幕間
 

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 早苗を乗せてエレベータは止まった。
 エレベータはホテルの一階に達していない。具体的には九階に止まった。早苗は今のところこのホテルに宿泊している。外に出るような用はなかった。
 ドアが開けば、目の前にはクリーム色の絨毯が敷かれた広い廊下が続いている。
 広いのも道理で、この階の廊下は他の客室階の二倍の幅があるという。
 早苗は足を踏み出した。毛足の長い絨毯は ハイヒールで歩いたところでわずかの音も立てない。
 早苗の目指す部屋はエレベータのすぐ前だ。
 目の前の大きな扉の脇にあるインタホンを彼女は押した。
「早苗です、戻りました」
「お帰りなさい」
 室内からドアが開かれる。ドアを開けた女は早苗を見て微笑んだ。
 その笑顔に早苗ははっとする。
 早苗がこの女性と知り合ってからは既に三ヶ月が経っていたが、女性の笑顔には見るたびに息を呑んだ。目元の下がる速度は甘く、唇の上がる角度は完璧だ。大輪の花が咲くような、雲間から光が射し込むような鮮やかな印象を受ける。
 女はドアを大きく開けると、すいと腕を室内に向かって広げた。
「お疲れさま。さあ、入って」
「ええ」
 早苗は頷いて女のうしろに従った。
 ゆるいウエーブのかかった長い髪を見つめる。
 この女性の歳は、早苗にはよくわからない。初めてあったときは30代半ばに見えた。話をしてみると、もっとずっと年上に思えた。一方ですらりと背が高く、今は紺色のスーツに包まれた身体はメリハリが利いてすばらしく若々しい。少し北欧系の血でも入っているのではないかと思うような白い肌は輝きがあるし、長い黒髪も豊かで、歳は感じさせない。
 だが、早苗は特にこの女性の年齢を知りたいとは思っていなかった。聞けば答えてくれるだろうに、早苗がいまでもこの女性の歳を知らないのは、そもそも興味がないからだ。
 女性の後についてリビングへと足を進める。
 早苗と、その女性が泊まっているこの部屋は、Cホテルの客室としては上から二番目のクラスだった。アンバサダースイートというらしい。客室のドアを開けてすぐは大理石の床が広がるホールになっている。このフロアにはふつうのベッドルーム以外に客用のベッドルームまであったりする。ちょっとした廊下とキッチンもある。リビングは応接室もかねているのかシャンデリアまである始末だ。初めてこの部屋に通された時、クリスタルの珠が連なって輝くその眺めに早苗はひどく驚いたものだった。
 槇村香に名乗ったとおり、早苗はただのOLだった。今回の計画のためにこの部屋から職場に通うようになって一週間になるが、今でも正直言って慣れてはいない。
 リビングのシャンデリアを仰いで早苗は自分がここにいる不思議を思った。

「何か飲み物が欲しくない?」
 その声に、早苗は我に返った。
「ミネラルウォーターがいいです」
「OK。先に座っていて」
 女性は笑顔で言った。やはり魅力的な笑顔だと早苗は思った。
 早苗はリビングのソファに腰を下ろす。
 ミネラルウォーターとジンジャエールの入ったグラスを持って、女はすぐに戻ってきた。応接セットのガラステーブルの上に二つの華奢なグラスを置いて、早苗の向かいに腰をおろす。
 テーブルの上にはグラスの他に、20センチ四方の黒い箱が置かれていた。箱にはごく小さなレバーやダイヤルがいくつかついて、細いアンテナが上へと伸びている。箱からはヘッドフォンに繋がるコードが出ていた。
 早苗はスーツの襟元のブローチを外して、テーブルに置いた。ブローチの中にはマイクが仕込まれている。
「ちゃんと聞こえましたか?」
「よく聞こえました」
「それならよかった」
 女性は優しく微笑んで、少し首を傾げた。
「わたしに聞こえているか心配していたの?」
「ええ、少し」
「何も心配することなんてなかったのに。今日はあなたが彼女と遭うことが重要だったの。例え聞こえなくても、わたしはあなたから報告してもらえば充分だったわ」
「でも、桐生(きりゅう)さんに聞いてもらっていると私が安心できるんです」
「そう?」
 ふふ、と桐生は笑ってジンジャのグラスを取った。
 桐生はこの部屋によくなじんでいた。こういう場に馴れていることが言わずとしれる。この部屋の料金を払っているのも、無論桐生だった。この部屋からの出勤を勧められた時、早苗は恐縮して遠慮しようとしたものだが、桐生にとってはこういう部屋でないと落ち着かないのかもしれない。
 多分、桐生は当然のようにこうした世界で生きている人間なのだろうと早苗は感じている。
 感じているだけだ、知っているわけではなかった。
 早苗は桐生と三ヶ月前に知り合った。けれど今でもこの女性について、情報と呼べるものを早苗はほとんど何も知らない。
 知っているのは名前だけで、職業もよくわからない。
 本人は宝石や貴金属を取り扱う貿易業を営んでいると言っていた。しかし、それだけでないことは早苗にもわかっている。
 だが、年齢同様、早苗は桐生のプライバシーにはほとんど興味がなかった。
 知るべきことはただひとつ、この女性も自分と同じ相手に恋人を殺されたということだけだろう。

 そう、桐生も恋人をシティーハンターに殺された。元もと今回の件に早苗が参加したのは桐生の誘いがあったからだ。
 ブローチ型の盗聴器セットを用意したのも桐生だし、そもそもシティーハンターと呼ばれる二人の話を早苗に教えたのも桐生だ。この「被害者の会」を立ち上げた張本人が、桐生(きりゅう)美和(みわ)だった。
 三ヶ月前、突然早苗の前に現れた桐生はシティーハンターという連中と、その被害者の会について語った。その時に話を聞いて早苗は桐生を信用できると思った。
 桐生美和の恋人が何者だったかは知らない。どんな理由があって殺されることになったのかもわからない。
 けれど、桐生の中には確かに早苗が抱いたものと同じ思いが存在していた。
 愛するものを奪われた人間のかなしみ、憎しみ、やり場のない憤り。
 やりきれない、ただやりきれない後悔。
 桐生の中には確かにそれらが存在する。
 桐生について他の何を知らなくても、それだけわかれば共闘して行くには充分だと早苗は思ったのだ。
 だから、どんなに似つかわしくなくても早苗は今この部屋にいるし、普段生きている世界がどれほど違おうとも、早苗は桐生と分かり合えた。
 早苗はミネラルウォーターを一口飲んだ。
「桐生さんは、彼女をどう思いました?」
「あなたとの会話を聞いていて?」
「そうです」
 桐生はグラスをテーブルに戻した。形よく整った爪で桐生はコンコンとグラスの縁を叩いた。
「そうね。おおむね想像どおりでした。素直で、明るくて、あまり人見知りをしない。初対面の相手にもなじむのが早いし、それが押しつけがましくない。あまり人を疑うこともないようだった。裏の世界では極めて珍しい人種でしょう。ただ、思っていたよりも辛抱強い。芯の強さも想像以上よ」
 たとえ憎むべき相手に対しても桐生の観察は公平で正確だ。あるいは、憎むべき敵になるからこそ先入観を排除してかかるのかもしれないが。
 早苗はわずかに目を細めた。
「それは私たちにとって不都合なことですか?」
「いいえ、そんなことはありません。むしろ、わたしたちにとっては都合がいいでしょうね。彼女は自分の悩みをおいそれと口にはしない。今日、あなたとあったことはたぶんそう簡単には人に語られないでしょう。わたしたちは安心して行動できる」
「つまり、冴羽撩にも話さないということですか?」
「おそらくは」
 早苗は桐生を見つめた。桐生は静かに早苗を見つめ返してくる。
 早苗は息をついた。桐生の目に嘘はないと思った。
 桐生が再びほほえむ。
「早苗さんも、ご苦労だったわね。本当はもっと言いたいこともあったでしょうけど、今回はあくまでわたしたちの代表という形だったから決まり切ったことしか言えなかったでしょう? 申し訳なかったわ」
「いえ」
 早苗は小さく首を振った。
「正直言って、彼女を目の前にしたら何を言っていいかわからなくなったんです。桐生さんにある程度のシナリオを渡していただいてなかったら、一言も口に出来なかったと思います」
 今日の会見では、早苗はある程度話すべきことを桐生から指示されていた。桐生と会話のシミュレーションもしたことがある。
 実際に槇村香という相手を目の前にしたら、早苗の頭の中は怒りで真っ赤に染まってしまった。桐生に与えられた指示と、その訓練がなければ本当に何も言えなかったろうと思う。
 美和は目元を甘くして、ゆるく頭を振った。長い髪が風に吹かれたように揺れる。
「あなたは頭のいい人だわ、早苗さん。いざとなればちゃんと出来たでしょう。でも、そうね。今日言えないことがあったならまた次の機会に言えばいい。次は、もっとずっと時間も持てます」
「次はいつになりますか?」
「五日後」
 桐生は言った。
「その頃から、早苗さんはお盆休みでしょう? 六日目に彼に連絡を入れましょう。一週間後には、わたしが彼に逢います」
「楽しみですね」
 言ってから、早苗は自分の言葉を邪悪な発想かもしれないと思った。けれど桐生美和は早苗の見とれる微笑を浮かべて頷いた。
「とても楽しみです」
 


 
 
 

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