七話
 

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 早苗はサングラスを外すと、運転席の桐生美和に尋ねた。
「一日、彼に会うのを早めることにしたんですね?」
 桐生はサングラスをしたまま、ハンドルを握る。
「ええ。予定変更よ。連絡のために一日取る必要がなくなりました」
「さっきの女性は刑事なんですか?」
「そう。シティーハンターに関する資料にあったから間違いないでしょう」
「よかったんですか? 警察の人間の目の前で……」
「問題ないわ。警察に動かれて困るのは私たちよりむしろ彼ら自身ですもの。あの美しい刑事さんもそれはよくわかっているはずね」
 高級セダンの車内は驚くほど静かだった。振動も少なく、発進の際にかかる慣性力も微々たるものだ。車窓の風景が流れるのを見なければ、車に乗っていることすら忘れられそうだった。もっとも、それは車の能力ばかりに限ったことではなく運転手の腕によるところも大きいのかもしれない。
 槇村香は、早苗が予想していたより大人しかった。暴れるような気配はない。銃は今でも突きつけたままだ。そのせいだろうか。
 空木早苗は今の状況に強烈な快感を感じていた。血が沸騰するようだった。
 シティーハンターと呼ばれる二人ほど早苗の憎しみを誘った者たちは過去にない。その片方の命が今は早苗の手の内にあった。例え戯れにでもこの引き金を引けば、その瞬間、目の前の女の命はなくなる──。
 桐生がハンドルを切った。
 細い路地に入る時もこの車はスピードを緩めない。当然ながら車体がビルにこするようなこともなく、桐生は口を開いた。
「香さん、運転中で悪いけれど自己紹介させてちょうだいね。わたしは、桐生美和」
「桐生? ……オオクロリサコじゃなかったの?」
「あれは偽名よ。趣味の悪い、ちょっとしたパズルのようなものね」
 槇村香には意味がわからないのだろう。彼女は眉を寄せた。
 美和が小さく笑った。
「元もと、あなたをお知り合いの前でかどわかす予定ではなかったの。彼と会談するために、あなたに彼宛のお手紙を代筆してもらおうと思っていたのよ。大黒りさこはその時に使うはずだった名前。伝言をあの女刑事さんに頼めたから本当は本名でもよかったのだけれど、まさか刑事さんに本名を言うわけにもいかないでしょう?」
 くすくすと桐生は笑う。
 再び大きな路地に出たセダンは、赤信号で止まった。
 槇村香をさらった現場からはもうずいぶん遠のいたのがカーナビゲーションの画面でわかる。
「早苗さん。一応、香さんの荷物を改めてもらえるかしら」
「わかりました」
 早苗は素直に頷いた。
 そして、一瞬迷う。
「桐生さん……銃は、離しても大丈夫ですか?」
「大丈夫。ねえ、香さん、暴れたりしないわよね?」
 桐生はサングラスを外すと槇村香を振り返り、にっこりと笑った。
 香がわずかに体を固くするのが早苗にはわかった。
「約束してくれるわね?」
 押しの強い笑顔で桐生が言う。
 香は、しぶしぶという様子で頷いた。
「だ、そうよ、早苗さん。大丈夫です」
「はい」
 早苗は銃をホルダーに戻した。香のハンドバッグを手に取る。バッグは思ったよりもずいぶん重かった。
 中には財布、携帯電話、手帳、ハンカチ、ティッシュ、ファンデーションのコンパクト、あぶらとり紙、口紅……緊急の時のためだろうか……生理用ナプキンに錠剤の入ったピルケースなど、一般的な女性のバッグの中身と変わらないものがきちんと収められていた。
 だか、そのバッグはふつうの女性のバッグではなかった。絶対的に違うものが入っていた。
「桐生さん」
「なにか見つけた?」
「銃が入っていました」
「まあ……」
 信号が青に変わり、桐生がアクセルを踏んだ。エンジンの回転数のに伴い彼女はシフトを一速に入れる。
「香さん、あなた、嘘をついたわね?」
「なんのこと?」
「銃入りのバッグは路上に放置できないでしょう」
「今日は……ここしばらくは特別だったわ。何かあるかもしれないと思ってたから。いつもは持ち運んでないわよ」
「そんなことは、問題ではありませんね。盗聴器や発信器がバッグにも仕込まれている可能性があるということでしょう」
「入ってないわよ」
「怪しいものね」
 桐生が言う。早苗はバッグを自分の背後に回し、香から遠ざけた。再び銃を手にして香に向ける。
「桐生さん、どうします?」
「やっぱり、お色直しが必要でしょうね」
 桐生はバックミラーに視線を走らせ、ためらいなく車線を変更した。
 

 桐生の運転する車は、都内のあるホテルに着いた。西新宿のCホテルではない、別のホテルだった。
 その部屋は大黒りさこの名義で借りられている。Cホテルに取られた部屋のように豪華なものではない、ふつうのビジネス用ツインだ。ベッドと小さなデスクだけで一杯一杯になって少し薄暗い。利点があるとすれば、裏口からほとんど人目に付かずに部屋まで辿り着けるところにあった。
 早苗は備え付けのクローゼットから紙袋を取り出した。
 それを、黙って槇村香へと差し出す。
 早苗のうしろで桐生が口を開いた。桐生が手にする銃はきっちりと香をとらえていることだろう。
「香さん。その袋の中身に着替えてちょうだい」
 槇村香は早苗たちを一瞥して、袋の中身に目を向けた。女はすぐに顔をしかめた。
「これ、中に下着まで入ってるんだけど」
「そう。下着まで替えて欲しいの。どこにどんなものが仕込まれているかわからないでしょ?」
「……それなら出ていってくれない?」
「い・や」
 桐生の言葉は子供のようだった。ふふ、と笑う声が早苗のうしろから聞こえる。
「出ていったら、その間になにか仕込み直されるかもしれないでしょう? それでは着替えてもらう意味がないわね」
「人前で着替えるなんていやよ」
「同性なのよ、いいじゃない」
「いやよ」
「どうしてもいや?」
「いや」
 ずいぶん強気だ、と早苗は思った。
 銃を突きつけられたこの状況下でこれだけ強気な槇村香の態度は、たとえ虚勢にしても大したものだ。
 こうした状況になれているのだろうか。
 桐生の話によれば、そのはずだった。他でもないクロイツ親衛隊にも槇村香はさらわれた経験があるはずだという。
「早苗さん」
「はい」
 突然呼びかけられて、早苗は慌てて桐生を振り返った。
「早苗さんの時計に秒針はついてる?」
「ええ、ついています」
 反射的に答えてから早苗は首を傾げた。時計の秒針がなんだというのだろう。
 桐生は視線を早苗から香へと移した。
「今から、三分計るわ。私たちはこれから部屋の外へ出ます。三分経ったらノックするから、着替えをすませて出てきてちょうだい」
 槇村香は唇を尖らせた。
「三分じゃ短いわよ」
「それ以上はあげられない。くれぐれも、逃げようとしたり新しい服に刃物を移し替えたりしないように。いいわね?」
 香はじっと桐生を見つめていたが、諦めたように頷いた。
「よろしい。早苗さん、わたしたちは出ましょう。時間を計って」
「わかりました」
 早苗は頷くと、桐生に従って廊下へ出た。ホルダーを開いてドアにオートロックがかからないようにする。
 時計を見た。
「桐生さん」
「なに?」
「よかったんですか?」
 桐生はあでやかに微笑んだ。
「しかたがないでしょう。人前で着替えが恥ずかしい気持ちはわかります」
「それはそうですが……」
 早苗は顔を伏せて唇を噛んだ。
 少し甘いのではないかと思わなくもない。
「今どれだけ経ったかしら?」
「三十秒です」
「そう。……ねえ、早苗さん」
 早苗は顔を上げた。
「はい」
 桐生は変わらず微笑んでいた。
「もし彼女が発信器をつけたままで、彼が来ることがあったら仕方がないわ。その時は彼女を殺しましょうね」
 早苗は思わず息を呑む。やがて慎重に頷いた。
「嘘をついたら殺すと、言ってありましたね」
「その通りです」
 やはり、桐生美和は油断のならない人物だった。だからこそ、頼りがいがある。
「香さんの着替えが終わったら、ここをすぐ出ましょう。かえの車はもう置いてあるから早苗さんはそれで蓼科まで行ってちょうだい。香さんに場所を知られないよう念のためナビなしの車になっているけど……別荘の場所は大丈夫?」
「大丈夫です。──桐生さんは?」
「わたしは今の車を返してくるわ。ああ、ついでに彼女のバッグも宅急便で送り返しましょう」
「そのあとはどうされるんです? 冴羽撩とあうのは明日ですよね。新宿に残られますか?」
「いいえ。すぐに蓼科に追いかけます」
「でも……」
 桐生は目元をさげて甘く微笑んだ。
「そうね。少しハードスケジュールになるけれど仕方がないでしょう。彼に逢う前に、彼女ともう少しだけ話しておきたいの」
「わかりました」
 早苗は時計に目をやった。あと三十秒で三分だ。
「ああ、それから」
 桐生の声に早苗は顔を上げた。
「はい」
「バッグから彼女の銃だけは取り出しておかないといけないわね」
「そうですね」
「彼女が自分の銃をもってきてくれていたのは、とても嬉しいことだわ」
 桐生は一段と笑顔になった。早苗も微笑み返した。
 早苗は、自分の腕時計に目をやった。
 秒針が時を刻むのをじっと見つめる。
「──時間です」
 桐生は頷いて、ノックするために手を挙げた。

 


 
 

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