三話
 

††††††††

 香の様子がおかしくなったのは、三日前の夜だった。
 冴羽撩はそう記憶を辿った。
 三日前の夕方までは香の様子におかしいところはなかった。むしろ、その日は三ヶ月ぶりの依頼が入ったとかで、ひどく機嫌がよかったのだ。
 ところが依頼人と逢った後、香の様子は急変していた。
 依頼は断ったと香は撩に告げた。詳しい内容は語らなかった。
 これが普段ならば若い女性からの依頼だろうという想像で片づけるところだが、いま現在、冴羽商事の経済状態はのっぴきならない域にある。
 にもかかわらず依頼を断るというのだから、余程引き受けがたい内容だったのは間違いなかった。だが、それにしても香の様子はおかしい。
 普段の香は掃除だのなんだのと何かと動き回っていることが多いのに、この三日は覇気がなかった。ソファで足を延ばして、あるいはダイニングキッチンの椅子に腰掛けてぼんやりと何か考え事をしている様子に見えた。
 キッチンのシンクは少し曇っていた。彼女の機嫌がいい時は(あるいは極端に悪い時も)ぴかぴかに磨き上げられているのが通常なのに放っておかれているようだった。
 香が撩の顔を見ては何かを言いかけて、やめてしまうことも多かった。撩の方から尋ねてもなんでもないと笑ってごまかし、逃げ出してしまう。
 何より、ハンマーがここ二日は出ていない。
 依頼が関係することならば、撩は聞いておきたい。聞いておくべきだと思う。
 けれど、こういう時の彼女がそう簡単には口を割らないことを撩はよくよく知っていた。
 彼女には、いちばん深刻な問題を外に出さずにため込んでしまう傾向がある。
 撩自身もまた人のことを言えた義理ではないのだが、どちらにしても香が簡単にしゃべらないことは間違いなかった。
「ひとつカマでもかけますか」
 撩は独り言を洩らした。そのくらいの知恵は使わないといけないだろうと思えた。
 よくない予感がする。
 

 いつも通り、ナンパと称して撩は街に出た。陽射しは今日も照りつけ、空気はねっとりと重い。とにかく暑い。道には陽炎が立って見えそうなほどだ。仮に陽炎など出ていなくても、出ているに違いないと錯覚するくらい暑い。
 街ゆく人波は皆うんざりとした顔で足を進める。それでも半袖シャツの身軽さや鮮やかな服の色合いが、なんとはなしに夏の楽しさを醸し出していた。サラリーマンやOLの顔には"あと数日耐えれば盆休みだ"という我慢大会めいた気迫もかいま見える。
 この国に来て以来、そうした人の姿を見ると日本という国の夏を感じた。
 そんな人波の陰に、撩は目的の相手を見つけた。
「よぉ、轍さん、久しぶり。元気だったかい?」
「元気は元気だけどねえ、最近は不景気のせいで厳しいよ」
 靴磨きの轍は、撩のいちばんの情報屋だ。情報の量も質も速さも、この界隈で最高峰だった。くだらない情報は入れない。確実で、しかも重要な話をいち早く持ってくる。もちろん撩の相方のこともよく知っている。話を聞くには間違いのない相手だった。
 街中で香が誰かと逢ったなら、なじみの喫茶店の店主夫妻よりもまだ確実な情報が得られるだろう。
 撩は親指を裏路地へ向けた。
 よっこいしょと洩らして、轍が立ち上がった。

「ちょうど撩ちゃんの耳に入れようと思ってた話があったんだが、撩ちゃんの話が先だ。どんな話が要りようだい?」
 路地裏は青いゴミ箱が占領して薄暗い。パチンコ屋のアナウンスや呼び込みの声から隔絶されたように遠のいた。風のこない蒸し暑さだけがこもって、少し息苦しい。
「香のことだ」
「香ちゃんかい? ふむ……。まあ、この世界じゃ撩ちゃんの逆鱗ってことでますます有名になってるね」
「ああ、それはいい。このまま派手に吹聴してよ。それより、三日前の夜に仕事の話があったんだ。知ってるだろ?」
「そりゃもちろん。掲示板に書かれていたからね」
「あいつ、依頼人と顔を合わせたはずなんだが、それ以来ちょっと様子がおかしくてね。轍さんなら何か知ってるんじゃないかと思ったのさ」
「香ちゃんが依頼人に逢ったってのは、確か西新宿のCホテルだったかな。それ以上のことは今はわからんよ。調べておくけど」
「ああ、手間かけるけど頼むわ。……香はホテルに入る時もひとり、出る時もひとりだったのかい?」
「その依頼人ってのといっしょだったら、誰かが見てるはずなんだけどね。そういう話は聞かないな」
「そうか。何かプロがこの界隈をうろついていたって話は?」
「そんな思い切った話があったら、聞かれる前に耳に入れてるよ」
 轍が苦笑した。
 彼は一流の情報屋だ。なじみの客に危険が迫るような情報を伝え損なうへまをする人間ではない。
 撩は非礼を詫びた。
「じゃあ、轍さんの話を聞こうか。その、俺の耳に入れたい話ってのはなんだい?」
「今日入ったやつでね、誰かが撩ちゃんたちのことをかぎ回ってるってよ」
「暇なヤツがいるもんだ」
 撩は軽く肩をすくめた。名実ともに裏世界ナンバーワンと呼ばれる人間にとっては、さして珍しい話ではない。
「誰だ?」
「それがよくわからん」
 撩は片眉を上げた。それは珍しい。というより、奇妙な出来事だ。
「プロじゃないのか?」
「そうなんだ。プロなら絶対に名前は入る。こっちに飛び込んできたばっかで顔も知られてないようなよっぽどのぺーぺーじゃない限りな。だが、話に出てくるのは女なんだ。それもあんまり若くない。プロってのは考えづらいぜ」
「若くないってのは曖昧だな」
「歳が今ひとつよくわからんらしい。見た目は30半ばだが、話をするともっと上に見えるとかなんとか。ずいぶんいい女だそうだ」
 撩は口元だけ笑みの形にした。
「ほう。俺のストライクゾーンよりはちょっと上だが、そりゃこっちも逢ってみたいもんだな。嗅ぎ回ってないで、直にあいにくりゃあいいのに」
「まったくだ」
「他には?」
「そこそこ金を持ってるらしい。それと、撩ちゃんとなじみの情報屋の話をまず入れておいて、そいつらの所は軒並み避けて話を聞いてるようだ。お陰で俺まで話が届くのが遅くなった。もちろん俺の所にもそいつはきてねえ」
「なるほどね」
 プロかどうかはわからないが、ばかではないなと撩は思った。
「何かほかには?」
「あとは、何人かのプロの名前を聞いていってる。風の噂じゃ、その連中はみんな女の話を断ったっていうがな」
 撩はちらりと轍を見た。轍は撩を見上げていた。
 プロが女の依頼を断ったというその理由を、二人は無言で確かめた。
「──そうか。よくわかったよ轍さん」
 撩は小さく折り畳んだ紙幣を差し出した。枚数は決して少なくない。
「まだまだ暑いし、これで鰻でも食べてよ」
「そうさせてもらうよ」
 轍は素直に受け取った。
「じゃ、また寄るわ」
「問題の依頼人の話、明日では厳しいと思うけどあさってにはわかるようにしておくよ」
 撩は片手を上げると、指でOKのマークを作った。
 

 帰る道すがら、なじみの喫茶店に顔を出した。
「あら、冴羽さん。いらっしゃい」
 めおとスイーパーという離れ技をやってのける喫茶店の女主人が、軽く微笑んで撩を出迎えた。撩は軽く手を挙げて答える。
 しばらく前までは、この喫茶店に来るたびに「美樹ちゃんフリンする気になった?」という社交辞令を口にしていたが、最近は芸もないしそろそろ飽きてきたのでやめた。
 それでなくとも、くだんの台詞を振るとこの奥さんはのろけを延々並べ立てて撩を撃退するという新しい技を身につけたのだ。しかも毎回のろけの内容が変わるという徹底ぶりである。
「冴羽さん、いつもの?」
「ああ」
 撩は彼の指定席とも言えるカウンターに腰をおろした。ランチタイムを過ぎ、おやつ時には早い時刻だ。元もと人の出入りの多くない店に、客は撩の他にいなかった。
 夏の日差しだけが広い窓からさんさんと差し込む。クーラーの冷気は外の暑さから逃げ込んできた人間をやさしく冷やし、ただ穏やかだった。この時間帯は大概、ここのマスターは買い出しに出ているので撩にとっては言うことがない。
 いつもの、と撩が頼んだここオリジナルのブレンドは大して待たずに彼の前に置かれた。よくなじんだ香りが湯気とともに立ち上る。
「ねえ冴羽さん。香さんと何かあったの?」
 撩がカップに手を伸ばした瞬間を見計らうように、美樹がそう問うた。
 反射的に男はすっとぼけた仮面をかぶる。
「あぁん? 香がどうしたって?」
「香さん、少し様子がおかしかったわよ」
「様子がおかしい、ねえ。俺は気づかなかったけどなー。いつのことだい?」
 美樹は口元に曲げた指を当てた。
「そうね……昨日と今日かしら。あんまり元気もないし、なにか言いかけるんだけど黙っちゃったり。香さんらしくないわ」
「ふーん」
 撩は気のないそぶりでブレンドをすする。
「もう」
 美樹が唇を尖らせて腕を組む。
 女店主の機嫌を損ねたようだった。

 そういえば、どうして香に何かあると全部が自分のせいになるのだろうか。
 撩は思わず考える。
 まるで、槇村香の世界には冴羽撩以外が存在していないようではないか。
 そう考えて、撩は今の発想に一面の正しさを認めた。
 美樹たちが知る槇村香と、撩が知る槇村香には多少の隔たりがある。例えば彼女たちは槇村秀幸をほとんど知らない──。槇村香にとって重要なのは、冴羽撩だけだというのが彼女たちの認識かもしれなかった。
「香さん、おとといは元気だったのよ? 新しい依頼が来たって言って。……そういえば依頼が駄目になったんですって?」
「よく知ってるねぇ。なに? あいつ、そんなになんでも美樹ちゃんに話してるの?」
「聞いて欲しい人が聞いてくれないからでしょ」
 美樹の切り返しの早さに撩は舌を巻く。人妻は恐ろしいと思った。
「あいつが話さないんだよ」
 冗談めかして撩が語れば、美樹は溜息をついた。
「ねえ、冴羽さん。大丈夫なの? 何かあったんじゃない?」
「よくわからん」
 カップをてのひらのうちに収めて撩は言った。
 何もなかったとは考えづらかった。確かに何かはあったはずだ。けれど何があったか、それがわからない。
「その、依頼人て人とどんな話をしていたかわからないの?」
「あいつ肝心なことは言わないからなあ」
「駄目じゃない冴羽さん。香さんが知らない人とあう時には盗聴器くらいつけなきゃ」
 なかなか過激な意見だったが正しい、と撩は思った。
「次からはそうするよ」
 笑って、撩は立ち上がった。
「あ、そーだ。けっきょく依頼がパーになったせいで金ないんだったわ。美樹ちゃん、悪いけどツケといてよ」
「わかってるわ」
 しかたがないわねと、美樹が苦笑した。
「その代わり、香さんには優しくしてあげてね」
 簡単にそれが出来れば苦労はないと撩は思う。
 


 
 

next