Secretly She Yearns for Heaven.

 
 
 
 ややして、少女は黙ったまま目元を拭った。夜の公演を中心に回っているオペラ座でも、そろそろ早い人間は起き出す時刻が近いのだ。
 クリスティーヌは蝋燭の火を消す。そして思った。
 ──今日も、天使さまは来てくださらなかった。
 火を消したばかりの蝋燭はまだ暖かく、白い煙をまっすぐに昇らせる。その儀式の名残を見つめながら、クリスティーヌは自分に問いかけた。
 明日は来てくださるだろうか。明後日は?
 それよりずっと先になっても、いつかは現れてくださるだろうか。
 彼女は自問に答える。
 そう……いつかは来てくださるはず。
 クリスティーヌはいつも通り自らにそう言い聞かせた。
 あれほどお父さまが約束してくれたのだから、いつかは必ず、天使さまは来て下さる。
 そうして、いつもならば彼女はここで考えることをやめる。クリスティーヌには結局、父親との約束を信じるしかないからだ。
 けれどこの日、彼女は初めて考えた。
 ──でも、天使さまは現れないかも知れない。
 考えると、自分の心が冷たく固くなるのをクリスティーヌは感じた。胸の内側に凍った石を呑み込んでしまったようだ。恐ろしさに心が波立った。
 しかし、なぜだろう。その心の震えはすぐに凪いだ。少女はその冷たさも固さも、ずっと前から知っているものだと感じた。振り返れば、もうとっくに自分の心がそんな風になっていたようにクリスティーヌには思われた。自分でわかっていなかっただけだ。あるいは認めようとしなかっただけ。
 天使さまは来ないかもしれないという恐れも、こんな風にはっきりと心の内で声にするのが初めてなだけで、ずっと考えてきたことではなかったろうか。
 天使さまは現れないかも知れない。
 クリスティーヌはもう一度考える。
 もし天使さまが現れて下さらないなら。
 ──それでは、生きている理由がない。
 うつろな目でクリスティーヌは思った。
 それは、彼女がずっと心の底で思い続けていたことだった。音楽の天使など現れないのではないかという疑いの裏返しに、クリスティーヌ・ダーエは、もし天使が来てくれないなら、と考えていた。
 そして、クリスティーヌは幼いながらも知っていた。もし天使が現れないなら、彼女には生きていく理由がない。彼女は、父親のその約束があるからこそまだ生きているのだ。
 天使が訪れ、天上の調べを聞かせてくれるとグスタフ・ダーエは常々語っていた。天使の音楽はやがて彼女の魂を飛翔させるだろうとも。
 しかし、クリスティーヌは歌で成功することなど求めてはいなかった。
 かつては夢見た天使の声すら、今となっては聞きたいとも思っていない。父親の死と共に、彼女の中で美しい夢への憧れも死んだ。
 けれど彼女は待っている。
 クリスティーヌが天使の来訪を待ちかねていることに嘘はなかった。毎日捧げる祈りの必死さに偽りはない。
 <音楽の天使>も、舞台での成功も、彼女の望みではない。
 だが、それは彼女の父親の約束で、彼女の父親の夢だった。
 だからクリスティーヌは今も天使を信じて待っている。父の夢を叶えるために、それに、父との約束が間違いなく果たされるのを確かめるために。
 天使が現れれば、それは父が神様の御許で約束を果たしてくれた証拠になる。
 クリスティーヌはそう考えた。
 天使が現れれば、お父さまは天国に今もいらっしゃるのだと思えるだろう。
 言うなれば、それこそが彼女の望み。彼女がこの祈りを続ける理由だった。
 父親が消えてしまったのではないことを、このひとり残された娘は知りたかったのだ。天国という世界がこの世とは別にあって、お父さまは今もそこにいる。お父さまは今も彼女を見守ってくれていて、ならば、いつか自分が死んだ後でなら再びお父さまに会えるのだと。
 音楽でもなく、天使でもなく、彼女はただ、父親ともう一度会えるのだという希望が欲しかった。
 再会さえ約束されるなら、クリスティーヌ・ダーエはまだ生きてゆける。
 天国に旅立つその日まで遺された父の夢を果たそうとも思えた。天使に導かれ、生きていくこともできるだろう。父親と永遠に分かたれたという絶望は消え、もしかすると、天使の声に包まれて音楽を愛する心も蘇るかも知れない。
 だから、天使が現れないのなら彼女には本当に生きている意味がない。
 天国がないなら、もうお父様には会えない。
 天使が現れなければ父の夢を叶える術もない。
 それなら、たぶん眠ってしまいたい、と彼女は思った。
 二度と目覚めなくていい。
 そのほうが悲しくないだろう。
 少女はうつろな目で思う。
 ──だからこそ、天使さまは現れないのかも知れない。
 天使さまは、こんな自分の心を知っているのではないかとクリスティーヌは思う。
 音楽への喜びも崇拝も忘れた。
 天使の来訪を待つ心は、ただ天国があることを確かめたいからにすぎない。
 そんな悪い子のもとには、例え父の願いでも天使は現れないのではないだろうか。
 実を言えば、クリスティーヌは一度だけ天使の声を聞いた気がした。やはりこの礼拝堂でのことで、その声──男性の声だった──は、彼女にここを去れと行った。メグはそれをファントムの声だと言ったけれど、クリスティーヌはそうは思わない。いくらオペラ座に住まうと言っても、あんな声を「幽霊」が出せるはずはない。
 それなのに天使が今一度現れてくれないのは、クリスティーヌがもう音楽を愛していないからではないだろうか。それは何とはなく、筋の通ったことに思えた。
 しかし、クリスティーヌはまだ三分の二は残っている蝋燭を燭台から外した。天使が訪れなくても彼女はこの儀式をやめるつもりはない。これは彼女と父親を繋ぐ大事な絆だ。彼女はまた明日の朝、この残りの蝋燭に火を灯して祈るだろう。
 彼女は手にした蝋燭をぼんやり見つめながら考えた。本当ならお父様は天使を送ってくれていて、でも、彼女が悪い子供だから天使さまは姿を現してくれない。それなら、それで構わない気がした。それは天国がちゃんとどこかにあるということ。お父さまはそこに今もいらっしゃるということ。クリスティーヌにとってはそれ以上望むことはない。
 だが、彼女はふと、お父さまは哀しむかもしれないという発想に至った。クリスティーヌは天国さえあれば後のことはどうでもいいけれど、せっかく天使を贈ってくれたお父さまは、歌わない彼女を残念に思っているかも知れない。
 それはいやだわ、と少女は思った。お父さまを悲しませたくはない。
 ──一度、歌ってみようか。
 クリスティーヌは考えた。  もしかして天使さまにも声が届いたら、お父さまの夢も叶えられるだろうか。
 考えて、彼女は空っぽの心の中でとても久しぶりに物事を決めた。
 そう……今度、一度だけここで歌ってみよう──と。
 
 
<FIN>