十話
 

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 夜間の西新宿は人通りの多い場所ではない。
 まして今はカレンダー通りの休日を強いられる官庁街すら盆休みだ。夜の街に林立する高層ビル群の窓に灯る明かりはいつもよりぐっと少なく、黒々とそびえるシルエットが邪神の神殿の柱のようだった。走る過ぎる車の数も少ない。やや遅めに家を出たにもかかわらず撩の運転するミニクーパーは予定していたよりも早く約束の場所に着こうとしていた。
 ちょうど日没を迎える頃には冴羽アパートの向かいに住むアメリカ国籍の友人の来訪なども受けていた。そのこと自体は予測の付かないことではない。香の不在とそのわけはすぐミックにはばれるに決まっていた。ただ意外だったのは、動き出さない自分を怒鳴りに来たのか思われた友人が、碧眼に忌々しげな表情を浮かべて「何もわからなかった」と告げるに留まったことだった。冴羽撩とはまた異なる範囲に情報網を持つ彼をもってしても、女たちの正体はつかめなかったというわけだ。
 ミック・エンジェルは香をさらったらしき女がかつて声を掛けた(そして結局、女の依頼は断った)というプロのリストも持ってきた。プリントアウトされた紙の上にはシティーハンターをやれるかも知れない、人質というアドバンテージがあれば確率は五割を上回ると思われるような本当の一流のコードネームばかりが連なる。良くこの短時間にこれだけ調べたなと撩が内心で感心するようなリストだったが、並んだ名前の共通点は本物の一流であるという一点に留まり、女の正体に繋がるような偏りはなかった。
 強いていえば、これだけのプロの存在をつかんでいて、更に接触方法まで知っているという点がかなり尋常でなかったが。
 女の正体うんぬん以前に、撩には苦笑せざるを得ないこともあった。
 ミックが海坊主(ファルコン)の伝でも女の正体はわからないそうだ、とさも当然のように口にしたからだ。
 女の謎の程度もひどいが、パートナーがさらわれた事実がこうもあっと言う間に洩れ広がる自分もプロとしてどうなのか。いくら普段から顔を付き合わせている連中間のことであるとはいえ、少しひどすぎやしないか。
 それでも、パートナーの身を案じて貰えるのは悪い気がしない。かといって自分のことまで心配されているのは照れくささが過ぎるのだが、まあそれも良いだろう。
 撩は友人に見送られアパートを出た。
 気づけばすべては判らないまま、時が来ていた。
 

 Cホテルのバーは、一週間前に撩の相棒が正体不明の依頼人に呼び出されたレストランと同じ階にある。
 シティーハンターを葬るためだとしても、まさかホテルのエレベータに細工して箱ごと落とすような真似をする強者はいないだろう。約束の時間にはわずかに5分ほど早く着きそうだったが、30階近い階段登山はする気になれず、撩はガラス張りのエレベータに乗り込んだ。
 上昇する加速に伴い足裏がぐっと床に押しつけられる。
 撩はガラスの外に広がる街を見つめた。この眺めを香も一週間弱前に見たはずだ。その日を境に香の様子はおかしくなった。そのことに気づいていたのだから、もっと依頼主について詳しく調べておくべきだったと撩は後悔したが、今となっては仕方のないことだ。調べた今でも結局相手の正体と動機はつかめないままなのだから、どうすることも出来なかったかもしれない。
 けれどそれは所詮、自己欺瞞に過ぎないのだろう。後悔は消えない。
 地上の光はあっと言う間に遠ざかる。その眺めに、ふと香の言葉が思い出された。
 "神様の眺めって、こんな感じかしら"。
 

 照明が抑えられた店内には気だるげなクラシックがかかっていた。場末のバーとは違って席と席との間隔は広くとられ、ゆったりとした空間が意識的に作られている。絵に描いたような上品な人々がそれぞれの席でバーテンダーか、あるいは連れと何かをさざめきあっては笑っていた。
 その場には大変ふさわしくない赤いシャツにいつものジャケット、ジーパンといういでたちの撩はいくつかの冷たい視線を浴びたが、それも仕方のないことだ。撩は周囲から向けられる眼差しを無視して店内を見つめた。流れるバッハがやたらと耳についた。
 撩の頭の中では、周囲に注意を払うのとはまったく別の部分が勝手に活動して曲名を引き出す。彼自身の意識とは別の所でそんな風に様々な情報が脳内を交錯することは珍しくないことだったが、情報を引き出すまでにはいつもの倍以上の時間がかかった。
 神経が香のことに気を取られ、バランスを欠いている。
 それに気づいて撩は意識を調節した。
 それはオートフォーカスのカメラが焦点を定めるのに似ている。
 バランスを調整すれば、意識の"ピンボケ"は修正される。
 必然的に、求める相手が"見えた"。
 その女は一人、バーの一番奥、窓際の席に入り口に背を向けて座っていた。カウンター席ではなく、ボックスだ。
 その女だと撩は直感した。つやのある濃紺のスーツに包まれた背を真っ直ぐに伸ばし、窓の外も見ていない後ろ姿には並大抵でない気迫があった。限りなく殺気に近い緊張感と呼ぶべき気配。
 だが、その姿を見て少なくともこの女はプロではないと撩は思う。プロならば自分の逆鱗に触れているようなこの状況下で、窓際には座らないし、入り口に背を向けることもないはずだ。
 その女以外に、周囲に怪しい気配はなかった。女は一人でこの場に来たらしい。
 それとも撩を窓際に座らせて、外から狙撃するつもりだろうか。ありえないことではなかった。注意するに越したことはない。
 撩は女の前に回り込んだ。
「俺を呼びつけたのは、あんたか?」
 女がゆっくりと目を上げる。
「お逢いできて嬉しいわ」
 テーブルに置かれていたカクテルグラスを掲げて女は笑った。
 グラスに注がれたカクテルの名は、X.Y.Z.という。
 

 いい女だった。
 女の向かいに腰を下ろしながら撩は相手をつぶさに観察する。
 座っていても女性としては長身の部類に入ることがわかる。
 長く伸ばした黒髪は緩やかなウェーブを描いていた。その黒髪に縁取られた白い顔の造作は、申し分ない。彫りの深い顔立ちに、張り出した胸と締まった腰の対比 はちょっと日本人離れしたものがあった。年齢を示すようなしわのひとつもない首ではダイヤ型にカットした黒水晶が連なるネックレスが輝く。
 歳が今ひとつわからない、という噂に撩は納得した。
 容姿からすると三十代半ば。だが、実際はもっと上かもしれない。落ち着いた知性に溢れる瞳と、完成された大人の女の色気がそう感じさせた。いわゆる玄人の女ではないだろう。スーツの質も、アクセサリーの選び方も化粧の仕方も夜の女のものではない。
 だが、一般人でもありえない。ともすれば"帝王の女"などという時代錯誤な言葉を思い起こさせるこの風格はなんだろうか。
「惜しいな。あんたみたいな美女からのお誘いなら、もう少し色っぽいやつが良かったが」
 女は、あら、と呟いて肩をすくめた。
「こういうやり方はお気に召さなかった?」
「召すと思うかい?」
「いいえ。気に入るはずがないでしょうね」
 女はニコリと、ひどく可愛らしく笑った。
「嬉しいわ。わたしたちにあなたを喜ばせるつもりは欠片ほどもないの」
 傲然と言い切られて、撩は思わず苦笑する。
「俺の気に入るようなことは絶対したくないってか。俺もずいぶんと嫌われたもんだ」
「正確に言うと、あなたではなく、あなたたちね。憎まれているのも、あなた一人ではなく『あなたたち』よ」
 撩の言葉を国語教師のように女は修正する。
 修正後の言葉に、男は初めて視線を鋭くした。
「香は無事なのか?」
 その問いかけるが終わるか否かというタイミングで、はっと、なぜか突然女が息を詰めた。
 何が起こるのかと撩は思わず身構える。意識の中では360度を見つめる目が突然開いたように、周囲すべて、半径500m先までを捉える。
 ……だが、何も怪しい気配はなかった。目の前の女が目を見開いて撩を凝視しているだけだ。
 理由はまったく不明だが女は何かに驚いたようだった、という結論に撩は達した。よりはっきり言うなら、撩が女を驚かせたらしい。
 女に驚かれて、むしろ撩のほうが面食らっていた。香は無事かという問いは香をさらったのがこの女である以上、当然のものだろう。この相手なら充分予測のついた質問であるはずだ。そして撩が睨みつけたからすくみ上がったわけでもあるまい。そんなかわいげのある相手とは到底思えない。
 だから、女は何か別のことに動揺したのだろうという見当づけたが、しかしその何かが何であるかはわからなかった。
 仕方なく黙って観察を続ければ、一瞬の自失から立ち直ったらしい女は不意に俯くと声を殺して笑った。
「やっぱり、良く似ているのね……」
 笑い声とは裏腹に女の洩らした呟きには深い哀惜の念が込められていて、撩は初めてこの相手個人に対して興味を持った。

 探りを入れるような男の視線に気づいたのか、女はすぐに顔を上げる。
「香さんが今も無事かどうか、わたしにはちょっと断言できないわ。わたしが出てくるまでは無事だったし、彼女にはまだ手出ししないように言い含めてあるけど、いま香さんの周りにいるのは彼女を憎んでやまない人たちなの。香さんが何かまずいことを言っていたりしたら、その無事はわたしに保証できるものではないわね」
 まあ、さすがに死んではいないはずと言ってのけた女に対して、撩は一段と険しい視線を向けた。
「聞くのを忘れていたな。あんたたちってのは何者なんだ?」
 撩のその視線を浴びても今度の女は先程の動揺が嘘のように動じなかった。端然と構えたままで口を開く。
「あら? シティーハンターには女性に恨まれるような覚えがないとでも言う の?」
「……それはもう、山ほどあるさ」
 撩は応えながらいやな女だと胸の内で呟いた。
 『あなたには』女性に恨まれるような覚えがないのかしら、と言われればもてる男には色々あるからなどとジョークで返すこともできるが、シティーハンターの名で呼ばれればそんなかわし方は出来ない。この相手が言わんとしている事は明らかだった。
 つまり、この女の正体は──撩は答えに達した。
 男が表情をわずかに苦くしたのを見て取ったのだろう。女は笑う。
「当然ね。まあつまり、わたしたちはそういう女たちよ。『シティーハンター被害者の会』とわたしは呼んでいるけれど、多くは恋人か夫を殺された人。ごくまれに、息子を殺された人。メンバーの最年少は父親を殺された十歳の女の子。素人の女性ばかりの集まりになっているわ」
 白っぽいカクテルが入った華奢なグラスを傾けながら弾む口調で女は語る。女はグラスの中身に口をつけていなかった。
 撩はその液体の揺らぎを眺めながらこれまでの事象を整理する。
 シティーハンターについて嗅ぎ回っていた女は、プロではなかった。だが、シティーハンターの名を知っていて、裏社会の情報網にも接触できるくらいはこの世界に伝がある。嗅ぎ回っていた女は一人だが、香に接触した女──香がさらわれた時に確認された女たちは最低でも二人いる。
 『被害者の会』だというのなら、なるほど納得できる話だった。
 おそらく数日前に行われた香への"依頼"は宣戦布告だったのだろう。依頼と称した布告の内容までたやすく想像できた。
 そのことに香がどれほどダメージを受けたかも。
 シティーハンターが人殺しで、憎まれる立場にあるということは撩にとっては痛くても覚悟の付いた話ではある。それは事実だからだ。だが、事実であるからこそ香にとってはショックも大きかったろう……。
「普通、被害者の会ってのはもう少し穏便な活動をするものじゃないのか?」
「そうね。そうかもしれないけれど、仕方ないでしょう? だって、その程度でわたしたちの気はすまないし、何よりわたしたちの相手は法律で裁かれるような人間ではなかったのですもの」
 それはごもっとも、としか返事のしようのない理由だった。
「それで、あんたがその中の代表ってわけか」
「代表。まあそうね。わたしが一番多く資金を提供しているから発言権はあるわ。今日、あなたとこうして話す権利を得たのは、別の理由からだけど」
「別の理由?」
「ええ、そう。わたしたちは相手に一番ダメージを与えられそうな人間を選んだの。現に、先日香さんと話したのは別人よ。本当はわたしでも良かったのだけれど」
「つまり、俺や香に一番ダメージを与えられるのがあんたってわけか」
 呟いて、それから男は相手を見据えた。
「あんたは何者だ?」
 テーブルの上に両肘を乗せて指を組み合わせた姿勢で、女は撩の視線を受け止めていた。
 女の瞳に浮かぶ色が微妙に変わったのを撩は見て取ったが、その意味まではまだわからなかった。
「わたしの名前は桐生(きりゅう)美和(みわ)。でもそんなことはあなたにとって大した意味もないでしょう。わたしはね……」
 まるで男を焦らすようにそこで言葉を止めて、もう一度女は抑えきれないように笑みをこぼした。
 

「わたしは、海原神の愛人よ」
 
 
 

 なんだって?

 そう、撩は言おうとしたが、自分が吸い込んだ息にさえぎられて言葉は声にならなかった。
 女の一言はハンマーの一撃並みの重さで男のこめかみを横殴りにした。その強烈過ぎる衝撃に、一瞬自分は昏倒したのかと撩が本気で思ったほどだった。
 辛うじて踏みとどまった意識は奇妙に冷静で、女の言葉の正しさを認めていた。確かにたった一言で自分にこれだけのダメージを与えられる経歴を持つ女などそう滅多にはいないだろう、と。
 女は満足げに動揺する男を見つめていた。一国の王妃が自国の勝利の知らせを受けたような目だった。その目を見て、撩はつい今しがたこちらを見つめていた女の瞳に浮かんだ表情が『期待感』であったことを悟る。あれは、女の素性を知って衝撃を受ける冴羽撩の姿を待ち焦がれる目だったのだ。
 


 
 

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