一話
 

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 日常と非日常の境界は曖昧である。
 どれほど非日常的な出来事であっても、時系列を逆に遡れば発端は日常生活の中の一風景に求めることが叶う。ゆえにその境界は曖昧である。
 まして槇村香のように日常が一般人にとっての非日常と変わらない生活を送っている者にとってはなおさらだろう。
 何かと何かを分けることには、さしたる意味がない。
 その盆にほど近い夏の日も、香はいつものように目覚め、朝食の支度をして、寝起きの悪い同居人を叩き起こした。
 そのまま午前中は家事一般をこなして昼食。その日の昼食に何を作ったかなど彼女にはとうてい思い出せなかった。
 そして、いつもどおり2割の期待と8割の諦めを抱きつつ、照りつける陽射しの下、JR新宿駅東口へ向かったのだ。
 

「きゃああああっ、依頼っ、依頼よお〜〜〜〜っ」
 掲示板に書かれた3文字のアルファベットに、香は人目もはばからず黄色い悲鳴を上げていた。
 XYZ、もう後がない。そんな意味合いに対して香の反応は不謹慎にも思えるが、もう後がなかったのは冴羽商事も同様だった。
「三ヶ月ぶりっ、三ヶ月ぶりの依頼! これで電気も水道も止められずに済むし、美樹さんたちにも借金が返せる〜〜」
 思わず拳を握り締めて感涙にむせんだ香は、しかし、周囲に出来つつある人だかりに我に返った。
 久方ぶりの依頼が来る度に彼女はこういう反応をして恥ずかしい思いをするのだけれど、どうも成長がないようだった。香は赤面して押し黙った。
 少し遠巻きに香を眺める人々は、何か危ないものを見るような目つきだ。連れがいるものは顔を寄せ合い小声で何かをささやきあっている。”こう暑いと……”などという言葉の切れ端が香の耳まで届いた。
 親子連れの子どもの方が”あのお姉ちゃんどうしたのー?”と指さすのを、母親が”見ちゃ行けません”と止めて引っ張ってゆく。
 ──このままでは、”病人”扱いされてしまう(というか、もうされている気もする)。
 香は慌てて依頼人の連絡先を手帳に控えた。
 白いチョークの文字が女性のものだと長年で培われた香のカンは告げていた──が、背に腹は代えられない。
 収入源に繋がる手帳を大事にバックにしまうと、香はそそくさと人垣から逃げ出した。
 

 依頼人は電話口で「空木早苗(うつぎさなえ)」と名乗った。
 玲瓏とした声から、美女であることは容易く想像できた。さすがに香の気分は重くなる。
 相棒の手綱を一層引き絞ることを覚悟しつつ、一旦家に戻った彼女はとりあえずその相棒の夕食の支度を済ませた後で依頼人との待ち合わせ場所へと向かった。
 指定された場所は西新宿のCホテル、最上階のレストランだった。
 時刻はすでに夜景を楽しめる頃だった。
 ホテルの最上階レストランなど、香にとっては縁薄い場所だ。Cホテルにはせいぜいでも、懐に余裕があるときケーキの食べ放題に来る程度でしかない。
 その指定から依頼人の経済状態がほぼ伺われた。
 断じて逃がす訳には行かないお客様だと香は判断する。
 レストランに入る前に、パウダールームの鏡で身支度を確認した。
 まとまりの悪いくせっ毛はなんとか家を出た時の落ち着いた形で収まっている。普段はほとんどしない化粧も今日は少しだけしている。口紅の色は濃くないはずだった。スーツの薄いブルーは、明るく涼しげな印象を相手に与えるだろう。
「よし」
 一人気合いを入れて、香はレストランへと向かった。

 入り口で名乗ればお連れ様がお待ちですと窓際の席に通された。
 二方に取られたレストランの窓はここぞとばかりに広く、新宿の夜景がよく見える。
 地上は濃藍に包まれ、使い古された表現だが、無数の光が宝石のようにきらめいていた。地上の光景は遥か遠い。
 依頼人はじっとその夜景を眺めていた。しわひとつない白いテーブルクロスの上には淡い光を放つライトが置かれ、それが依頼人の容貌を照らし出している。
 この時点で、依頼人の容姿に対して香が抱いていたわずかな希望は完全に打ち砕かれた、と言えた。
 その女性は美女という形容にふさわしかった。
 やや小柄ではあるが、かっちりとした雰囲気の黒のパンツスーツ姿でもその下のバランスの取れたプロポーションが伺える。
 黒目がちの目が大きく、目元のラインは丸く甘い。細い眉も少し丸く、どちらかというと少し可愛いタイプの美人だった。一方でスーツの雰囲気に合わせてか赤い唇は鋭角に描かれて、可愛くなりすぎるのを抑えていた。
 顎の線で切りそろえられた黒髪が活動的な印象を香に与える。
 歳は香と同じほどだろう。あるいは一つ二つ、依頼人の方が下であるかもしれない。
 いずれにしても、思わず香がその顔を思い浮かべた彼女の相棒のストライクゾーンであることは間違いなかった。
 ううっと、香は思わず胸のなかで呻く。
 それでも顔には精一杯の営業スマイルを浮かべて香は口を開いた。
 なんといっても背に腹は代えられないのだ。
「空木早苗さんですね?」
 香の呼びかけに、女は窓の外へ向けていた視線を香に移した。
「槇村、香さん? シティーハンターの……」
「ええ」
 ギャルソンに椅子を引かれ、そこに腰掛けつつ香は頷いた。
 女──空木早苗はわずかに口元を持ち上げた。ほほえもうとしたようだが、傍目には失敗していた。口元はともかく、それ以外は堅くこわばっていた。
「お待ちしていました」
 ぎこちない表情のままそう言ってから、早苗はコースを香に勧めた。
「そんな、悪いですわ」
 香は顔の前で手を振った。
 早苗が小首を傾げた。
「あら、もう夕食はお済みでしたか?」
「そうじゃないんですけど」
「それなら良かった。実はもう頼んであったんです」
「え、でも……」
「相談料だと思ってください」
 そんな社交辞令をやり取りした後に、依頼主は付け加えた。
「お話は、お食事の後でいいでしょうか?」
 香の直感がつげた。たぶん、空木早苗の話は食事時にしたい内容ではないのだろう。香のこういう勘はかなりの高確率で当たる。
 香は頷いた。
 早苗は初めてほっとしたようにほほえんだ。
 それからは、まるで友人のようにたわいもない話が続いた。
 元もと人見知りはほとんどしない香だが、空木早苗は話しやすい女性だった。
 初見の印象ほど快活な様子はなかったが、嫌味でない礼儀正しさを持っている。同時にフランクな話にも乗ってくる。香の相方の悪癖を除けば、かなり付き合いやすい依頼人だと思えた。聞けば香と同い年だという。それが余計に二人の話を合わせているのかもしれなかった。
 運ばれてきた料理を見て、香は心の中で同居人に対して舌を出した。普段苦労させられている分、たまにはこういう美味しい思いを独り占めするのも悪くないだろう。

「とても綺麗な夜景ですね」
 早苗の声に香はほぼ食べ終わった食器から顔を上げると、視線を窓の外に向けた。
 地上は──いや、高みも──宝石箱をひっくり返したように光が散乱していた。光の粒は地上で思うよりずっと無秩序で、それが絶妙の広がりを見せていた。
 美しい。そう、確かに美しい眺めだった。
「槇村さんは、この街で暮らし始めてから長いんですか?」
「ええっと……」
 香はわずかに首を傾げる。
 新宿は場所によってひどく違う。西と東では格段の違いがあるし、南もまた独自の様相をしている。
 それをこの街という一言にひっくるめていいものか少しばかり香は迷ったが、細かいことを気にしていても仕方がないだろうと思われた。
「そうね。もう、結構長いこといるわね」
 だからこそ香はこの街の、この光の一つ一つが決して美しいものではないことも良く知っている。この光の下には多くの人がいて、様々な感情や欲望が渦を巻いているはずだった。
 けれど、そのことを知っているのに、それでも美しく思えてしまうのが、不思議だ。

 それにしても……と、香はふと疑問に思い至った。
 なぜ、早苗は自分がこの街に住んでいることを知っていたのだろうか?
 今までの会話で、香はそんな話をしなかったはずだ。
 この街でこんな仕事をしている以上、ここに住んでいるのは当然のことと人は考えるものなのだろうか?
 香は依頼主に視線を戻した。
 早苗はまだ、窓の外を見つめている。
 その横顔を見つめながら香はこの女性の依頼内容を想像した。
 これだけの美女なら、今の世の中、どんなことに巻き込まれても不思議ではない。普通ならボディガードと考えるところだ。
 けれど、早苗には危険にさらされている人間独特の緊張感がなかった。何か心配事のある人間には、相応の頑なさがある。けれど、早苗にはそれがない。理屈ではないが、身の危険を感じている女性とは違う気配を香は早苗に覚えていた。
 ただ、初めに彼女が見せたこわばった表情だけが、異質だ。
 香と話していて少し緊張がほぐれたのだろうか。
 考えるが、答えは出ない。
 じっと見つめる香の視線に気づいたのか、女は香のほうへ顔を向けた。
「いけない、お料理冷めてしまいますね」
 そう言いながら、早苗は再び食器に手をやる。
 その手にあるものを見つけたとき、香は「ぴこーん♪」と音がするほど自分の目が光ったと思う。
 早苗の左手の薬指には指輪があった。
 とてもシンプルな、シンプルなだけの銀の指輪だった。
「早苗さんはご結婚されてるの?」
 だとすれば、これは幸いだ。
 香の知る限り、彼女の相棒は特定の相手がいる女性に手を出したことはなかった。冗談は言っても、本気で夜ばいだのなんだのといった行動には出ない。
 早苗が既婚者であれば、さらにその旦那と上手く行っているのであれば、撩は彼女に手を出さない。香には確信があった。
 だが、香の問いかけに対して女は一瞬、瞳を揺らめかせて、その後しばらく沈黙してしまった。
 硬い表情をして押し黙ってしまった早苗に香は困惑した。
「早苗さん?」
 問い掛ければ、落ち着き払ったような目が見つめ返してくる。
「少し早いですけど、依頼の話を始めましょうか」
「あ、はい」
 これまでよりもやや低い声に気圧されるようにして、香は首を縦に振った。
 早苗はウエイターに料理を下げさせる。
 食後のデザートとコーヒーが運ばれるのを待って、彼女は話し始めた。
「私の夫は……いいえ、夫になるはずだった人は、殺されたんです」
 まず、最初のその一言に香は小さく息を呑んだ。
「昨日や今日のことではなくて、もう、しばらく前のことになりますけど」
 銀の輪を指でなぞりながら、早苗は言った。
「私はその頃、彼とは離れて暮らしていて何があったのか詳しくは知らされなかった。けれど、最近になって知ったんです。あのひとを殺した相手を」
「その相手、捕まってるの?」
「いいえ」
 彼女の声は淡々としていて、香には逆にそれが不穏なものに感じられた。だから、香は小さくかすれた声で尋ねた。
「依頼って、まさか……」
 女は頷いた。
「あのひとを殺した人たちに、死んで貰いたいんです」
 そして、依頼人はこう付け加えた。

「シティーハンターを、殺して下さい」
 


 

 

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