十一話
 

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 冴羽撩が桐生美和と逢っていた、ほぼ同時刻。

 槇村香は目を覚ました。溶けた鉛の中で覚醒したかのようなひどく重い目覚めだった。
 日常にあれば、香の目覚めはおおむね爽やかなものであることが多い。だが今日は違う。ようよう体を起こすと強い目眩襲われた。
 たまらず、柔らかいベッドの上に片腕をついた姿勢のままで香は固まった。それ以上体を起こすことはもちろん、上下左右の感覚が失われているので迂闊に倒れることも出来ないくらいだ。この目眩の強さはどう考えても尋常でない。
 "常ならぬ"というならば、それはすなわち非日常であるかもしれない。
「……だめだわ」
 香は小さく諦めの言葉を口にした。目眩がやわらぐのを待つ。再びそろそろとベッドに横になった。
 薄く目を開いて蛍光灯に照らされた天井を見上げると、濃いクリーム色の板張りの天井が目に入る。麻酔を嗅がされた後に特有の目眩のせいで視界はかすんでいたが、その中でもはっきり分かった。この天井は見慣れた自室のそれではない。
 あたしはここに連れてこられて……。
 香はいったん目を閉じてこれまでのことを軽く振り返った。
 桐生美和から、その正体を──あの海原神の愛人だったという事実を──聞かされた後、ここを出るために香は散々暴れた。いったい何時間暴れ続けたのかもわからないほどだ。けれど現実的に見れば暴れた効果はほとんどなく、次に食事が運ばれてくる頃には香は疲労困憊して寝入ってしまっていた。
 いや、寝てしまったタイミングを見計らって食事を運び込んだのだろう。
 その食事をとったあと、再び急激な眠気に襲われた。薬が入っていたのだと今更悟る。目覚めた後もこれだけ強く影響を残していることから言っても、そうとうな量を盛られたらしい。体はかなりの時間眠ってしまっていたことを告げている。
 そんなことをつらつらと思い浮かべながら、香は結局目覚めたあと更に15分、いや30分も横になったまま過ごしたろう。幸いにしてそうして体を休めているうちに、残っていた薬の副作用は徐々に薄らいだ。
 体調の回復を感じて、香は目眩がしないことを確かめながら慎重に立ち上がった。ドアへと向かう。
 開かないのは承知の上で香はくすんだ金色のドアノブを握った。ノブはひやりと冷たく、回したところでわずかも動かない。鍵がかかったままだった。
 これが当然と言えば当然だけど──。
 香は思いながら、どん!とドアを殴りつけた。ずっと酷使され続けている右手は痛んだが、そこは我慢だ。
「開けなさいよ!」
 ドン、ともう一度ドアを叩く。
「開けて!」
 香は焦っていた。今は何時だろう。もう、約束の時間になったのだろうか。撩は、桐生美和に会ってしまったのだろうか。
 ドアに手を拳を押しつけたままじっとしていると、やがて外で足音がした。
「目が覚めましたか?」
 ドアを通してすぐそばから、やや高い声が聞こえた。ドア越しの声は籠もっていたが誰の声かはすぐ分かる。空木早苗の声だ。桐生美和の声ではない。
「お陰様でよく眠れたわよ」
「本当によく効いたようですね。量が多すぎてもう起きないんじゃないかと思いました」
 早苗の声は木枯らしのように冷たかった。起きないことを案じていたのではなく、別に起きないならそれでも良かったのにという響きを香は感じた。それとも、そんな風に思うのは被害者意識の為せるわざだろうか。
 香は唇を噛む。
「今は、何時?」
「もう約束の時間は回っています」
 ドアに押し当てたままの香の拳に思わず力がこもった。そのままの姿勢で香は尋ねる。
「あのひとはどうしたの?」
「誰のことですか?」
「桐生、美和さんよ」
「桐生さんでしたらもちろん新宿です」
 香はきつく目をつむった。声には出さず、胸の中でパートナーの名前を呼ぶ。
 もう、撩はあの女に逢ってしまった。桐生が何者なのかも聞いただろう。
「槇村さん」
「なに?」
「今のところ暴れる理由はなくなりましたか?」
 早苗が問いかけた。
 香は一度目をしばたいて、それからすぐにその質問を検討した。
 確かに暴れる理由は"今のところ"なくなったかもしれない。もう手遅れだ。撩と美和を会わせないようにすることも、せめて香の口から撩に事の次第を伝えることも不可能になった。こうなると、いま逃げても、丸一日後に逃げても変わりはない。
 それなら大人しく撩の助けを待つのが得策かもしれなかった。あるいは、いったん大人しくしてみせて相手の油断を誘うのも悪くはない。
 香は慌ただしく結論をまとめた。
「そうね。しばらくは大人しくするわ。暴れすぎてあちこち痛いし」
 何事もなかったように口にしたが、改めて香は痛みを自覚していた。手はもちろんとして、全身でドアに体当たりを食らわせたりもしたせいか肩も痛い。骨にひびが入っていなければいいけど、と他人事のように思う。
「槇村さん。それなら私と少し話をしませんか?」
 ドアの向こうから聞こえてくる早苗の言葉に香は軽く眉根を寄せた。
「それってつまり、あなたの恨み言を聞けってこと?」
「端的に言えば、そうです」
 香は顔をしかめた。よくぞここまで淡々と認められるものだと、いっそ感心する。だが……。
「──いいわ。どうせ一人でじっとしてるしかないんだし」
 香がそう言うと、今度は早苗がしばらく黙った。短い沈黙の後に続いたのは、相も変わらず淡々とした次のような台詞だった。
「おかしな真似はしないこと。いいですね」
「こんなところで殺されるわけには行かないもの、暴れないわよ」
「わかりました」
 早苗の足音が遠のく。鍵を取りに行ったか、あるいは後でドアを開けてくれる相手を探しに行ったのだろう。なんと行っても、香がいま目の前にしているこの扉は中からはどうやっても開かないのだ。
 香は大きく息をついた。
 恨み言を聞いてやろうという自身の度胸に少しあきれていた。自分も大概物好きだと、ひとり香は自嘲する。けれど、それは義務かもしれないとも思っていた。どんな事情があったにしても、空木早苗の恋人をシティーハンターが死に追いやったのは事実なのだ。
 

 五分とは待たなかったろう。ノックの音がして、香はドアから一歩離れた。
「槇村さん、ドアを開けます。部屋の反対側の端まで行ってください」
 香は言われたとおりドアから遠く離れた壁際に寄った。
「いいわよ」
 声を上げるとドアが開き、空木早苗が入ってくる。今日の早苗は活動性を意識したような、開襟のブラウスにゆったりとしたパンツだった。上下どちらも黒なのは、香にとってはもはや嫌味にしか思えない。
 早苗の右手には銃が、左手には安っぽくてかてか光る白い四角い箱が下げられている。プラスチックのその箱は遠目に見ても救急箱だろうと見て取れた。
 ドアがゆっくりと閉まる。オートロックでかちりと鍵が閉まる音がした。
 中からは開けられない不自然な構造の扉に香は肩をすくめたくなる。
「そのドア、中からは開けられないようになってんでしょ? 暴れないってば。その物騒なものをおろして」
 早苗は頷いて銃をおろした。ナイトテーブルの上に置く。もちろん香の手には届かない位置だが、香はちらちらとその銃を眺めた。
 早苗の銃は小型のものだった。香や撩にお馴染みのリボルバーではなくオートマティックタイプ。世界一有名なイギリスのスパイが使っているあれだ、とかなりどうでもいいことから香は思い出す。小型なだけに威力の面では他の銃にやや劣るが、反動が小さく、命中精度は高い。初心者や女性にも扱いやすい銃の一つだった。
 空木早苗が握るには、きっといい選択だろう。
 ずいぶん以前、"海坊主さん"に弟子入りした際に覚えたことを、香は思い出してそう判断した。
 香自身にはコルト・ローマン以外の小銃を握るつもりは毛頭なかったが、余りにも銃器に対する具体的知識の欠如している香を見かねたらしく、海坊主はトラップの他にメジャーな銃器に関する知識も茶飲み話のように香に教えてくれた。自分で触れることはなくとも、相手が持っている武器の特徴や弱点を知っておくのは身を守る助けになるはずだ。それが海坊主の言い分だった。いま正に、それが役に立っている。

 香は銃を横目で見ながらベッドに腰掛けた。早苗はプラスチックの箱を提げたままベッドの脇まで来ると、香を見下ろして言った。
「痛むのはどこですか?」
 もしやとは思っていたが救急セットは香のためのものらしい。
「手かな」
 早苗が眉をひそめる。
「骨折などしていないでしょうね?」
「いくらなんでもそれはないと思うわよ」
「手を見せて」
 はいはいと答えて、香はいちばん痛む右手を差し出す。早苗はドレッサーのスツールを引きずり寄せてベッドの横に腰掛けた。
「少し腫れていますね。ゆっくり開いたり握ったりしてください」
 言われたとおり、香はゆっくり手をむすんで開く。
 早苗は腫れた香の手に軽く触診しながら、大きな目で上目遣いに香を見た。
 その顔を見て、そんな場合でないと知りつつも早苗さんってやっぱり美人だなと香は思う。知人友人の女性たちのほとんどが美女という香の目からしても、早苗は充分目の保養と呼ぶに足る容姿をしていた。惜しむらくは表情にキツイ感じがつきまとっていることだが、それは早苗の本来の気質ではなく、槇村香を前にしているからこそだろう。
「痛みはありません?」
「ないわ」
「でしたら骨は大丈夫でしょう。湿布を貼っておきます」
 早苗は救急箱から湿布の入った袋を取り出し、口を開けると香の手に貼った。ひやりとした感触が熱っぽい手に心地いい。湿布の上からは包帯を巻いて固定する。強すぎもせず、弱すぎもしない巻き方だ。
 早苗の手際を見つめながら香は口を開いた。
「早苗さんは、看護婦さんか何かなの?」
「いいえ。商社勤めのOLです」
「てっきり医療関係の人かと思ったわ。……でなかったら、あたしと同業者か。ずいぶん手慣れているのね」
「あるNGOの一員としてラトアニアに行った時に、病院の手伝いをしたことがあるものですから」
 ラトアニア、という一言に力がこもっていた。香は思わず顔を上げた。
「その時に、恋人と知り合った?」
「ええ」
 早苗は手当を終える。使った包帯やハサミ元のとおりに戻して救急箱の蓋を閉めた。
「槇村さん、あなたはあの国をご存知?」
 香は首を横に振った。
「でしょうね。東欧の、小さな国よ。日本で知っている人は少ないわ。独立してからそう経っていないからなおさらです。政情はとても不安定で、国民の生活は厳しい。良質の天然ガス田を抱えているけれど自国にはそれを生かす技術がない。そして、他国からは狙われる。難しい国です」
 さすがによく知っていると思う。ラトアニアという国がどこにあるかさえ、香には怪しい。
「槇村さん。あなたたちがモートン大統領を救ったことは知っているわ。大統領は温厚な人柄ではあったけれど、政治的決定力に欠けた人物だった。日本に亡命が認められたあとはジムに通うようなのんきな人だった。クロイツ将軍がクーデターを一時的にでも成功できたのは、将軍に相応の人望があったからよ。あの国の、将来を託せるという期待感がね。暗殺が正しいことだとは言わないけれど……」
 早苗はいったん言葉を切った。短い黒髪に手ぐしを通す。
「将軍も、本来は立派な人だったわ。私の恋人が命を預ける程度には」
 早苗の話は、あいにく香の共感を呼べなかった。
 香の知るクロイツ将軍はクーデターの失敗をシティーハンターのせいだと逆恨みするような男だった。そして、よりにもよって香の友人夫妻の結婚式を狙って襲撃してきた。撃つ必要のなかった花嫁まで狙撃した。そういう、卑劣な相手だ。それとも一度の失敗がクロイツ将軍を狂わせたのだろうか。だとしても、その心情は理解したくない。
 香にしてみれば目の前の女性の恋人を自分たちが殺したことの方がずっと痛かった。
 そう確かに痛い。
 だが、それでも敢えて香は口を開いた。
「あなたはラトアニアの話がしたいの?」
 早苗が軽く目を瞠った。すぐに首を横に振る。
「違います」
「でしょうね」
 早苗が驚いたままの表情で香を見つめる。ややして、彼女は言った。
「槇村さん、あなたも変わった人ね。わざわざ自分から恨み言を聞こうとするなんて」
「聞くって言ったからには、ちゃんと聞くだけよ」
 ふんと香は鼻を鳴らす。
 早苗は一呼吸おいて話し始めた。
「私があの国に行った頃、あの国は今よりもっと閉鎖的で、私たちはスパイと疑われたの。そこを彼に救われた」
 空木早苗が、一瞬遠い目になった。恋人のことを思い出しているのだろう。
「あの日、あなたとホテルでお話ししたときに私、言いましたね。『あなたたちがやってきたことを考えてほしい』って」
 早苗は視線をしっかりと香の両目に当てた。
「その答えを、聞かせてください」

 香は奥歯を噛んでその一言を受け止めた。
 


 
 

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