六話
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ハイヒールを鳴らして野上冴子は街を闊歩していた。
なまじの女優では太刀打ちできないような美女が、不機嫌の三文字を顔に貼り付けてどんどん歩いていく。盆に入ったこともあり、街行く人々は普段に比べれば少ないのだが、その形相に恐れをなして冴子のために更に道を空けるほど、今の彼女は怒りに溢れる形相だった。
暑い上に湿気を多く含んだ風が肩口で切りそろえられた冴子の髪を揺らす。
それが非常にわずらわしい。
表情が示すとおり、この日の彼女の機嫌は最悪だった。
くだらない会議に付き合わされた。いけ好かない同期の連中ともずいぶん顔を合わせてしまった。
──野上警視。 え? まだ警視じゃない? え? 警部補? まだ警部補なの?──
そんな台詞を何度耳にしたことか。それも無邪気に語られるならまだしも、明確な嘲笑を交えて語られることが一再ではなかった。最初こそ指折り数えてやろうかとも思ったが、あんまり数が多いので腹が立って、数えることもやめてしまった。
確かに、警察庁のキャリアとして冴子の歳でまだ警部補というのは尋常でなく出世が遅い部類に入る。特捜課という特殊な部署に所属していることを差し引いてなお、他に類を見ない。そもそもキャリアは研修期間を過ぎた時点で警部に昇格するものなのだ。にも関わらず実務に就いている彼女が警部補なのは一度降等を食らったからであり、更に言うならそこからそのまま昇進していないためで、これはあり得ないこととまで言って良かった。
一方で、エリート街道を踏み外すことなく順調にヒエラルキーの階段を昇る同期のキャリアたちの中にはもう警部すらいない。警視がほとんどで、出世が早い人間の中には警視正さえいる。"まだ警部補"と言われるのは、だから当然のことだった。
そんなことはわかっている。
彼女は実を言えば好きで『まだ警部補』をやっているのだ。
過去に一度食らった降等は、──槇村秀幸と行ったおとり捜査の失敗が元で受けた降等処分は──望んだものではなかった。けれど、それ以来はどちらかというと比較的自由に動けるポジションを好んで出世せずにいるのが本当だった。
降等の経験あり、今でも警部補、という履歴のお陰で、『逆玉』狙いの男たちからすり寄られることもずいぶん減った。いくら警視総監の娘でも、あまりの問題児を妻にするほどエリートは酔狂でない。
──出来の悪い娘だと総監からもいいかげん見捨てられつつありますわ、オホホホホ。
そう彼女が笑えば出世目当ての男たちは潮が引くように去っていく。
加えて、本来なら玉の輿がねらえなくても一晩くらいはお相手願いたい美女のはずだが、そこは仮にも警視総監の娘であるから、ある程度保身を考える男たちは迂闊に誘ってくることもない。誘ってセクハラ呼ばわりされたあげく、冴子が父に言いつけたりすれば大事だと考えているのだろう。冴子の人となりを考えればばかげた想像だが、下手なちょっかいがないのは撃退する手間が省ける分だけありがたいことだった。
つまり冴子にとって、警部補は実にいいポジションなのだ。
何より基本的には周りの人間に階級で笑われることも気にならないのが本当だった。
階級が人間の能力をそのまま示しているわけではない。
彼女より上の階級の人間で、彼女以上の能力を持っている人間が何人いるというのだろう?
少なくとも、今日彼女をあざ笑った連中よりは彼女の方がましなはずだ。
それがわかるから、よほどのことがない限り冴子は階級など気にもならない。
──しかし、そうは思っていてもあまりに失礼が重なるとさすがに限度を超えるものがある。
「フン。そんなこともわからないなんてばかな連中だこと」
冴子はひとりごちて髪を払った。胃がむかむかするくらい腹が立っている。
そう、階級がそのまま能力を示すわけではない。
冴子は自問自答する。
例えば警視や警視正。もっと上の階級でも、槇村秀幸以上の男などいただろうか?
──いや、いない。
冴子の知る限り、警察の内外を問わず槇村秀幸以上の男に心当たりはなかった。
候補者は何人かいる。槇村の親友だった男を通して、冴子もずいぶん、『裏で一流』という困った肩書きを持つ男たちを知った。
他でもないその槇村の親友は、一流どころかナンバーワンだったりもする。
だが彼らが槇村秀幸を超えているかと問われれば、冴子は悩みつつも首を横に振るだろう。
冴羽撩という裏世界ナンバーワンの男は、確かに戦闘力も頭の回転の速さもずば抜けている。どの国の法にさえ縛られず、ただ自分の中の掟にのみ従うような、自分には厳しくて人には優しいその生き方はどんな女も惹き付けるだろう。他でもない冴子だって惹かれていた。あるいは今でもなお惹かれているのかもしれない。
ただ、冴羽撩は、こちらの不安を呼びすぎる。
槇村秀幸のようにすべてを委ねてしまえるような安心感は与えてくれない。わずかも、与えてくれないのだ。
戦場で一瞬ならともかく、日々の生活を共にして行けるような男ではなかった。とてもではないがこちらの精神がもたないだろう。
だからこそ、どれほど冴羽撩に強く惹きつけられても、冴子の感情は恋にはならなかった。最後に選ぶのはいつも槇村だった。彼女の求めるものを持っていたのは槇村だったのだろうし、撩に踏み出せなかったところに自分の限界があるのだろうことを、冴子は、今は知っている。
「……やっぱり香さんはすごいわ」
かつての恋人の妹を思い出して冴子は思わず笑った。なにからこんな思考に繋がったのかも忘れて、少し歩みの早さは落ち着いた。
槇村香という女性を冴子は思い出す。
冴子は日本人男性の平均身長並みの背丈だが、その冴子より香はまだ背が高い。
かといって、モデルのように鶴を思わせる体型というわけでもなく、実にバランスの取れたスタイルをしている。
全体的に色素が薄くて、髪の色も目の色も明るい。肌は白かった。顔立ちもたいそう整っている。昔は雰囲気と相まってきかん気の強い美少年といった趣だったが、今は道行く人々が思わず振り返るほどきれいな女性になった。
もっとも当人はそんな自分の容姿にはまるで興味がないようで、飾り立てるような真似を一切しない。だらしない格好は香自身の精神に反すると見えて絶対にありえず、きちんとした服装は常にしているものの、そこに自己を飾るという意識がないのは明らかだった。
槇村香はどう考えても自身の美しさに気づいていない。目にウロコが何重にも張り付いているとしか思えない。
どこぞの男が日々彼女に吹き込んでいるブスだの、男女だの、飾っても無駄だのという暴言が呪いのように効いているのかもしれなかった。もしそうした台詞を単なる軽口でなく、計算の上で言っているとしたらあの男はずいぶんな悪人だ。
他の男に彼女をかっさらわれるのがいやだと言うのなら、あの男は先に自分たちの関係をはっきりさせるべきなのだ。
それとももうハッキリさせたのだろうか?
自問するも、答えは冴子にはわからなかった。
あの二人の関係は既に精神的にはたぶん近すぎて、何かあったとしても傍目にはわからない気さえするのだ。
その二人の絆の深さに一抹の切なさを覚えたり、喜ばしくも思ったり、冴子の香への感情は複雑かもしれなかった。
冴子に限らず、おそらく冴羽撩という男に惹かれた女性の大半が、槇村香には複雑な思いを抱くのだろう。
妬みがないといえば嘘になる。けれど、それを上回る憧憬にも似た愛しさを感じる。更に言えば同情もある。かなわないとも、思う。ただ女として以上に、彼のそばにいるものとしては。
何より、尊敬した。
彼女でなければあの男に最後まで付き合うことは出来ないだろう。惹かれるだけではなく、恋するだけでもなく、冴羽撩を愛して彼のすべてを受け入れることは、他の女にはきっと出来ない。
けれど、香ならできる。香にだけは出来ることなのだ。
それが羨ましくもあり、妬ましくもあるのだが。
本当に複雑ね……、冴子は胸の内で呟いた。
ひとつだけはっきりわかるのは、自分は彼女が好きだということだった。それは自分に限らず、彼に惚れた他の女たちもたぶんみんなそうなのだろう。
「あら?」
冴子は思わず呟いた。
遠くに、すらりと背の高い女性が歩いていく。
他でもない、その彼女ではないだろうか?
少し冴子は足を速めた。その後ろ姿に追いつく。
「あらぁ、やっぱり。香さんじゃない」
「えっ?」
彼女は振り返って目を丸くした。
「あ、冴子さん」
「お久しぶりね。今は……ああ、伝言板を見てきた帰り?」
「ええ」
香が小さく微笑んだ。
冴子はその姿に見惚れた。
槇村香は見るたびにきれいになった。中でも、この一年あまりの変化たるや凄まじい。もうこれ以上きれいになることはないだろうと思うのに、やっぱり逢うたびにきれいになるのだ。
なにか壁にぶつかり、それを乗り越えることで彼女に磨きがかかっているのはわかっている。
それでも、このままどこまで美しくなるのかとても見てみたいと思わせた。
「冴子さんは、この時間に新宿って珍しいですね。お盆休みじゃないんですよね?」
「西新宿でくだらない会議があったのよ。さっき終わったところ。今日は本庁に戻らずにこのまま帰っていいことになってるから、どこかでお茶でもしない?」
あははと香が困ったように笑った。
「いまお金ないんですよねー、うち」
「私が誘ったんだから、もちろんおごるわよ」
「……キャッツで、いいですか?」
少し声を低めて香が言った。
指定された喫茶店の名前に、冴子は不意にいやな感覚を覚えた。
その場所は香たちにはなじみの元傭兵夫婦が営んでいる店で、彼女にとってはこの新宿でもっとも安全な飲食店といえる。わざわざそこを指定するということが意味するのは……。
冴子は眉をひそめる。
「なにかあったの?」
「ええ、ちょっと」
香は言葉を濁した。
「もう、そんなときでも香さんは一人で伝言板を見に来てるの? 撩にやらせるか、せめて彼がついてくるなりすればいいのに」
冴子は本気で憤慨した。
それから、ふう、と息をつく。
「まあいいわ。お茶でも飲みながらゆっくり話しましょう」
「ええ」
香がうなずいた。
と、同時に彼女の薄い茶の目が何かを捉えたように、すいと車道に流れた。
冴子の背中側から走ってきた一台の黒いセダンが音もなく二人の横に止まった。
スモークが掛かったセダンの窓が、静かなモーター音を立てて降りる。
「槇村、香さん?」
甘い声がした。
はっと、自分の隣で香が息を詰める音を冴子は聞いた。
冴子は香が見つめる先に視線を向け、瞠目した。
窓からは黒々と光る銃口が香に向けて顔を覗かせていた。
銃を握っているのは髪の長い女だった。暗い車内にあって、スーツの深い赤が闇に浮かぶ炎のようだ。顔の三分の一をサングラスに隠し顔立ちの詳細はわからない。それにもかかわらず、雰囲気が既に美女だった。
冴子の横で、香が息を吸い込んだ。
「誰ですか?」
低く、香が問いかけた。その体には緊張が走っているのを冴子は見て取る。
「心当たりがあるでしょう?」
女が言った。香は黙った。
「槇村香さん。わたしたちといっしょに来ていただきたいの」
「いやだと言ったら?」
「この場であなたを撃つわ」
女は即答した。
冴子は自分の太股にそっと効き手を伸ばした。そこには常時ナイフが潜ませてある。
くすりと、女が笑った。
「そちらの方、刑事さんかしら? 確かシティーハンターのお友だちね? ナイフを投げようと思っても駄目ですよ」
冴子は手を止めた。鋭く女を見つめる。
女の口元は笑っている。だが、本当の表情はグラスに隠されてわからない。
「刑事さん。あなたがおかしな真似をすれば、迷わず香さんを撃ち殺すわ」
「その前に私のナイフの餌食になってよ?」
「ナイフで骨までは、断てないものです。あなたが邪魔をするならわたしは腕を切り落とされない限り彼女を撃つ」
後部座席の窓が開いた。もう一つ、銃口が見えた。その銃口も見据える先は冴子ではなく香だった。
香が目を見開いてバックシートの女を凝視していた。前席の女に銃を突きつけられた時よりまだ大きな反応だった。
後部シートに座る女は髪の短い女だった。やはりサングラスで顔を隠している。ハンドルを握る女に比べれば若く、ずっと緊張している様子だった。だが銃を握る手は震えていない。銃口はしっかりと香の胸をとらえていた。
運転席の女は、ほほえみを浮かべたままで言った。
「刑事さん、あなた、香さんがかわいいでしょう? 彼女を危険にさらすようなことはできないはずだわ。香さんを大事に思うなら大人しくなさって?」
冴子はほぞをかむ。女の言うことは、悔しいが、正しかった。
冴子は二人を同時には相手に出来ない。少なくとも、自分以外に害が及ぶ可能性がある中では無理だ。まして傍にいるのが香なら。
ナイフに届きかけていた手を、冴子はさげて見せた。
女が満足げに頷く。
「さあ、香さん、乗って。あなたはこれがこけおどしでないことを知っているわね?」
香が小さく唇を噛むのが見えた。彼女が、口を開いた。
「冴子さん、ごめんなさい」
香が一歩車に近づいた。後部シートの女が素早くドアを開ける。
「刑事さん? 動いては駄目よ」
ふふ、と運転席で女が笑った。冴子は頭に血が上るのを感じた。みすみす目の前で大事な彼女をさらわれようとしているのになにも出来ない。それを笑われるのは階級について笑われるのとはレベルが違う。耐え難い。
後部シートの女がなにかを香に渡していた。見れば、糸切りばさみだった。
うしろの女は口を開かない。
前の女が言った。
「香さん。それで発信器がついているボタンを切ってちょうだい。もし全部のボタンについているのなら、中に入って脱いでもらうしかないのだけれど」
香は黙ってハサミを受け取ると、ブラウスの上から二番目のボタンを迷わず切った。
「それを、お隣の女刑事さんに渡してあげて」
香がちらりと冴子の方を見た。香の目が小さく謝っていた。
冴子は差し出されたボタンを手に取った。一瞬触れた香の指先は、乾いて冷たかった。
前の女が首を傾げる。
「他には?」
香が首を横に振った。
「ないわ」
「バッグの中に盗聴器や発信器は?」
「それもないわ」
「嘘をついたら命がないわよ」
「嘘じゃない。……なにかあった時のために、バッグは置いていくようにしてるもの」
さらわれれば、その場にバッグを捨てていくことにしているのだろうと冴子は思った。ショルダーバッグがまるごと路上に放置されていれば、さすがにそのままにされることは少ない。身分証明書から彼女の家へ──つまり、冴羽撩の元へ連絡が行く。男は香の身になにかが起きたことを知るだろう。
女は頷いた。
「けっこう。乗りなさい」
冴子は香の腕を引いた。
「香さん……」
香がもう一度唇を噛み締めた。
「ごめんなさい。冴子さん」
香は冴子の方を見ずに言った。
「刑事さん」
女に呼ばれ、冴子は相手を睨みつけた。
女は小首を傾げた。
「刑事さん、あなたにはメッセンジャーをお願いしたいわ。その方が手間が省ける」
冴子は傲然と頭をそらせた。
「お断りするわ」
冴子の返事に女は首を傾ける角度を大きくした。
「香さんを、早く彼と再会させてあげたいと思わない?」
そんなことは百も承知だった。ただ、この女の言われるままに使い走りをさせられるのが気に入らないだけだ。
冴子は腕組みした。
「香さんを大事に扱ってくれるなら聞かないでもないわね」
「それは彼女次第よ。香さんが私たちを怒らせなければいいのだけれど。……でも、努力はしましょう」
「……」
「明日の午後10時にCホテルのバーでお逢いましょうと、冴羽さんに伝えてちょうだい」
冴子は眉をつり上げた。
「あなたは誰?」
「オオクロ リサコ。そう言えば、冴羽撩さんならたぶんわかると思うわ」
女はもう一度笑い、窓をしめた。
セダンが発進した。
冴子は手の中のボタンを握りしめた。
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