四話
 

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 日が落ちる前に撩はアパートに戻ってきた。もっとも、夏場で日は長い。ぎりぎり夕食前という時間帯だった。
 けっきょく今日一日では当初の目的に限るなら、収穫と呼べるだけの情報はなかった。今得られた程度の話では、まだ香にカマもかけられない。
 となると、残るは直球勝負となる。あまり使いたい手ではない上におそらく一番肝心なことを香は話さないだろう。それでも昼間轍から聞いた『別件』が気にかかっていた。
「お帰り、早かったのね」
 撩がキッチンを覗くと香が顔だけ向けて言った。早いという時間ではないはずだったが気づかない振りをした。
 香は時間の流れが意識できていないのだろう。心ここにあらず、だ。
「ご飯、もうちょっとかかるけど、いい?」
「ああ」
 撩はリビングに入ると夕刊を手に取った。ソファに寝そべってそれを眺めてみる。
 めぼしい記事を見て回る裏ではシティーハンターの周囲を嗅ぎ回っているという女の話が意識に浮かんでいた。
 面が本当にまったく割れていないプロというのはそんなに多くない。今回の状況で、その問題の女がプロと考えるのは難しい。しかし一方で問題の人物の手際を聞く限り、裏世界のやり方を心得ているのは間違いなかった。
 この時点で考えつくのは何らかの組織の一員という可能性だ。組織の末端や、あるいは事務方の人間というのは、顔は案外知られていないものである。女は幾人かのプロにも声をかけていたようだと言う。これも組織だと思えば無理がない。組織がプロに"外注"を出すことは少しも珍しいことではなかった。あのユニオンですら、冴羽撩を殺すためにミック・エンジェルを雇ったではないか。
 それだけに香のことが気がかりだ。
 撩の意識はそこで別方向に展開した。意識が、今し方キッチンで香を見た時点までさかのぼる。
 香の声には明らかに覇気がなく、精彩も欠いていた。
 彼女はまだ立ち直っていない。

 ──否。まだ始まってすらいない?

 唐突に、そんな一言が撩の脳裏に降って湧いた。
 撩は突然思いついたこの言葉を考えた。時折、こんな風に突飛な言葉が思いつくことがこの男にはあった。予感は外れることも少なくないが、こういう勘に救われることも少なくない。
 香の変調は何かの予兆かもしれない。あるいは、香の周りではもう具体的に動き始めている。だが、撩の前に、まだそれは現れていない。撩は、香を通して何かの気配を感じているだけで。
 よくない予感がした。
「りょおー、ご飯できたわよ!」
「おう」
 撩は夕刊を置いてダイニングへ向かう。夕刊のめぼしい記事の内容は、それでも一通り頭の中に入っていた。
 

 香の食欲は明らかに低迷気味だった。
 普段の彼女は、割とよく食べる。
 食事自体に楽しみを見出すタイプであるらしいし、日々ハンマーを振り回すエネルギーを維持するには必要なのだろう。実際、摂取したエネルギーはきちんと発散していると見えて無駄な脂肪が付く気配はまったくなかった。
 その香に、食欲がない。
 彼女の食欲は体調か、心理状態か、どちらかが悪いと目に見えて落ちることを撩は知っている。実を言えばそのことは彼女と暮らす前から知っていた。今は亡き親友が元もと冴えない顔色をさらに悪くして、妹の食欲がなくて心配だと稀に洩らすことがあったからだ。
 今でも彼女のその癖は変わっていない。香の兄はあの世で気が気でないことだろう。
「ねえ、撩」
「あぁん?」
 呼ばれて撩は春巻きをくわえたまま目だけを香へ向けた。
 今日の食卓は、米の飯はともかくとして春巻き、甘い卵焼き、ハンバーグという何だかよくわからないが子どもが好きそうなメニューを並べた内容だった。口には出さなくても栄養バランスに気をつけている日頃の香にはあり得ない献立だ。メニューを考えるのに使っている意識野を、今日は別のなにかに回したのだろうと思われた。ほうれん草ベースのコールドスープだけが彼女の意地を物語っているようだった。
 いつもより少な目に盛られた香の皿の中身は、やはりあまり減っていない。
 香はしばらくだまり、やがて首を横に振った。
「ごめん、なんでもない」
 撩はこれ見よがしに溜息をつく。直球勝負の糸口を見つけてしまったと思った。
「おいおい、いい加減にしてくれよ。お前、それこないだから何度目だ?」
「え?」
「その、なにか言いかけてやめるやつ」
「あたし、そんなに何度もやった?」
「ああ」
「あ……」
 香は口に手を当てた。
「ごめん」
「別にあやまんなくてもいいけどな。言いたいことがあるんならはっきり言えばいいだろ?」
 少しだけ、少しだけ撩は口調を優しくした。
 たぶん成功しただろう。
「依頼人と、なんかあったんだろう?」
 香は再び「あ」の形に口を開けた。
「うん、そう」
 香は小さく頷いた。箸でいじいじと卵焼きをいじっている。
 やがて彼女は意を決したように顔を上げた。
「ごめん。大事なことだけど……やっぱり今は言えない。もうちょっと落ち着いたら必ず話すから」
 撩は肩をすくめた。
「大丈夫なのか?」
「わからない」
 身の危険があるかもしれないのだろう。
「大丈夫じゃないかもしれないのに、言えないのか?」
 もう一段、口調をやさしくしてみた。
 成功しただろうか?
 撩にはよくわからなかった。
「ごめん。どうしても、今はなんて言ったらいいかわからないの」
 彼女が謝ることなのだろうかと、撩は思う。危険が迫るのは撩のせいだろう。香のせいではないはずだった。
 それに本当に危険が迫れば撩の耳には入っていることが多い。香も、暗黙のうちにそれを知っている。だから黙っていられる。
「まあいいさ」
 撩は言った。
「危ないのはいつものことだ。お前は気をつけろよ」
「うん」
 香が目を細めた。泣き出しそうに見えた。
 

 もう、日はとうに沈んだ。
 アパート屋上の特等席から撩は遠くを見ていた。いや、正確にはなにも見ていないのかもしれない。
 熱帯夜のこもった空気中で吸う煙草は期待したほどうまくなかったが、バドワイザーの缶が冷えているので耐えられないこともなさそうだった。
 けっきょく食事中に香が泣き出すことはなかった。彼女はああ見えて、そう簡単には泣かない。特にいちばん苦しい時、撩の前では。
 槇村が死んだ夜にも、香は泣かなかった。
 ミックが死んだと思われた時も。
 たぶん、どちらも本当は一人で泣いていたはずだった。けれど、少なくともその涙を見た記憶が撩にはない。
 撩は回想を中断した。階段を上がってくる気配がする。きしみを上げてドアが開いた。さび付いたそのドアは少し重くなっている。彼女の腕で開けるのは一苦労かもしれない。
 今度油を差しておこうと男は思う。
「外、暑くない?」
 その声で初めて香に気づいたように、撩は振り返った。
「中も暑いだろうが」
 危機的状況下にある財政のために、夜はクーラーはおろか扇風機すら使っていない。夜なお暑い熱帯夜の東京においては、もはや無謀としか言い様のない生活だ。
「それもそうね」
 へへ、と香が笑った。笑顔は少しぎこちない。
 それでも目元は腫れていなかった。泣かなかったのだろう。
「んなとこに突っ立ってても面白くないだろ」
 撩はおいでおいでと手招きした。
「そっちに行っても面白くないわよ」
 香が笑って軽口を叩く。その割に、彼女はちゃんと男の横に来た。
 高い屋上の塀に腕を置いて、香はその上に顎を乗せた。
 撩はなにも言わずにビールの缶に口を付ける。
「そうでもないかも」
 小さく香が言った。撩は缶から顔を離した。
「あん?」
「ここから見ても、けっこう眺めが良いかもって」
 ──ここから見て『も』?
 疑問を覚えた時にはすでに、撩は答えを思いついていた。
「ホテルからの眺めとは比べものにならんだろ」
 香は目だけ撩に向ける。
「うん、きれいだったわ。新宿の夜景って、案外いいんだと思った」
「百万ドルってわけにはいかんだろうが、確かに悪くないかもしれんな」
 撩は再びビールを口にした。香は黙り込んだ。
 普段なら撩にとって香との間に生まれる沈黙の時間はそれほど痛くも重くもない。実を言えば、黙っていても心地いい方が多かった。何も語らずただそばにいることは、むしろ好きだ。
 だが、さすがに息を詰めるような沈黙となるとそうも行かない。
「不思議よね」
 唐突に香が口にした。香も沈黙が重かったのかもしれない。
「なにが?」
 撩は問う。
 うん、と生返事をしたあと、香はつぶやきを洩らすような調子で語った。
「この下にはたくさんの人がいるのよね。人がいるぶん、憎しみとか、欲望とか、お世辞にもきれいなんていえないものが渦巻いてるはずでしょ。なのになんできれいに見えるのかな?」
 こういう話を香が振ってくるとは、らしくない。
 そう思いつつも撩は答える。
「さあな。よく見えないからだろ。実はぐちゃぐちゃでも遠目に見れば、割とましに見えたりするもんだ。高いところから見りゃあ細かいところまではわからんからな」
「そうかも」
 塀に置いた腕の上に顎を乗せたまま香は器用に頷いた。
「じゃあ、神様の眺めってこんな感じかしらね。人の細かい色々なんて、見えてないのかも」
 神様?
 撩が反応を返すまで、半瞬ほどの間が空いた。
「は? 神様って、なにお前。いつからそういうこと言うようになったわけ?」
「何となく」
「何となく、ね」
 ろくな状況じゃないなと、撩は胸のうちで呟いた。
 同時に、ろくな状況じゃないのは香だろうか、自分だろうかとも疑問に思う。

 神様。その単語が頭の中で点滅していた。
 神という字は男に奇妙な感慨を与える。
 その字を見る度に、彼の頭を今でも横切る顔がある。何かの呪いのように、その姿は彼の脳裏から今もなお離れることはない。
 それでもずいぶんましになったと撩は思った。もう無理に忘れようとは思わない。すでに、それはひとつの思い出だ。
「ねえ、撩」
「あ?」
「女の人に気をつけて」
 香は背筋を伸ばして男を見ていた。表情が硬かった。すぐに男は思考を切り替えた。
「その、依頼人か」
「うん」
「……もっこりちゃん?」
「ばか」
 香が顔をしかめた。そして、こらえきれないように破顔する。
「そうね。美人だったわ。あたしと同い年ですって」
「そりゃ惜しいことしたな」
 軽口を叩く反面で、撩の理性的な思考が浮かび上がる。香と同い年なら、昼間話に聞いた女とは別人だった。だが、無関係とは限らない。同時に関係があるとも限らない。
「おまぁはどうしてそういう相手の依頼を受けないかな」
「受けるに受けられなかったのよ」
「内容は?」
「まだ言えない」
「じゃ、せめて名前だけでも教えろよ」
「名前なんて聞いてどうするのよ」
「運命的な出逢いをした時、役に立つだろ?」
「ほんと、ばか」
 香が苦笑した。少し表情がスムーズになっていた。
「空木早苗さんですって」
「いやあ、美人は名前も美しい」
「勝手に言ってなさいよ」
 あきれたように香は肩をすくめた。先に戻るわと言って、彼女は歩き出す。
 その背中に撩は言った。
「気をつけろよ」
「あんたもね」
 撩はバドワイザーを喉に流し込んだ。
 すっかりぬるくなっていた。
 


 
 

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