八話
 

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 南八ヶ岳を間近に臨む長野県の蓼科(たてしな)は、軽井沢と並ぶ高級避暑地である。
 その一角に、その別荘はあった。
 白い壁とレンガづくりの壁の二種類を基調にしたコテージは蓼科に並ぶ他の別荘と比べればそう大きな造りではなかったが、目立たないなりにも木組みのベランダも窓ガラスの配置も十分に趣向が凝らされている。白樺が植えられた庭は広く、遠目から中を覗くのは困難で、周囲からは少し離れたところに建っていた。この辺りは人通りも少ない。
 ──今回の、槇村香の拉致監禁先としてはうってつけだった。
 空木早苗には別荘も避暑地も基本的に縁がない。
 軽井沢には学生時代に友人たちと高くないペンションに遊びに来たことがある程度だったし、蓼科という地名を初めて耳にした時もピンと来なかったほどだ。
 この別荘の所有者は、もちろん桐生美和だった。
 もっとも美和本人が言うには、その建物は彼女の亡き恋人が造らせたものだったらしい。ただ、もろもろの都合があって美和の名義になっていたそうで、恋人亡き後はそのまま美和の所有物として納まっているというが、こういう場所にこれだけの建物を維持していくとなるとそれだけでもかかる金額はなまなかなものではないだろうから、やはり早苗にとっては別世界の話に近い印象だ。
 だがそれよりも、この別荘を初めて紹介された時には、早苗もさすがに美和の恋人という男に興味を持った。その男がふつうの職業に就いていなかったことがすぐにわかったからだ。
 この日本で普通の職業に就いている男が、別荘の地下に射撃場や武器庫などを完備させたりするはずがない。
 早苗や美和が使用した銃は、その武器庫から持ってきていた。早苗はその射撃場で初めて銃の扱いを覚えた。役には立ったが、桐生の恋人はまさか自分の敵討ちをさせるためにそうした設備を備えたわけでもないだろう。皮肉なことだと、早苗は思わずにいられない。

 早苗は車を玄関先で止めた。
「着きましたよ、槇村さん」
 後部シートを振り返る。
 部屋着としてしか使い道のない100%綿素材のワンピースを着て、槇村香はのべ3時間のこの道中を大人しくしていた。手錠をされ、目隠しもされた状況では大人しくせざるを得なかったのが実情だろうが。
「ずいぶん走ったわね」
「そうですね。あなたが車酔いしない人で助かったわ」
 早苗はドアを開けて運転席から外に立った。
 蓼科の清涼感溢れる空気が早苗をつつむ。緑鮮やかな木々に、澄んだ青空と山の稜線。眺めがよかった。
 もっとも、槇村香は目隠しをされているからこの光景は見られないだろう。
 早苗は後部ドアを開けた。
「降りられます?」
「手錠を外してもらえればね」
「それは出来ません。外さなくても歩くくらいは出来るでしょう」
「目隠しは?」
「もうしばらくはそれも駄目です」
「今、何時かしら。お腹が減ったんだけど」
「時間に関してはお答えできません。食事はあなた用の部屋に着き次第運びます」
「毒入りはごめんよ」
「ただ殺すのならとうの昔に殺しています」
 早苗は香の手を取った。軽く導くように引く。
「さあ、立って」
 槇村香はそっと足を踏み出した。足元を確かめるように何度か踵で土を蹴り、ようやく立ち上がる。
 早苗は更に手を少し引いた。香は大人しく早苗の手に引かれて歩き始めた。
 目隠しされたまま、香が口を開いた。
「ずいぶん涼しいのね」
「暑いよりいいでしょう?」
 言いながら、早苗は香を一瞥した。槇村香は今、必死で自分の現在地を考えているのだろうと思った。
「槇村さん、階段があるから気をつけて」
 早苗はゆっくりポーチを上がった。香がそれに続いて上がってくる。思ったよりも香の足の運びはスムーズだった。
 まさか、見えているのだろうか。
 一瞬、早苗はそれを疑う。だがそんなはずはなかった。おそらくこんな風に手を拘束されたり、目隠しされたりすることになれているのだろう。拉致されているにもかかわらず落ち着いている、今の様子からもうかがえることだ。
 クロイツ親衛隊が彼女を拉致した時も、こんな風に目隠しして手を拘束したのだろうか。
 早苗は思わず考えた。あとで香本人に聞いてみても良いかも知れない。
 片手で香の手を押さえたままインターホンを鳴らす。
「早苗です。戻りました」
「空木さん? いま開けますわ」
 中からは少し低い女性の声がした。その声を早苗は当然知っている。
 声の主は花井良江(はないよしえ)という名の、もう六十近い女性だった。彼女ももちろん今回の計画の参加者で、息子を殺されているという。彼女は年齢が高いこともあってアクションには不向きだったが、その分、この隠れ家(それともアジトだろうか?)を維持するのは桐生より早苗よりずっと適役だった。
 ドアが細く開かれ、手錠をはめられて目隠しされた香を花井が確認する。花井は少し小柄で中肉の、ふつうの主婦という雰囲気の婦人だった。何もなければどちらかというと人のよさそうな婦人に見える。だが、香を見る目に険しい光が宿るのを早苗は見た。無理もないことだと思う。
 花井が大きくドアを開いた。
 早苗は香の手を引いて中に入る。
 花井はドアをすぐに閉めた。
「空木さん、ご苦労でしたね」
「いいえ」
 早苗は首を横に振る。
「花井さんこそこちらの準備、お疲れさまでした」
「桐生さんは?」
「新宿で用を済ませたらすぐこちらにいらっしゃるそうです」
「うまくいったの?」
「はい、今の所すべて」
 花井がそれはよかったというように頷く。
 そして、初めて視線を香へと向けた。
「こちらが槇村、香さん?」
 早苗は黙って首肯した。
「そう……」
 それだけ言って花井は黙り込んだ。早苗にはその気持ちがよくわかる気がした。
 早苗もまた、香と初めてあった時とっさに言葉が出なかったのだ──怒りのあまり。
 花井は早苗に目を戻した。
「槇村さんのための、部屋の準備は出来てますよ」
「わかりました。私が連れて行きます」
 花井が小さく頷いた。それを見て、早苗は再び香の手を引いた。
 

 別荘の二階にあるその部屋は一部を除きごくふつうの寝室といって差し支えない。
 むしろ、部屋にユニットバスがついている辺りはホテルの一室のようだった。
 別荘の一室になぜそんなものがついているのかと早苗は桐生に尋ねたことがあった。すると、この時のためにこの一角全体をリフォームしたからだと桐生は答えた。
 普段の桐生は、まるで今回の計画を楽しんでいるようでそこには悲壮感や執念が感じられない。けれど、そうして労力と財力を惜しげもなく今回の計画につぎ込むところに、桐生の思いのほどが現れていると早苗は思っている。
 ベッドのシーツはぴんと張って、床にはほこり一つ落ちていなかった。ベッドの脇に備え付けられたナイトテーブルの表面はつやつやと輝いている。
 花井夫人が徹底的に磨き上げたのだろう。
 ──さすが主婦。
 早苗はわけもなく感心してしまう。花井は料理もうまいことを早苗は知っていた。一流コックとは違う、家庭の味だ。
 早苗は口を開いた。
「槇村さん」
「なに?」
「お腹、すいてるんですよね」
「ぺこぺこよ」
「大人しくしてくれるならすぐに何か作ってもらいますけど」
 槇村香はすぐに答えなかった。
 やがて、女は肩をすくめた。
「いくら何でも、食事時には手錠、外してくれるんでしょうね」
 手錠の鍵は早苗のパンツスーツのポケットに入っている。早苗は布地の上からそれを確かめた。
「暴れないと約束してくれるのなら食事時やお風呂時に限らず、手錠は外します」
「……わかったわ」
「絶対ですよ?」
「大人しくするわよ」
 早苗はそっと息を吐き出した。
 桐生が今いないのが辛かった。桐生ならこの程度のやり取りで緊張したりしないだろうに。
「もし逃げようとすれば迷わず撃ちますから」
 念を押して、早苗はまず香の手錠を外した。目隠しも外そうとして、そのばかばかしさに思い至った。
「アイマスクは自分で取ってください」
 早苗は香から一歩体を離すと、銃を構えた。
「そうするわ」
 女は言って、自由になった手で目隠しを外す。少しきつかったのか香の顔には赤い筋になってマスクの跡が残っていた。
 香の目がゆっくり動いて早苗の銃をとらえる。槇村香に驚いた様子は見られなかった。
「……暴れないわよ」
 諦めたように女は溜息をついた。
「あたしは素人同然なの。仮にここから抜け出せたって、ここ、東京じゃないでしょう? 自分がどこにいるかもわからないような場所で、しかも一銭も持ってないのにあなたたちから逃げ切ることなんて出来ないわ」
「あいにくですけど、私はあなた以上に素人なんです。どうしても用心深くなるものです」
 軽く香が目を見張る。
「ここにプロはいないの?」
「プロと呼べるだけのプロは、今回の計画には参加していないんです。あなたたちは素人の、しかも女相手にはあまり暴れられないでしょう?」
「……」
 槇村香は押し黙る。むっと口を無一文字につぐんでいるのは図星を指されたからだろう。
 早苗は心の中で安堵の息をついた。
 早苗のした話は、100%が事実ではなかった。プロが参加していないのは結果論なのだ。初めはプロを雇う予定だった。希望に見合うような相手を雇えないことがわかった時点で、むしろ素人の女ばかりの方がいいかも知れないという楽観論をはじき出したに過ぎない。
 それでも、早苗はそれでいいと思っていた。
 多少自分たちの身が危険になるとしても、同じ痛みを共有しあえる「同志」で、この計画は実行したかった。今は早苗も銃の扱いを覚えた。ごく至近距離からであれば、人の急所を外すことはない。
 早苗はユニットバスを指し示した。
「あそこはユニットバス。自由に使ってもらってかまいません。いま着ているような簡単な着替えはクローゼットとタンスの中に一通り揃ってます」
「至れり尽くせりね」
 香の皮肉を早苗は無視した。
「出入り口はこの一カ所だけです。オートロックで、鍵を開けるのは外からしかできないわ」
「まあそうでしょうね」
「他に質問は?」
「聞いても答えてくれなさそうだから、別にいい」
「では。──後で食事を運んできます」
 言い置いて、早苗はドアまで近づいた。
 このドアは一度鍵が掛かれば、中からはどうやっても開かない造りになっている。鍵穴すらない。
 早苗は背後に時折目をやりながら、ドアを軽くノックした。
「早苗さん?」
 ドアの外からは花井の声が聞こえた。
「ええ、話、終わりました」
 早苗はドアから一歩離れた。内開きの戸が細く開かれる。早苗はその隙間に体を滑り込ませるようにして廊下へ出た。
 


 
 

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