
「ただ、なんでもいい。子守歌のようなものでいいのだ。おまえの歌を聴きたいと……」
 語尾が小さくなり、男は最後に恥じるように顔を背けた。
「子守歌……」
 クリスティーヌはその、およそ大の大人には縁遠い単語を繰り返した。男はなにがしかの誤解をしたのだろう。さらに恥じ入るように彼女から顔を背ける。
 けれど、クリスティーヌが呟いたのは断じて呆れたからではなかった。ただ、とても大事なことに気がついたからだ。
 そうだ。このひとはきっと、子守歌なんて歌って貰ったことがない。
 クリスティーヌは思わず男の手を取った。「わたしの歌で、よろしいの?」
 尋ねると、男はクリスティーヌのほうへと顔を戻した。「私は、きみの歌が聴きたい」
「……天使さまの前で歌うのは、緊張するわ」クリスティーヌはわざと口に出してほほえんだ。「どんな歌がいいかしら」
「どんなものでも」
「そう? ……それなら」
 クリスティーヌは睫毛を伏せて自分が知っているそんな歌を思い出そうとした。子守歌。至極小さな頃は、父親のバイオリンと天使の話がそうだった。父に歌を歌って貰ったことは、思い返せば意外なほど多くない。故国と言うには遠すぎるスウェーデン語の歌は、正しくは思い出せなかった。
 けれど、彼女には子守歌の思い出があった。父を亡くしたさらにその後。彼女に子守歌を歌ってくれたのは──。
 クリスティーヌは大きく息を呑む。彼女の様子を窺っていた風の男が、はっきりと動揺した。
「クリスティーヌ。私は何かおまえを傷つけるようなことを言ったろうか」
 慌てたように男がそう尋ねてくる。いいえ、いいえ、とクリスティーヌは首を横に振った。けれど、瞬いた途端に涙が流れ落ちるのを(こら)えることはできなかった。
「違うの。違うの」傷ついたのではなく、「思い出したの。あなたはずっと、わたしに子守歌を歌ってくれていたのね?」
 父を失い、このオペラ座に連れてこられて、悲しかった夜。その悲しみが完全に消えることは今もない。けれど、いつ頃からか孤独ではなくなった。時折、父の語ってくれたおとぎ話のロッテのように、天使が訪れて歌ってくれたからだ。その荘厳な歌声に包まれて眠ることができたから。
「忘れないで」涙を零し、男の手を握りしめてクリスティーヌは言った「今も、あなたはわたしの天使です」
「クリスティーヌ……」涙で濡れた瞳を見つめ、男がそっと少女の手を握り返した。「私のために、歌ってくれるか?」
 クリスティーヌはぐすぐすと(はな)をすすり、やがて頬を濡らしたまま笑った。
「泣いたので、喉がかすれてしまったわ」
「きみさえよければ、それでも」
 男が言うと、しばらくしてようやく涙を止め、彼女は歌い出した。それは、かつて男が幼いクリスティーヌによく歌って聴かせた曲だった。
 少女の歌声は時折涙で震えた。情感が溢れすぎて音程まで揺らぐ歌声には、音楽の天使と呼ばれる彼が歌った荘厳さや華麗さはない。
 けれど、これこそが子守歌なのだと彼は思う。
 その歌声はただ、優しさと慈しみだけに満ちていた。
 幽霊と呼ばれた男は、その日、初めて子守歌に包まれて眠りについた。
 
 

<FIN>