五話
 

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 香が依頼人に会ってから四日目は何事もなく過ぎた。彼女は伝言板を見てなじみの喫茶店に寄る以外、無駄に出歩くことはない。出歩くべきではないという以上に、やはりまだ気力がないのだろう。それでも、少し撩に話したことで楽になったのか表情には生彩が戻りつつあった。
 男の方でも目新しい話は手に入れられなかった。新たに「空木早苗」という女についての情報を求めたが、彼の情報網には一向に引っかからない。
 一応、むかいに住むアメリカ国籍の友人に、不審者がいたら撃退してくれるよう声をかけておいたが、それでもあまり家を空ける気にはなれない。撩は早々にアパートへ戻ってきた。
 今日も彼女はキッチンに立っている。夕食の支度にはまだ早い頃合いだった。なにをしているのかと思えば、さかんに腕を動かしてシンクを磨いている。
 ささやかな非日常の日々に混じりつつある日常の光景──と言えなくもない。
 だが、彼女のハンマーは今日も出ない。
 

 その香の後ろ姿を見ていて、ふと撩は気がついた。
「おい、かおりぃ」
「なに?」
 手を止め、香は撩を振り返る。
 今日の彼女は白いノースリーブのカットソーといういでたちだった。
「お前、今日はそのカッコで伝言板見に行ったの?」
「うん、そうだけど」
「しばらくはなるべくボタンのついてる服にしろよ」
 えっと小さく香が言うのが聞こえた。
 けれど、すぐに彼女は諒解したようだった。こくりと頷く。
「ああ、そうね。ごめん。気をつけるわ。明日からはちゃんとボタンつきのにしてく」
 謝ることだろうかと、撩は思う。
 発信器の付いた服を選ばなくてはいけないのは、他でもない冴羽撩のせいではないのだろうかと。
 彼女は自由に服も選べない。ハイヒールもミュールも迂闊に履くことを許されず、爪もあまり長くは伸ばせない。
 そうした格好をすることを香本人が望んでいるかどうかは問題ではなかった。仮に彼女が望んでも、できない。そのことが問題なのだ。
 それらは本来、撩の傍にいなければ制約を受けないことなのだ。

 おそらく、そうした自由よりもこの男の傍にいることを香は望んでくれているのだろう。
 だからいいかと、今は撩も思わないではない。
 ようやくその程度には思えるようになった。
 撩は香にいて欲しいと思っている。香は危険を承知で撩の傍にいたいと思ってくれている。ならば、傍にいられるように努力するだけだ。彼女を死なせずにすむようにそしてまた自分も生き残れるように。
 彼女と暮らし始めてからからの数年間で、もう考えることはすべて考えてしまった。
「ああっ、もう、どうしよう!」
 突然キッチンから叫びが上がる。
 撩はあまり驚かなかった。香の声音はどことなくコミカルだったし、たぶんなにが「どうしよう」なのか検討がついた。
 それでも撩は律儀に立ち上がるとキッチンを覗いた。
「どしたの、香ちゃん」
 冷蔵庫の前に立つ彼女が振り返る。
「買いだめしておいた野菜もお肉も明日の朝ご飯くらいまでしかもたないのよ。もうお金ないのにぃ」
 少し乱暴に香は自分の髪をつかんだ。少年のような仕草だが、もう誰が見ても彼女を男と思うことはないだろう。
 少年にはあり得ない赤い唇を、香が開く。
「そもそもうちはエンゲル係数が高すぎるのよね」
「香ちゃんは人の5倍食うからな」
「あたしじゃなくってあんたが食べるからでしょ!」
 柳眉を逆立て怒鳴ってから、香は再び眉を八の字にすると両手を腰にあてた。
「まずいわー。ほんとにまずい。どうしよう」
 うーん、と香が呻る。
 撩はおどけて天を仰いだ。
「ったく、裏世界でナンバーワンのスイーパーが飢え死になんて洒落にもならないぜ」
「飢え死にがいやなら男の依頼も受けなさいよね」
「い・や・だ」
「ったく」
 ぷぅと香が頬を膨らませた。
「──仕方ないわね、あたしのへそくりを切り崩すしかないかぁ」
「そーゆーもんがちゃんとあるんじゃないか」
「まあそうなんだけど。でもあんまりもたないわよ」
「どうにかなるだろ」
「その代わり、今度依頼が来たら男の人の依頼でも絶対受けてもらうからね!」
「えー?」
 いやそうに撩が呟けば、香がにゅっとハンマーを取り出した。
 条件反射で、思わず撩の体は引く。
「すみません香サマ。真面目に働きます」
「よろしい」
 鬼より怖い笑顔で香が頷いた。
 

 本当をいえば、金ならある。昨日、情報屋に渡したような金なら確実にあるのだ。
 けれど、その金が日々の生活に持ち込まれることは決してない。その金は情報収集や武器弾薬の調達、その他諸々の必要経費として使われる金であって、「日常」に持ち込みたい金ではなかった。
 香に至ってはまるでその金の存在を知らないかのように振る舞っている。
 彼女とて年端もいかない子供ではないのだから、弾薬が無尽蔵に湧いてくるはずがないことも、その弾薬を買う金がどこからともなく降ってくるわけではないこともわかっているはずだ。けれど、香はそのことに触れない。
 だが、もし撩がその金について話せば彼女はふつうに受け入れるのだろうと思った。
 話してしまってもいいかなと、撩は思わないでもない。
 はっきり言って今さら香に隠し立てするようなことはもう何一つ残っていないのだ。
 まだ言っていないことは確かにあるが、昔のように話すことを躊躇ったり、あるいは恐れたりすることはなくなった。まるで自分だけの特別な思い出であるかのように意固地になる必要もない。
 かつて絶対的な秘密主義者だった自身を振り返り、撩は今の自分が信じられないと感じたりもする。なにより今でもほとんどの人間に対してはどちらかといえば秘密主義者を地で行っているのだ、撩は。
 けれど香に対しては、もう隠そうと思うことはなにひとつなかった。
 まあ、言う必要もないかなと──その程度の理由で言わずにいることばかりだ。
 特に金に関しては、例え話したところで日々の生活の足しには出来ないだろうからなおさらだ。
 そうしたことを、きっと香もわかっているはずだった。だから彼女はなにも聞かない。
 以前の香は撩についての色々を、聞くのを恐れていたのかもしれなかった。撩が香に話すことを恐れていたように。
 今はどうだろうか。
 たぶん、恐れてはいないだろう。
 聞かずとも信じられるから聞かないのだろう。
 そのはずだと、少なくとも撩は信じている。
 


 
 

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