九話
 

††††††††

 香の拉致から丸24時間以上が経っていた。冴子が覚えていた車のナンバと車種から、もしかしたらこれではないかという車があるホテルに入ったことまではわかったが、そこに香の姿はなかった。香の足跡を追う情報はそこで途切れ、以降の行方はようとして知れない。
 撩は途中で手を尽くすことを放棄した。というより、放棄せざるをえなかった。相手の正体も目的もわからない中での深追いは危険すぎる。香をさらったのが判っている限り女の二人組であり、撩との接触も指定して来ている以上、その目的は最近の流行りのヘンタイやストーカーと違って"槇村香そのもの"ではあるまい。
 つまり、香は冴羽撩との取引の材料であるはずで、相手を刺激せずに済ませるには指定された刻限までじっと待つのが上策だった。
 

 今日の撩の目覚めは静かだった。
 華々しくたたき起こしに来る人間がいないのだから静かなのも無理はない。
 目覚めた時に香の気配が家の中に全くないのは、ひどく珍しいことだ。撩が午前様で帰ってきて昼過ぎまで寝ているような時でも、香は大概男が起きるまで家にいたし、仮に早く出かけるような時も、食事の仕度なりベランダではためく洗濯物なり、香の気配は家に残っているものなのに、今日はそれが全くなかった。
 彼女は旅行はおろか、友人宅に泊まることも滅多にない。というより皆無である。一晩家を空けるだけで血相を変えて心配するあの兄にハタチまで育てられたせいか、夜には大概家にいた。さらわれた時でも一晩経たないうちに連れ帰ってくるのがふつうだ。本人の前では絶対に認めないことだが香も妙齢の女性なのだ。一晩も男どもの巣に置いておくのはいくら何でも気が咎める。
 自分が目覚める頃に彼女の気配がこうも薄いのは彼女が盲腸で入院した時か、あるいはソニアの事件以来だろうとかと撩は記憶を振り返る。
 しんと静まったこの空気は、おそらく、そのくらい珍しいことだった。
 昨日、冴子が家を去ったあと撩は改めて街に出た。香の足取りを追うばかりでなく相手の正体を知る必要があった。
 香がさらわれたという話はすぐに聞けた。もっとも、冴子の前で香が自ら車に乗り込んだということで、さらわれたという認識はされていなかった。香の知り合いだと思われていたようだ。ただの街の住人ではなく、轍のような情報屋であれば気をつけたかもしれないが、まだ日の高い時間だったこともありそこまで目の利く目撃者は誰もいなかったのが不運だった。車を運転していたという女にまで注意を払っていた人間はほとんどいない。
 だから女の特徴は冴子からの情報に限られた。
 昨日の冴子の話によれば、女は二人いたということだった。一人は髪の短い若い女。もう一人は少し年長の、髪の長い女。冴子には言わなかったが、後者の特徴に撩は聞き覚えがあった。
 撩の話を裏の情報屋に聞き回っていたという女の特徴に、酷似している。
 更に、前もって情報提供を轍に頼んでおいた問題の「依頼人」──空木早苗という女が前者の特徴にぴったり一致することも後でわかった。
 だが、わかったのはそれだけだ。オオクロリサコと名乗った年長の女が何者なのか、空木早苗が何者なのか、女たちの目的は何で、そして香はどこに連れて行かれたのか、肝心なことはわかっていない。
 空木早苗が香に依頼したという、その依頼の内容も不明のままだ。
 今日の昼には宅急便が届いた。中身は香のバッグで、発信人は大黒りさことなっていた。調べたが住所も電話番号も架空のものだ。香のバッグからは持ち歩いていたはずのコルト・ローマンだけがなくなっていた。
 なぜ、と思わずにいられない。本来なら武器は、人質からいちばん遠ざけたいもののはずだ。それなのにどうしてその武器だけが返ってこないのか。相手の真意はまるで見えてこなかった。
 夜を待つしかないという心境で、撩はいま自宅のソファでぼんやりしているところである。

「あー、腹減った」
 無駄に独り言を吐いた。今日は独り言の多い一日だった。いつからこんなに口数の多い男になったのだろうと、いささかあきれる。
 ただ、腹が減ったのは事実でもある。昨夜からあまりまともな食事はとっていない。
 金がないところに炊事担当者の失踪だ。適当に安い外食(それもすらもツケで)すませたが食事をとったという気にはならなかった。必要最小限の栄養を補給した、という印象だ。
 殺伐としている。
 食べることが生き残るための義務だった、あのゲリラの日々を思い出す。もっとも、ゲリラ時代から抜け出したあともずっと、人生の半分以上はそういう食生活だった。あたたかい食卓などというものをふつうに思っている現状の方が奇妙かもしれない。
 撩はいったん目を閉じた。
 だが、奇妙でもなんでも、今の本来の姿はあたたかい食卓が存在する方だった。毒を入れられる心配もない。安心して、人の手が作ったあたたかいものを口にできる。言葉にして認めたことはないが、香の料理はバリエーションに富んでうまい。しかも食卓には一人ではなく、その生活がずっと続いている。それが"今"だ。
 ──まあ、そう簡単に奪われるのは癪だよなあ。
 そんな言葉を撩は胸の内で呟いた。
 誰にも奪わせない、などと気張ることはらしくない気がした。
 

 高い電子音が鳴る。撩は目を開いた。電話だった。
「ハーイ、冴羽でっす」
「ちょっと撩、こんな時にそんなふざけた出方しないでよ」
 受話器の向こうから尖った女の声がした。
「よお、冴子。どうしたの?」
「どうしたのじゃないわ。香さんをさらった女の車について調べたの」
「それで?」
「レンタカーね。都内の、ふつうのレンタルで大黒りさこの名義で借りられてる。オオクロは大きい小さいの大きいに、黒は白黒の黒。リサコは平仮名よ」
「あらら」
 撩は頭を掻いた。
 レンタカーを借り受けるには当然ながら免許証の提示が求められるはずだ。にもかかわらず偽名が通ったということは……。
「偽造か」
「そうらしいわ」
 冴子の声は溜息混じりだった。
「そうなっちまうと、もうお前の出番はないな」
「馬鹿言わないで! これから偽造元を突き止めるわよ!」
 冴子が盛大に怒鳴ったせいで、キンッと耳元で声が割れた。うおっと、撩は思わず受話器を一瞬遠ざける。
「……お前ね、受話器の傍で怒鳴るなよ、声が割れる。偽造元を割り出すのはけっこうだけど、時間がどれだけかかると思ってんだ。香を助け出す役には立たんだろーが」
 冴子の溜息を受話器が拾う。
「わかってるわ。わかってるわよ」
「ま、大丈夫だって。あとは俺に任しとけ」
「結局そうなるのね」
 冴子の声は弱かった。この相手が、実は比較的こうした弱さも見せることを撩は知っている。
「香がさらわれるのはどうせ俺のせいだからな。しょーがないだろ」
 電話口の向こうで女が小さくありがとうを口にする。
「私になにかできることがあるなら、遠慮なく言って。こっちでも調べは続けておくから」
「おう。そんときは頼むわ」
 さらに二言三言、短く言葉を交わして電話は切った。
 静けさの戻った室内に時計の音が響く。
 外ではまだ日が沈んでいない。指定された時間までには、まだ間があった。
 撩は再びソファに寝そべって目を閉ざした。
 香はまだ無事だ。
 撩は思った。
 目的が何にせよ、冴羽撩との取引を前に彼女を害することは得策でない。
 だから、香はまだ無事だ。
 それは思うと言うより願うと言った方が正しいかもしれなかった。
 けれどきっと、彼女のことは槇村が護ってくれるだろう……。
 最期の時に、恋人よりも何よりも妹を案じたあの親友だ。
 時計の音が響く。
 香をさらわれておいて何も出来ない、という経験は滅多にしたことがない。
 時間の進みがひどく遅かった。
「槇村」
 撩は故人に呼びかけた。
「……すまないな……」
 彼には、どれほど憎まれても仕方ないかも知れなかった。
 


 
 

next