誘拐
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「撩、いるっ!?」
冴子はインターホンも押さずに冴羽宅に乗り込んだ。
ハイヒールを蹴るように脱いで、問答無用で家に上がり込む。
リビングまで入るが、人の姿はなかった。
「撩!?」
「んぁ〜?」
気の抜けた声がして、奧から男が頭を掻き掻き現れた。
ぱんつ一丁という姿で、である。
「服くらい着てきなさいっ!」
冴子は叫んで白と黒に塗り分けられたミニサイズのハンマーを投げつけた。
ハンマーはきれいに回転しながら男の顔面にクリティカルヒットする。慣性力のなすがまま、男は床に仰向けにひっくり返った。
なかなかどうして、百年の恋も冷めるような眺めである。
突然のことだったので、冴子としては珍しく予定よりも手加減がきかなかったらしい。
「ちょっと撩、寝てる場合じゃないわ! わざわざ10tサイズですませてあげたんだから気を失わないで」
勝手を言いながらまなじりをつり上げて冴子は男の前に仁王立ちになった。
あいてててて、と呟きながら、男が身を起こす。
「冴子、お前なあ……いきなり上がり込んどいてそれはないだろ」
「それどころじゃないのよ!」
冴子は左手をテーブルに叩きつけた。ずっと握りしめていたボタンの厚みがてのひらに少し痛かった。
確かに男の軽口に付き合っている場合ではない。
冴子はボタンをテーブルに残して、手を引いた。
「香さんがさらわれたわ」
男はミニハンマーが直撃した顔面をさすった。
「あぁん? お前の目の前で?」
「そうよ!」
「現役警部補の前で人をさらうたぁ、思い切ったことをするヤツがいるもんだ」
頭に血が上っている冴子とは対照的に、撩はのほほんとそんなことを言う。冴子の怒りのボルテージは更に一段上がった。
冴子にも冷静な部分では撩がさらわれた彼女の心配をしていることはわかっている。この男が彼女の身を案じないわけがないのだ。これはあくまでただのポーズに過ぎない。
慌ててみせたところで、彼女が戻ってくるわけではない。こんな時こそ冷静さを保ち、平常通りにすべきなのだ。この男はさすがにそれをよくわきまえている。
──だが、それがわかっていてもここまで平然とされると腹が立つ!!
冴子は心の中で握り拳を作った。
「おいおい、怖い顔してどうしたんだよ」
いつの間にか、いつも通りのスラックスをはいてTシャツまで着た男が冴子を覗き込む。
「私のことはどうだっていいのよ! それより、香さんよ。彼女、いま発信器もつけてないのよ?」
「みたいだな」
男は冴子が叩きつけたボタンを手に取った。
「これ、どうした?」
男が初めて真顔で尋ねた。
冴子はひとつ深呼吸した。頭に登った血を少しでも下げる努力が必要だった。
冴子は香がさらわれたいきさつを話し終えた。冴子が話すあいだ、男はほとんど口を挟まなかった。
「オオクロ、リサコ?」
「そう言ったわ。心当たりは?」
「ないね」
即答されてまたなにかが冴子のしゃくに障った。もう少しきちんと考えてくれてもいいだろうという気になる。
「あなたに言えばわかるって、その女性言ってたわよ」
男からすぐに返事はなかった。覚えはないと即答した割に、なにか考えている様子だった。
「オオクロリサコ?」
三秒ほどで男は再びその名を口にした。その声音が、少し緊張感を帯びていた。
「覚えがあるのね」
「いや、覚えはない。偽名だな?」
「まだ調べてないわ。……どうして偽名だと思うの?」
男は電話の脇にあるメモ帳に、なにか書き付けた。
一番上の一枚をはがして冴子に差し出す。
「それを適当に入れ替えてみな。オオクロリサコになる」
冴子は受け取ったメモに目を通した。
メモを持つ手が凍った。
──『kaori o korosu』。香を殺す?
慌てて頭の中で冴子は並び替えた。焦ってうまくできない。『Ohkuro Risako』──いや、『Ookuro
Risako』になるのだろうか。
「たちの悪いパズルみたいなもんだ。おまけに出来もよくない」
冴子はかろうじて頷いた。
「そうね。趣味がいいとは言えないわね」
教えられた内容もそうだが、あのほんのわずかな時間でこの答えに行き着く男に、冴子は驚いていた。この男の能力にはいつも驚かされるが、今回も例に漏れない。へらへらとしている裏でこういうことを考えている。
「これ、ただの偶然じゃないの?」
「いいや、覚えがまるでないのは本当だ」
「ある程度の年齢の女の人よ? 結婚して名字が変わった可能性だってあるでしょうに」
「俺に言えばわかると言ったんだろ? それなら、俺にわかる名前で名乗るだろうよ」
確かにそうだと冴子は納得した。男の言い分が正しい。
まるで、普段冴子の相手をしている男とは別の男が、あの頭の中で計算をしているようだった。実際にそうなのかもしれなかった。普通の人間が食事しながら人と簡単な話ならできるように、この男は高度な受け答えをしながら難しい計算もこなしてしまえる。それも、二つ同時にではなく、三つも四つも同時に。それぞれの仕事を請け負うのはそれぞれ別の役者で、けれどそのすべてが冴羽撩であることは間違いない。
自分で考えて、冴子はよくわからなくなった。ただそんな気がした。少し恐ろしかった。
「んで? そのセダンのナンバーは見たのか?」
「当たり前でしょう」
反射的に冴子は答える。考え事の裏でも男の声が聞こえていないわけではない。
そして、冴子は自分も男と同じかも知れないと思った。この程度のことなら、冴子にも併行して出来る。男ほど高精度、高機能でないだけだ。
冴子は手帳を出して、そこに控えておいたナンバーを受け取ったばかりのメモに書いた。
「私の方でも調べておくわ」
「あんまり動きまわらんでくれよ」
冴子は目を細めた。
こういう時には苦い思いが胸をよぎる。
冴子は仮にも警察官だ。目の前で人がさらわれればナンバーから車を割り出し、犯人を割り出し、逮捕令状を請求して逮捕に至れる。
警察が絶対だとは思わない(警察が絶対なら、街の掃除屋は必要ない)。それでも警察の組織力を用いれば出来ることも少なくない。それは確かだった。
けれど、この男に絡む問題ではそうした警察の力はほとんど使えない。警察の力を用いてこの男の本業がばれるようなことになったら男の生活の方が崩れる。百歩譲って、撩は仕方がない。この男は初めからそういう世界の男なのだ。
けれど、彼女は違う。彼女は──。
本当なら、法に守られていい人間なのだ。
冴子は胸の内で溜息をついた。目の前で彼女をさらわれたことで少なからず動揺しているようだった。
「適当にごまかして調べるわよ。あなたたちとの付き合いも今に始まったことじゃないんだから、ヘマはしないわ」
「んじゃ、頼むわ」
「おっけー」
軽く答えて冴子は立ち上がった。
「それじゃあ、私はさっそく本庁に戻るわ。何かわかったらすぐに連絡するから、情報ひとつにつきモッコリ一発、引いておいてね」
男が小さく舌打ちした。
「そりゃちょっと高いんじゃないか?」
「妥当なところよ」
冴子は笑って男の前を後にした。
外に出ると冴子はむっとした暑さにつつまれた。
既に夕刻に近い時間だが、まだまだ暑い。ここに来る途中は、怒り狂っていたせいで暑さにも気づかなかった。
撩との会話でいつの間にか自分が多少は落ち着いたことを冴子は知った。別の意味で頭に血が上ったりもしたが、普段の状態には確実に近づいたのだ。
これだから、あの男は侮れない。
ふぅ、と冴子は息を吐き出した。
頭に血が上った勢いであやうく思ってはならないことを思ってしまったかもしれなかった。
『あなたの傍にいなければ、香さんが危険に巻き込まれることもないのに』
それは絶対に、彼らに言ってはならない台詞だ。思うことすらはばかられる。
少なくとも第三者が考えていいようなことではなかった。
「危ない危ない」
小さく呟き、彼女は手の甲で額を小さくこづいた。
そして、そう言えば、と冴子は気づく。
彼女もいないというのに、「鬼の居ぬ間にもっこり一発!」などという台詞をあの男が吐かなかった。
「やっぱり、平気な振りはポーズね」
思わず冴子は苦笑した。
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