都会の人魚姫(前編)
初出:Dec.03.
 

 冴羽商事、あるいは冴羽撩とその同居人たる槇村香には、元来郵便物はさほど届かない。
 撩は戸籍や住民票上では存在していない人物であるから公共の郵便物すら届かないし、香もまたシティーハンターのパートナーという立場上、住所を書くような状況は極力避けている。同窓会名簿においてすら行方不明の彼女は、必然、世の一般女性に比べると通販の誘いやダイレクトメールを受け取ることがぐっと少なかった。
 そんな冴羽家に来る郵便物と言えば、各種請求書を除けば過去に事件を解決した依頼人たちから送られてくる季節の挨拶くらいのものだ。
 だからその日の午後、リビングで香が見つめていたカードもそうしたたぐいのものに違いなかった。年の瀬も押し迫ったこの時季、カードに添えて近況を報告してくる過去の依頼人は少なくない。
 カードとともに同封されていたらしい手紙を香は読み込んでいた。掲示板を見に行った帰りに郵便物に気づいたらしく、今の彼女は外出したままのミニスカートだ。すらりと伸びた足は日本人離れして白く、完全無欠の脚線美を描いている。その事実に気づかない男はこの世で冴羽撩くらいのものだろう。
(12月にあんなミニスカートで寒くないのかね。見ても楽しいモンじゃねえんだから出すなっつーの)
 香の姿を目にした撩が真っ先に脳裏で呟いた感想がこれなのだから、この男はまったくもっておかしい。強いて言うなら撩の感想には当人にすら自覚されることのない嫉妬がもしかすると入り交じっているのかも知れないし、彼の知人友人がそんな台詞を聞いたなら、一様にして「香(さん)の足を他の男に見せるのが面白くないんだろう」と彼を冷やかすのは間違いない。しかし、それが事実であるかどうかを確かめるのは甚だ困難だ。
 

「香、コーヒー淹れてくれよ」
 リビングの入り口に立って撩は言う。体内のカフェイン不足を補うのが先決であるため、ミニスカートへの言及はとりあえず避けた。
 香がカードと便箋から顔を上げる。
「いつの間に来てたの?」
「今」
 気づかなかった、と香は小さく独り言のように言った。その表情に撩は心の中だけで眉をひそめる。浮かないというと言いすぎだが、香の表情はちょっとだけ困っているような、複雑で曖昧なものだ。依頼人からの手紙が来た時にこんな顔は珍しい。良くない知らせでも書かれてあったのだろうか。
「コーヒー?」
「おう」
 尋ねられて短く答える。
「いま淹れるわ」
 香は立ち上がる一方で、撩に封筒を差し出した。
「撩にも来てるわよ、カード」
「誰から?」
「さゆりさんから」
 封筒を受け取ろうとした男の手が、またたきの間静止した。
「彼女、どうしてるって?」
 何気ない振りを装って尋ねながら撩は手にした封筒の差出人を確かめる。間違いなく立木さゆりの名が達者な筆記体で記されていた。
「元気そう。仕事は相変わらず忙しいみたいだけど、やりがいがあって楽しいって」
 このカードの差出人は全世界に通用する正統派ニュース誌で編集者をしている。日本支社では若くして編集長にまで上り詰めた能力を買われて、一年少し前からアメリカはニューヨークの本社に籍を置いていた。
「正月とか日本に帰ってくる予定はないのか?」
「うん、今年はまだ無理みたい」
「あんまり優秀ってのも大変なもんだな」
「ホントそうね」
 香が笑った。少し残念そうで、少しだけホッとしているような顔だった。撩がカードを受け取る時に感じたものと似たか寄ったかの想いを、香も覚えていたのだろう。
 たとえば次に再び香とさゆりが相見えた時、この二人に冴羽撩も加えた三人の生活に決定的な変化が起こらないとは断言できないのだ。さゆりの存在はそれだけの重みを持っている。ただ会わせると言うだけでも、簡単な問題にはなり得ない。
 かといって、香がさゆりに会いたくないわけではないだろう。撩もまた、さゆりを香に会わせたくないわけではない。それでも立木さゆりという存在の意味は、冴羽撩と槇村香にとってはやや大きすぎた。本当は、さゆりと香が何の気張りもなく度々顔を合わせ、その時だけは赤の他人としてではなく話が出来ればいいのだろうけれど、今のところそれは困難で、立木さゆりという女性は今も扱いがひどく難しい位置にいる。
「カード、ちゃんと目を通しとくのよ」
 香は言ってキッチンへ向かう。
 リビングに残された撩はソファに腰掛けると封筒から自分宛のカードを引き出した。
 まずカードの絵を一瞥する。油彩画のタッチで風景画が描かれていた。森や湖といった自然を描いたものでなく、海辺ではあるがメインとなるのは一体の彫刻という点が少し珍しい。
 カードを裏返してメッセージ部分を見ると、銀の縁取りが施された白い地に、万年筆で書かれたと思しき整った字が並んでいた。クリスマスと新年を祝う型どおりの文句に加えて、浮気不許可、香さんを大事にすること、の旨がおどけた調子で書かれてある。
 香の目に入る可能性もあるカードに、さゆりは絶対に"妹"の一文字を書かない。
 追伸として、「女好きの冴羽さんのために美人の描かれているカードにしましたよ」とあった。
 撩はカードの図柄を思い出す。
 カードに描かれていたのは、デンマークの海辺に置かれた彫刻だ。確かに美女は美女だが、上半身こそ人間であっても下半身は魚。言わずと知れた人魚姫の像を描き写した油彩画だった。
 撩は一人納得した。そのカードの油彩画こそが、さゆりの本当に伝えたいメッセージだろう。
 

 人魚姫は海の王の末娘。人間の王子に恋をして、足を得て地上へ上がる。けれど同時に彼女は多くのものを引き替えにした。声を失い、やっと得た足にも激痛が走り、何より王子が人魚姫を愛さなければ彼女は海の泡となって消えるしかない。
 もし、王子が人魚姫を愛さなければ、人魚姫の姉は妹の元を訪れて、一振りのナイフを渡すだろう。
 "これで王子さまを殺して、あなたはあなたの世界に戻ってきなさい。"
 妹が不幸になると思ったなら、人魚姫の姉はきっとそうして妹を本来の世界に連れ戻す。
 つまり、さゆりのカードはそういう意味だった。
 

 こんな謎かけ、暗号は冴羽撩宛のカードだけに書かれたものであるはずだ。さゆりは、香に言いたいであろうたくさんのことを、きっと香宛のカードにも手紙にもしたためていない。立木さゆりという女性は野上冴子に対して自らのことを強くないと評したらしいが、彼女は当人が思っているほど弱くない。多くの想いを胸に封じて耐えられる女性だった。
 だが、耐えられるか否かは別として、彼女にそうした忍耐を強いることになった原因の何割かは確実に撩にある。少なくとも撩自身はそう思っていた。槇村秀幸と香の兄妹を思うあまり、さゆりの心情に配慮が足りなかったと、あれから一年経った今では後悔することもある。
 だから撩としては、このくらいの脅しは聞いてやらなくてはならない気がする。
「人魚姫って柄じゃねーけどな、香は」
 ぼそっと呟いて、キッチンにいるはずの香を横目で見ると──何故か、ソファのすぐ脇にその彼女がいた。コーヒー片手の香と1mという距離でばっちり目が合う。
「今、なーんか言わなかった?」
 凄味を効かせた声で香が尋ねた。
 コイツいつの間に気配の消し方なんて覚えた?という驚きも手伝って、脊髄反射で撩は引け腰になった。ソファに座ったまま限界いっぱい後ろに仰け反って距離をあけ、防御壁よろしく慌てて両手を前に立てる。
「い、いや? 別に何も?」
「すっごく怪しいんだけど」
「怪しくない怪しくない」
「『柄じゃない』とかなんとかって聞こえたのよね〜」
 ぶんぶんと音がしそうな勢いで首を左右に振る撩を脇目に、香はドンと音を立ててテーブルにマグカップを置いた。
「それってどうせあたしの悪口でしょ」
 ギロリと睨み上げてくる目がすさまじく怖ろしい。
「き、気のせいだってば」
 やだなぁ、かおりちゃんてば疑りぶか〜い、などと片頬を引きつらせながら撩は笑って見せたが、香の視線は一向に優しくなってくれない。
「じゃあ、アンタなんでそんなに汗かいてんの?」
 撩はぎくりと肩を震わせた。確かに、額やらこめかみやらをだらだらと冷や汗が流れている。
 本来ならそこまで怯える必要のない感慨であったはずなのだが、常日頃の行いが悪すぎるため痛くない腹を探られても恐怖感が我知らず表面に出てしまうらしい。
 こ、これはいかん。
 ハンマーを受けるいわれのない事でつぶされる予感を感じた撩は、素早くソファから立ち上がるとパートナーに背を向けた。戦略的撤退、つまるところ逃走の姿勢だ。
「りょうちゃん、ちょっと外で涼んでくる〜。晩飯はいらないからっ」
「ちょっ、……撩!?」
 香は叫ぶが時既に遅し。足にターボを内蔵しているのではないかというスピードで、撩はリビングはおろか玄関からも飛び出していた。
「涼んでくるってあんた、いま何月だと思って……」
 取り残された彼女は呆然と呟いた。
 やがて香の表情が形相と呼ぶべきものに変わる。すぅっと音がするほど大きく息を吸い込み、
「……あのクソばかモッコリ男めぇ〜〜っ!!」
 そう、声の限り叫んだ。
 彼女の兄が幽霊になって、あるいはカードの送り主である彼女の姉が聞いていたなら頭を抱えてその場に倒れ込むような台詞は三軒隣まで響き渡ったらしい。
 

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