Secretly She Yearns for Heaven.

 
 
 
 彼女の願いを知る者はいなかった。
 オペラ座の寄宿舎には小さな祈りの場がある。御堂はおろか礼拝堂と呼ぶにも足りぬ程度の小部屋だが、祝日には神父が教えを説き、寄宿生たちが形ばかりの祈りを捧げる場だ。
 しかし、その部屋に足繁く通うものがただひとりいた。名をクリスティーヌ・ダーエと言い、この国では少しばかり珍しいスウェーデン人の娘である。歳はまだ八つ。オペラ座に住まうようになってからはようやく二年と言ったところだった。八つという年頃は、寄宿生の中でもまだまだ最年少の部類に入る。
 その彼女はひと気もない無人の小部屋を毎朝訪れた。理由は祈りを捧げるためだったが、彼女が何をさまで熱心に祈っているのか、知る者は決して多くなかった。そもそも、いつもぼんやりと心ここにあらずという風情のこの娘に興味を抱く者自体が少ない。当然ながら彼女が毎朝祈りを捧げているという事実を知る者自体が限られていた。
 しかし、クリスティーヌ・ダーエの儀式は、人に知られる知られないに関わらず毎日続いていた。バレエのレッスンにも熱心と言えないその娘は、オペラ座の寄宿生ではなく、むしろ敬虔な修道女の如き様だった。
 彼女は毎朝、オペラ座のほとんどの住人が起き出すより早く、あるやなしかの小遣いで買った蝋燭を問題の小部屋に持ち込んでは燭台に火を灯して祈っていた。
 ──お願いです。
 その部屋にはかろうじて祭壇はあったが、そこに祈るべき神の姿はない。しかし、クリスティーヌはそんなことはいっこうに気にしていなかった。
 彼女は小さな両手を合わせる。
 天使さま、どうか、わたしのもとにいらして下さい。
 天使さま、どうか、お声をお聴かせ下さい。
 お願いです。
 お願いです。
 そうして彼女は一心に呼びかけた。
 彼女の祈りにとって、祭壇に神は必要なかった。なぜならば、彼女が祈る対象は神ではないからだ。彼女の祈りはひたすらに<音楽の天使>に呼びかけ、天使を贈ってくれるはずの天国の父に呼びかけるものだった。
 しかし、グスタフ・ダーエが亡くなり、彼女がこのオペラ座に連れてこられてから早二年。未だ毎朝繰り返される少女の祈りに応える声はない。
 やがてクリスティーヌは手を下ろして、閉じていた目を開けた。元より頼りなく揺れていた蝋燭の火が大きく横に揺れる。辛うじて火は消えなかったが、半地下にある礼拝堂は薄い壁一枚を隔てればすぐに外で、どこからか──あるいはどこからでも──隙間風が吹き込んだ。春も近いとは言え朝の風は未だ冷たく、彼女の手は痛むほど冷たくなっている。
 クリスティーヌは開いた両手にはーっと息を吐きかけた。残った蝋燭の火に指先を近づけると、少しだけ温かさを感じた。小さな火のぬくもりを指先に感じながら彼女は思い出す。
 父の手は温まらなかった。
 その記憶はまだ新しい。あの日から今日までの記憶は多くが抜け落ちているというのに、クリスティーヌはいまわの際の父のことならば、今、目の前で起きていることのように思い出すことができた。
「天使を贈ってあげるよ」
 最期の時まで、彼女の父親はそれを繰り返した。
「<音楽の天使>を、贈ってあげるよ……」
 クリスティーヌは父の手を握りしめながらその言葉を聞いていた。数日前まで発熱で異常なほど熱かった父親の大きな手は、最期の時にはひどく冷たくなっていた。 
 父の手が温かかったとき、熱かったとき、冷たくなっていったとき、そのすべての記憶をクリスティーヌは自分の手の上に思い出すことができる。この二年の間に彼女の手はいくらか成長したはずだが、父親の手の大きさと堅さはあの頃のままに呼び起こせた。
 それを確かめ、大丈夫、と彼女は思う。まだ、わたしはお父さまの手を覚えている。
 だが、父親の手の記憶に彼女は泣きたくなった。
 いつ頃からか咳をするようになった彼女の父親は、最期の一年間、時折ひどく発熱しては床に伏せた。
 その熱すぎる父の手はたしかにクリスティーヌを耐え難いほど怯えさせたが、言い換えれば恐れを呼んだだけだった。けれど最期の時、父親の決してぬくもらぬ冷たい手は幼い彼女を絶望させた。
 彼女は、自分が父親の手を温めようと必死で握りしめたことを覚えている。父の手が再びぬくもりを取り戻すのだと彼女は信じた。なんとか信じようとした。けれど父親の手が温まることはついになく、最後はただ、彼女は手を繋いで涙越しに父を見ていることしかできなかった。絶え絶えの息の中で、その父親の目も彼女を見ていた。彼女よりも濃い色をした瞳。手は冷たいのに、瞳だけはまだ温かく、一心に彼女を見つめていた。
「おまえに、必ず、天使を送ろう」
 愛しているよ、と。
 それが最期の言葉だった。
 思い出せば、まだ涙が流れた。
 しかし思い出は哀しくない、と彼女は思う。
 それがお父さまとのお別れの思い出でも、悲しくはない。
 その瞬間にはまだ、彼女の父は生きていた。彼女の声に応え、彼女の手で触れることが出来た。
 けれど今はそれさえできないから、哀しくて泣くのだ。
 クリスティーヌは声を殺してしばらく涙を零した。
 
 
NEXT