害意
 

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 香はあてがわれた部屋を見回した。
 布の質感を持つ凹凸のある壁紙は淡いクリーム色だった。室内にはセミダブルサイズのベッドに、簡単な手紙でも書くには不都合なさそうな小さなナイトテーブルとスタンドが添えつけられ、壁に沿っては横に細長い机を携えたドレッサーがあった。その下にはミニサイズの冷蔵庫が添えつけられている。これで15インチサイズのテレビまで置いてあればホテルのシングルルームとまったく変わりのない部屋になるだろう。
 香は一通り室内をチェックして回った。
 空木早苗が言ったように、クローゼットとタンスには女性ものの衣類が少しばかり揃えてあった。生理用品まで揃えてあって、香は思わず苦笑する。服はどれもこれも、いま香が着ているような寝間着にほど近い部屋着ばかりで、まともに外を歩くための服はない。
 同性だと良くも悪くも気が回るものだと、香は変に感心した。生理用品を用意する一方で、こんな格好で外に飛び出すことがどれだけ人目を引くか良くわかっている。ある意味、誘拐犯である早苗たち以上に香が目立ってはならない存在であることも──。
 次に香は、しっかりと鎧戸が閉じられた窓に近づいた。ガラスを開けて鎧戸を押したり引いたりするが、びくともしない。板か何かで外から完全に閉じてしまっているようだった。板ならまだいいが、下手をすると壁に塗り込めてしまっているのかもしれない。
 さらに身を翻して、今度はオークのドアに近づいた。
 香は試しにノブを捻ってみる。わかっていたことだが、当然のようにドアが開くことはなかった。金色の丸いノブには鍵穴すらない。そういえば今し方、早苗もこのドアを外から開けてもらっていた。誰かがこの室内にいる時に、香が中で暴れて鍵を奪わないようにするためだろう。
 女性相手に香がそんな真似をするかどうかはともかく、用心深さには恐れ入る。
 ドアの下には、小さな窓がついていた。ここから食事の差し入れでもする気だろうか。
「まるっきり牢屋みたいなもんね」
 香は憮然として、てのひらでドアをはたいた。

 更に見舞われば、早苗の言葉通り部屋にはユニットバスまでついていた。
 バスの鏡にはくもり一つなく、バスカーテンからは真新しいビニールのにおいがした。浴槽と洗面台はいやらしいピンク色だったが、湯あかやカビはひとつも見あたらない。誰も使ったことがないのではないかとさえ思えたし、事実そうであるのかも知れない。部屋のドアといい、今のこの部屋は、香のために作られているとしか思えなかった。それも、異常な熱意でもって。
 他にも見て回ったが、香が実は探していたもの──つまり、盗聴器、あるいは盗撮用の小型カメラのようなものは見あたらなかった。
 けれど安心はできないと香は思う。その気になれば、そうしたものは壁の中にまで仕込めるものなのだから。
 香はベッドに身を投げ出した。
 エアコンは備え付けてあったが電源は入っていなかった。入れなくても、暑さに苦しむことはない。
 香は自分の体内時計に現在時刻を尋ねる。
 車に乗せられてからここまで、三時間か四時間くらいかかったろうか。しかし、日が沈んでいるにしてもこの涼しさは東京だと思うには無理がある。
 軽井沢、あたりだろうか?
 断言は出来なかった。だが、悪くない線をついているとは思う。
 車から降り立った時、濃い緑の匂いがした。空気は冷たく、清涼だった。周囲は静かで人の気配がなく、別荘という単語が思い浮かぶ。
 ……しかし、避暑地は今シーズンオフではない。
 別荘地だとすれば、少し他の建物からは離れた一角にこの建物はあるのだろう。あるいはポピュラーな別荘地ではないのかもしれない。その可能性もある。
 いずれにしても、逃げ出してすぐ隣家に助けを求めるということは出来そうになかった。そもそもそんなことをすれば警察沙汰になって、自分たちこそ困るという問題を差し引いたとしても。
 この別荘の持ち主は、あの女だろうか?
 香はほんのしばらくだけ顔を合わせた相手を思い起こした。脳裏に描いたのは空木早苗ではない。ここに来てから声だけ聞いた、少し年輩と思える相手でもない。
 桐生美和と名乗った女だ。
 あの女だけ、少し雰囲気が違った。
 笑顔の印象がひどく鮮やかな、あの女も恋人か夫をシティーハンターに殺されたのだろうか? 単純に考えればそのはずだが、はっきりした答えは出そうになかった。ほんの少し言葉を交わしただけの相手は、真意がまったく見えない相手だったのだ。
 そもそもあの女は今どこにいるのだろうか、と香は更に疑問を深める。
 香が着替えたホテルで、早苗と桐生美和は別れた。美和がそれからどこに行ったのかわからない。
 いやな発想が香の脳裏をかすめた。まさか、もう撩と会っているのだろうか。
 だが、香はすぐにそれを否定する。
 そんなはずはなかった。
 桐生と名乗る女は、冴子に「明日の午後10時に」撩と会いたいと伝言を残していた。だから、まだ会ってはいないはずだ。
「明日の夜までに、撩に連絡つけなくちゃ……」
 香は小さく呟いた。そうとうに難しいことだった。
 香は男に、自分が空木早苗から聞いていた"依頼"について語らなかったことを心底後悔していた。こんなことになるならもっと早く、きちんと話しておくのだった。この先、女たちがリョウに接触を持つとしても心の準備があるのとないのとでは、まるで違ったはずなのだ。
 香は目を閉ざして奥歯を噛み締めた。こんな風に男の足を引っ張ることは何より辛い。
 しばらくそうしていた香は、はっと目を開いた。
 壁越しに車のエンジン音が聞こえた気がした。少し低く重い音で、砂利を踏むような響きも聞こえる。
「撩?」
 思わず名を呼んで香は窓辺に寄った。窓を開けることは出来ないが、開かずの窓に耳を押し当てて音に集中する。
 発信器をつけていない状態で撩が来るはずはないと思いつつも、期待感がないといえば嘘になった。
 だが、やがてそれが耳になじんだミニの音でないことがわかった。もっとエンジン音の低い、もう少し大きな車の音だ。セダンだろう。エンジンは、この別荘の前で止まった。
 

 部屋のドアの向こうで話し声がした。二言三言、二人の女が言葉を交わしている。
 オーク色のドアを開けて入ってきたのは桐生美和だった。桐生のうしろで彼女を心配そうに見ている早苗の姿があった。早苗は部屋には入ってこず、そのままドアの陰に消えた。
「こんばんは、香さん。遅くなったけれど食事を運んできたわよ」
 大輪の花が咲くような印象の笑みを浮かべて、桐生は言った。長い髪が揺れる。
 香はベッドに腰掛けたままで美和を見上げた。
 美和が手にするトレイには白地のピンクの縞が入った可愛いご飯茶碗が二つ、木目のおみそ汁の椀も二つ、その他も二つずつ。つまり二人分の食事が乗っていた。美和がトレイをテーブルに下ろすと、中身が覗けた。献立の内容は和食中心だった。懐石のような内容ではなく家庭料理で、しかもごく家庭的な和式の皿に銀の蔦が精緻に施されたトレイは噛み合わず不気味ですらある。
「美和、さん? あなたもここで食べるの?」
「せっかくだからお食事しながら話そうと思って。手料理、美味しいわよ」
「毒入り?」
 香は試しに早苗に聞いたのと同じことを尋ねた。
「まさか」
 女はさもおかしいことを聞いたというようにぱっと笑顔になった。
「毒なんて入っていないわ。ただ、呪いはかかっているかもしれないわね」
「呪い?」
「これを作った花井さんは、あなたたちに息子さんを殺されているの。だから、呪いながら作ったかも知れないと思ったのよ」
 花井、というのは先ほど声だけ聞いた女性のはずだった。早苗たちに比べて少し歳をとっているようだったと思った印象は間違いないらしい。
 ……息子を殺されたなら間違いなく憎んでいるだろう、シティーハンターを。
 美和は笑みを浮かべたまま目を細めた。
「どうする? 食べるのはやめておく?」
 香はふんと鼻を鳴らして顎を上げた。
「いただくわ。腹が減っては戦が出来ないもの」
「いい心がけね」
 女がまた笑う。
 子どもをあしらうような笑顔だと、香は感じた。どうもばかにされている気がしてならなかった。
 香は箸を手に取った。
 

 なるほど、確かに味は悪くなかった。
 もしかしたらみそ汁にはぞうきんの汁が入れられているかもしれないが……たぶん大丈夫だろうと思うことにした。
 桐生も同じように食事を取っていた。箸使いは、思ったより下手だった。そのぎこちなさに、香は初めて目の前の相手に人間らしさを感じた。桐生はブラウン管を通してみる女優のように、どこか生きている人間という感じがしないと香は思う。
 香はみそ汁椀の陰からちらちらと女を盗み見た。
 歳は三十代の後半に思えた。容姿より何より、話している時に感じる気配がどことなく「そのくらいかな?」と思わせた。容姿だけならずっと若く見える。所帯じみた気配や、世の中に疲れた印象がまるでない。
 女の容姿は華やかだったが、服装に派手さはない。落ち着いて──ただし上質だ。化粧の仕方などもそうだった。箸使いこそうまくないが、そのほかの立ち居振る舞いも言葉遣いもそうした色調で統一されている。
 水商売系の女ではなかった。もっと上流社会の匂いがする。
 このひとも夫や恋人を殺されたのかしら──。
 香はもう一度自問する。
 本人を目の前にしても、やはりよくわからなかった。香を圧迫するようなプレッシャーを与えてくる相手であるのは確かだが、早苗のような憎悪の念が美和からは今ひとつ感じられない。負の感情は巧みにオブラートでつつまれているのだろうか。
 美和がみそ汁の碗から顔を上げた。目があって香はわずかにたじろいだ。
「料理のお味はどう?」
「おいしいわ」
 思わずバカ正直に香が答えれば、美和は嬉しそうに笑った。
「そうでしょう? わたしはホテルに滞在することが多いものだから、こういうお料理はとても嬉しいの」
 香は箸を置いた。
「美和さん……」
「なに?」
「あなたも、あたしたちに誰かを殺されたの?」
「もちろんそうよ」
 あっさりと女は言う。本当かと香が疑いたくなるような声音だった。
「旦那さん?」
「いいえ。わたしに結婚歴はありません」
「じゃあ……恋人?」
 女は目を細めて唇の端を小さく持ち上げた。微苦笑に見えた。
 美和もまた箸を置く。
「恋人という言葉にはひどく違和感があるわね。おそらく違うでしょう。たぶん、わたしと彼との関係を表すのにいちばん的確な単語は愛人ね。彼が既婚者だったというわけでもないけれど、雰囲気を示すのにその言葉が一番正しいはず」
 愛人という単語に香は軽く目をみはる。あまり外聞の良い言葉ではない。
「その男はあなたの、──愛人だった?」
「それもノーよ。わたしが彼の愛人だった」
 女は手入れの行き届いた長い髪を払った。口調は自嘲めいていた。
「正しくは、愛人の一人だったと言うべきだけれど」
 香の目から見れば、桐生美和という女は女王のように見えた。下世話な想像だが、むしろ若い男を侍らせる方がサマになるのではないだろうか。この女を愛人──それも愛人の一人にしておくとは剛毅な男がいたものだ。
 だが、その男はもうこの世にはいない、ということになる。
 香は控えめに口を開いた。
「……だから、復讐したいの?」
「だから、わざわざこんなことをしたの」
 こんなことというのは、香を拉致したことだろう。けれど遊ばれているようにしか思えなかった。敵意があまりにも明確だった早苗とはあまりにも違う。
 その早苗の言葉を香は思いだした。
 初めて顔を合わせた時に早苗が「真打ち」と呼んだ人物がいるはずだ。この女がそうなのだろうか。
 香は少し顎を引いて、上目遣い桐生を睨んだ。
「あなたたちの目的はなに?」
「いま言ったばかり。わたしたちの目的は復讐です」
 そうじゃなくて、と香は思わず呟く。
「あたしをこんなところに連れてきてどうするつもりか聞きたいのよ。撩に何か要求する気なの? それとも……撩を殺したいの?」
 女が、目を三日月の形にした。
「最低でも、あなたか、冴羽さんか、どちらか片方には死んでいただきたいと思っているわ。けれど、出来ればそれですませたくはない。それよりもっと苦しんで欲しいと考えているのよ」
 立て板に水を流すようにわずかのためらいもなく女は言ってのけた。
 その口調、その眼差しに、香は自分の体温が一瞬で下がるのを感じた。愕然と女を見つめる。
「あ、あなた……」
 この女は、と香は思う。冷たい汗が背筋を伝った。
 この女には敵意がないのではない。明確な敵意がある。けれど、敵意を越えた『害意』が女の目にはあった。
 ただ敵対視してくるのではない。ただ憎しみを抱いて見つめてくるのでもない。もっと明確に香たちを害そう、傷つけようとする純粋な意志が見えた。効果的に香を傷つけられるなら、敵意や憎悪を一見わからないように押し隠してしまう、それほどの害意だ。どこまでも冷静に、どこまでも愉しげに、傷つけることだけを目的にしている──。
 香は女を凝視した。
「あなたは、一体だれなの?」
 問いは口を突いて出た。
 女はふふ、と笑った。
「その質問を待っていたの」
 

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「ここを開けてっ!!」
 香は部屋のドアを力一杯叩いた。ドアノブをがちゃがちゃと回し、またドアを叩く。
 桐生美和が部屋を出てから、もう三十分ほどは経っているはずだった。香はその間、ずっとこうして暴れ倒していた。
「開けなさいよ! 開けてったら!!」
 窓の傍には叩きつけられたスタンドが分解して落ちている。
 部屋の内側に開くよう作られたドアは、香が叩いても蹴りつけても全身でぶつかってもびくともしない。窓にしても、余程しっかり板を打ち付けてあるらしく、スタンドをハンマーの要領で叩きつけても結果は同じだった。ハンマーはない。銃もない。体ひとつしかない。
 無力だ。
「開けて!」
 香は両の拳をドアに叩きつける。もちろん、開かない。
「開けてよ……お願い……」
 拳を戸に押し当てたままで、香はその場にずるずるとへたり込んだ。ドアを叩き続けた手は青く鬱血していた。
「撩……」
 香は声を絞り出した。
「逢っちゃだめ……」
 


 
 

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