追憶
 

††††††††

 神様。その単語はまだ撩の頭の中で回っていた。
 ここしばらくでは珍しいことだった。
 神という字は男に奇妙な感慨を与える。
 だが、こんなに長く引きずるのは最近ないことだった。
 その字を見る度に撩の頭を横切る顔が──今もう横切るだけになった顔が──今日はなかなか消えない。
 神様、神──シン。
 海原(かいばら)(しん)
 撩はそれを思い出す。
 懐かしい記憶だった。決して忘れることはできない。
 それでもずいぶんましになった。今ではもう、思い出すすべては穏やかだ。
 

 その記憶の中で、まだ撩は幼かった。自分がいくつくらいだったのかということすら、撩には定かでない。十には至っていなかったろうとあたりをつける程度だ。
 その場所の具体的な地名は出て来ない。もしかしたら知らないのかもしれなかった。ただ風景は正確に思い出せた。
 名も知らぬ木々が細い枝を広げ空を覆っていた。熱帯雨林の植生は多種にわたる。平たく言えば雑多なのだ。広葉樹が競い合って日の光を受けようとするため地上は薄暗く、地面はぬかるんでいた。
 そんな中、土地の乾いたところを選んで迷彩色のテントが張られていた。テントの表面は泥で汚れ、ところどころには銃弾を浴びて穴があいている。
 あれは、ジャングルの中の野営地だったのだろう。
 倒れた樹の苔むした幹に海原は腰掛けていた。
 その手には、今から思えばひどく旧式の機関銃があった。それがやたら重くてずいぶんと癖のある品だったことを覚えている。
 あの時、海原は銃の手入れをしている最中だったのかもしれない。
 少年にすら至っていなかった、撩はぶんぶんと周囲を飛び回る羽虫を手で払いながら海原に声をかけた。
「おやじ、俺の名前ってどういう意味なんだ?」
「なんだ突然?」
 海原は面白そうに、彼が息子と呼ぶ少年を見た。
「名前には意味があるとかって聞いたんだ。おやじが俺の名前を決めた時、そう言ってたって」
「ああ、そうか。それでか」
 海原は手にしていた銃器を脇に置いて、撩を手招きした。
 撩は大人しくそれに従って、父親の脇に座った。
「撩は自分の名前を書けるようになったか?」
「漢字で?」
「そうだ」
「ああ、覚えた」
 撩は手近な小枝を取り上げると、それでしめった土に冴羽撩、と書いた。
「そう、それでいい。冴羽の『冴』は空気が澄んでるとか、物が鮮やかに見えるとかいう時に使う。頭がいい、腕が立つという意味で使うこともあるな。『羽』は羽根だ」
「鳥なんかの?」
「他に虫の羽もこの字だが、私は鳥の羽のつもりでつけたよ」
「じゃあ、『撩』は?」
「狩りのことだ。特に、この字だと夜の狩りのことになる」
「俺には似合いの名前だな」
「気に入ったか?」
「もちろん。さすがにおやじの付けてくれた名前だ」
 海原の手が撩の頭に伸びた。癖の強い少年の髪を海原の手はかき回した。
 変にくすぐったかったことを、良く覚えている。
「なあ、じゃあ、おやじの名前にも意味があるんだろ?」
 撩は聞いた。
「そうだな」
 海原は、撩の手にしていた小枝を受け取ると、自分の名前を漢字で書いた。
「『海』は、そのまま海だ。『原』は草原とか。だが、海と原をあわせてそのままうなばらって言葉もある。まあ、どっちもこのジャングルの中じゃ縁のない代物だな」
「海も原っぱも前に聞いたことがあるけど、想像もつかない」
「お前ならそのうちこんなところを出て、見る機会があるさ」
「そうかな?」
「ああ、必ずだ」
「じゃあ、この『シン』は?」
 海原は珍しく少し黙って、微笑んだ。
「神様という意味さ」
 今から思えば、海原のその表情は自嘲だったのかもしれない。
「それ、前にも聞いたけどよくわからなかったな。海や原っぱよりももっと想像しにくい」
「無理もない」
「海とおんなじように、生きてればそのうち見られるかな?」
「神様か?」
「ああ」
「さあ、それはどうかな? もしかしたら、逢えるかもしれないな」
 少し目を伏せて、海原が言う。そして思い出したように彼は付け加えた。
「そうだ、どうせならもう一つ覚えておくといい」
「なに?」
「シンという響きだよ。私の名前は日本語で見れば神様だが、英語でシンといったら罪のことさ」
 言いながら、父親は息子に『罪』と書いて見せた。横にアルファベットでsinと書き添える。
 撩は父親の書いたとおりにその字をなぞった。
「そう、それでいい」
「罪って?」
 当時、撩はそんな言葉を知らなかった。知るべきではない世界にいた。
 だから海原も教えなかった。
「今はまだ知らなくていい。覚えておくだけで充分だ」
 それにしても、と海原は言った。
「お前は本当に物覚えがいいな。大したものだ」
 撩は笑った。
「俺はおやじの自慢の息子だろ?」
「まったくだ」
 海原はやさしく笑って深く頷いた。
 

 ひどくリアルな追想から、撩は我に返った。
 目を開ければそこは熱帯雨林などではなく新宿だった。
 そして、あのおやじはもうどこにもいない。あのときの自分ももういない。
 今日は湿度が高く気温も高い。その空気だけが少し、あのジャングルに似ていた。
 こんな風に昔を思い出す、これもなにかの予兆だろうか。
 問いかけたところでもちろん答えはわからない。
 神様だけが知っているのだろうと、撩は思った。
 


 
 

next