二話
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「今、なんて?」
香はなかばフリーズしながら問うた。口はなめらかに動いたが、頭の中が凍りついていた。
「ごめんなさい、早苗さん。なんておっしゃったのか良くわからなかったわ」
そうだ、と香の中の落ち着いている部分が言った。
聞こえなかったのではない。空木早苗の言葉は確かに聞こえた。ただ、その意味が理解できなかったのだ。
女は香を黙って見つめていたが、ややして少し目を細めた。
「シティーハンターを殺してください。それが私の依頼です」
「待って、待ってちょうだい早苗さん」
香は片手で顔の半分を覆った。
「シティーハンター?」
「ええ」
「シティーハンター、って……」
「そう、あなた方ご自身です。私はあなたたちに死んでもらいたいの」
香は呆然とした。一瞬の後、香の頭の中で何かがぷちんと切れる音がした。
「冗談じゃないわ!」
香は立ち上がるとテーブルに手を叩きつけた。衝撃で、テーブルの上に乗った食器類はわずかに飛び上がり、不本意なダンスを強いられる。
香の声に周囲の空気も震えた。
大勢の人間が同時に視線を香に向ける。レストランの中は息を詰めるように静かになった。
周囲の目がすべて自分に向いたのは、香にもわかった。普段なら恥ずかしいと思うところだが、そんなことにはかまっていられなかった。
香はそのままじっと、早苗を睨みつけた。
早苗は、厳しい表情を崩さずに香を見上げていた。
「座ってください、槇村さん。話はまだ終わってないわ」
「これ以上お話しすることはないと思うけど」
「あなたになくても私にはあります。あなたには、私の話を聞く義務がある」
「義務?」
「私が言ったことを忘れたの? 私は夫になる人を……平たく言えば恋人を殺された。その仇に死んで欲しいと言ったでしょう?」
香はテーブルに押しつけていた掌をわずかに浮かせた。確かに、早苗は先ほどそう言っていた。自分は恋人を殺されたのだと。早苗の言葉が正しいとするなら、他でもない香たちが彼女の恋人を殺したことになる。
香が去ることも出来ずに黙って見つめれば、女は目で椅子を示した。
「あまり目立たないで欲しいわ。座ってください」
香は困惑する。
出来ればこのまま帰りたかった。自分たちに死んで欲しいという相手の話を聞くなんて、こんな馬鹿馬鹿しいことはない。
けれど、空木早苗の言葉には無視できない要素が含まれていた。
結局、香は女のすすめるままに、しぶしぶ腰をおろした。
この、自分のある種の"人の良さ"には我ながら呆れるところであるが。
女はそれを見て頷いた。
「話を続けましょう」
「どうぞ」
香は窓に向かって頬杖をつくと、横目で早苗を睨んだ。早苗は怯まない。香を正面に見据えて鋭い視線を返してくる。
「槇村さん。あなた、クロイツ親衛隊って覚えておいで?」
「クロイツ?」
口に出してみて、香はそれが覚えのある響きだと感じた。
いつだったろう。
そんなに昔のことではない気がした。これまで関わってきたトラブルでも、外国人が関係したものはそう多くない……。
「あっ」
思わず香は声を上げた。再び周囲の目が自分に向くのを感じたが、やっぱりかまってはいられなかった。
クロイツ──クロイツ親衛隊。それは一年ほど前に香の友人夫妻の、よりにもよって結婚式を台無しにした連中だ。
いやでも早苗を見つめる香の視線が厳しくなった。頬杖を崩して女を見つめ直す。
早苗はわずかに口元をゆるめた。
「覚えておいでのようね」
その女は鋭くても、淡々としていた。
「私の恋人はクロイツ親衛隊のメンバーだったの。最後までクロイツ将軍に付き従って日本まで行った。けれど彼は、ラトアニアには帰れなかったわ」
最後の一言は香にも予測がついた。目の前に座る女は、恋人が殺されたと言った。何よりあの日のクロイツ親衛隊は香の相棒と、花嫁を殺されかけた花婿によって全滅させられたはずだ。
"全滅"という言葉の意味を思うと、香は空恐ろしくなることがある。彼女が良く知る男たちの普段からはとても想像できない一面が、その言葉には確かに表れている。
けれど同時に思うこと。
香の良く知る男たちはむやみに殺戮に走るわけではない。
香はテーブルの下で手を握りしめた。
「あの日は、あたしたちの友だちの結婚式だった。その式場にクロイツ親衛隊は襲ってきたの。新郎も新婦も撃たれた。花嫁は命も危なかったのよ」
「でも、その花嫁は死んでいないでしょう。その式場から攫われたあなたも、こうして生きている」
けれど、私の恋人は死んだわ──。早苗は言った。
香の言うことを予期していたような、早く、しかも鋭い切り返しだった。香は思わず押し黙った。
本当を言えば女の言葉に、香には思いついた一言があった。だが、その言葉を口にするのは躊躇われたのだ。
女はじっと香を見つめている。香の言葉を待っているように思えた。
香は息を吸い込むと覚悟を決めた。
「……それは、しかたなかったんじゃないの……?」
口調の弱さは香自身にも明らかだった。女がふ、と微笑んだ。
「彼は兵士だったわ。殺したり殺されたりするのが自分の仕事だと、言っていた。私には納得できなかったけれど一理あるとは思ったものよ。確かにしかたがなかったのかもしれないわ」
香は黙って女を見つめた。まさかこの相手がすんなり受け入れるとは思わなかった。
女が何を考えているのか、何を言おうとしているのか、香にはわからない。
早苗は自身の手元に視線を落として言葉を続けた。
「だから私はあなたたちにも殺されて欲しいと思ったのよ。殺されることが仕方ないと言うなら、あなたたちだって殺されても文句は言えないはず。殺されるのは弱かったから、隙を見せたから、しかたがなかったからなんでしょう?」
「そういう意味で言ったわけじゃないわ」
「では、どういう意味で言ったの?」
香は一瞬考えた。先ほど、自分は何を思い、しかたないと言ったのだろう。
「──自業自得じゃないの?」
香は言った。ひどいことを言っている自覚があった。それでもここで引き下がるわけには行かなかった。
言葉を続ける。
「クロイツ親衛隊は人の結婚式を襲ったのよ? そんなにひどいことってある?」
「あなたたちは私の恋人を殺したのよ? そんなにひどいことって、あります?」
再びの切り返しはやはり早く、最前のそれに輪を掛けて鋭い。
香はとっさに言葉に詰まった。今度こそ、返す言葉がなかったのだ。
冷たい汗が背筋を伝ったような気がした。
それは、自分がこの相手に拭いようのない負い目を背負っていることを悟った感覚だった。どうやっても、香は空木早苗という女に強く出られない。
「反論しないんですね」
香は口を閉ざしたまま、早苗を睨んだ。早苗が少し微笑んで立ち上がった。
勝ち誇ったような笑み──と、言えなくもない。
「今日のこれは、私たちの宣戦布告です」
香は女を見上げた。
「"私たち?"」
「私の恋人は軍人だったけれど、私はほとんどふつうの日本人なんです、これでもね。クロイツ親衛隊とだって恋人を通して以外の関わりはなかった。その私が、個人であなたたちを相手にすると思いますか?」
それは考えられないことだった。少なくとも、ふつうの日本人はそもそもシティーハンターなど知らない。
「恋人や夫を殺されて、シティーハンターを恨んでいるのは私だけではないということです。今日は歳が偶然あなたと同じだったから私が選ばれただけ。私はメンバーの一人に過ぎないの」
「メンバー?」
「シティーハンター被害者の会、と言った人がいたわ。それが正しいと思います」
「誰が……そんなことを」
「そのひともいずれはあなたの前に現れます。彼女は、本人曰く真打ちだから。そして、冴羽撩さんの前にもね」
びく、と香はふるえた。手に当たったコーヒーの皿がわずかに音を立てた。
そんな香を見下ろして、早苗は表情を冷たくした。
「あなたたちは今でもそうしてお互いの身を案じることが出来る。でも、私たちにはもうそれさえ出来ない。次に遭う時まで、それを忘れないでいてください。あなたたちがやってきたことをよく考えてくださいね」
女は言って、バッグを取り上げた。
「食事代はちゃんと私が払いますからご心配なく。いずれ、また」
香は空になった向かいの椅子をただ見つめた。
空木早苗の黒一色のパンツスーツが喪服であったことに、香は今さら気がついた。
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