十二話
 

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「あなたたちがやってきたことを、よく考えてくださいね」
 空木早苗が言った言葉はそのまま香の脳裏に刻まれている。

 あの日、早苗が立ち去ったあとも香はすぐには動き出すことが出来なかった。
 店員たちも騒ぎを起こした香を気遣ってか、あるいは単に触らぬ神にたたりなしと見たか、早苗の分の食器だけが下げられて、香は膝のナプキンを握りしめたまま15分あまりも白いクロスをただ見ていた。
 やがて、さすがに見かねたらしきギャルソンに声を掛けられたことを覚えている。
「ご気分が優れませんか?」
 香は初めてその声で我に返って、大丈夫です、と口にした。
 店を騒がせたことを詫びて、水を一杯もらい、グラスの半分ほどを飲んで落ち着くとレストランを後にした。
 どの道をどう通って家まで帰ったか覚えていない。
 頭の中には早苗の残した言葉だけがあった。
「あなたたちがやってきたことを、よく考えてくださいね」
 その言葉通り、自分たちがやってきたことがいくつもいくつも香の脳裏を巡った。
 家に帰って撩の顔を見ても、部屋に戻ってベッド脇のチェストに置かれたアニキの写真を見ても、密かに取って置いたウグイスの花を見ても。その度に早苗の言葉が脳裏を巡った。
 シティーハンターのやってきたこと。
 それはなんだったのだろう?
 撩が本気で打つ行動に自分は疑問を抱いたことがなかったのだと香は思う。
 初めの数年は「アンタなに考えてるのよ!?」などと叫んだことも度々あったけれど、いつしか撩には何か、きっと思惑があるのだと気づけるようになった。撩が何を考えているのか香は知らない。知らないし分からないけれど、それは香に見えていないだけで撩にはきっと考えがある。そういう時、彼はけして悪いようにはしない。ずっとそんな風に考えて香は今までやってきた気がする。そして、それはほとんど間違いなかった。少なくともシティーハンターの側から物事を見る上では。
 けれど、目の前に空木早苗は現れた。
 香はそっと盗み見るように早苗に視線をやった。
 早苗は表情を堅く保ったまま微動だにせず香を見つめてきている。
 香は懺悔するように両手を組み合わせ、視線を伏せた。

「あたしもアニキを、ユ……。……ある組織に、殺されたの」
「え?」
「あたし、小さい頃に両親を亡くしててね。物心付いてからは、歳の離れたアニキが唯一の家族で、親代わりみたいなものだった」
「……」
「だから、大切な人を奪われる気持ちはあたしも、知ってる」
「私の気持ちがわかる……と?」
 早苗の質問に香はしばらく黙ってから、頭を左右に振った。
「ううん」
「……」
「あたしには、復讐したいって気持ちはわからないから」
「なぜ」
「そんなことしても、アニキは帰ってこないもの」
「……。だからこそ、私は……」
「ええ」
 わずかに震えて途切れた早苗の声に、香は小さく頷いた。
「早苗さんに会って、わかったわ。復讐しても、何をしても死んだ人たちは帰ってこないから、だからこそ早苗さんはあたしたちが許せないんだ……って」
「……そうです。それが、あなたたちのしてきたことよ」
 香は一度組んでいた指をほどき、また組み合わせた。
 ポツ、ポツ、と音が聞こえた。雨音だと気づくのに少し時間が掛かった。厚い外壁を通して大粒の雨がエアコンの室外機に当たる音がする。
 

 香は明かりを落とした夜の自室を思い出していた。カーテンを閉めてもまだ差し込む不夜城からの外光で真っ暗闇にはならない部屋。眠れないままベッドの上で転々と寝返りを繰り返し、ふと顔を横に向けるとすぐそばにアニキの写真があった。
 アニキもまた撩を信じていた。
 香は写真を見つめた。
 アニキは、自分たちのしていることをどう思っていたんだろう。
 答えはなかった。どんなに聞きたくても、もう応えてはくれない。それが死というものだから。
 シティーハンターは、その「死」を人に与えている──。
 自分たちは間違っていないと思っても、誰かを殺してきた事実は、きっと事実だった。
 早苗たちからすればシティーハンターは間違っているだろう。相手を殺さなければ香たちこそが殺されていたと言っても、少なくとも、許すことは出来ないだろう。
 間違っているのか、間違っていないのか。
 何をしてきたのか、他にどうすれば良かったのか。
 考えて考えて考えて考えた。
 そうして、いつの間にか三日ほどが経っていて、考えすぎて逆に頭があのレストランのテーブルクロスのように真っ白くなった頃、思ったことがある。
 香は組み合わせた手に力を込めた。
 それを口にすればきっと早苗は(いか)るだろう。けれど香の出した答えはそれだった。彼女たちを逆なでするような答えしか出せなかった。ただ相手の怒りを買わないように、相手を傷つけないようにという理由で謝罪を口にすることはたやすい。けれど本心以外のものを口にしてはいけないと感じた。
 香は顔を上げ、早苗を見た。

「──それでも、あたしは撩に死んで欲しくない──」
 

 雨音が強くなった。バラバラと屋根を打つ音は雨と言うよりまるで雹が降り注いでいるように激しい。その中でかすかに遠雷の音が混じり、しかも急速に近づいていた。
 早苗はゆっくり目を見開いた。もともと肌白の顔が急速に、紙のように白くなる。それまでそんなに早く人の顔色が変わるところを見たことがない、というほどだった。
 香がしているのと同じように組み合わされていた手に、力がこもって震えた。
「それが……それがあなたの……」
 不出来な人形のようにぎこちない表情で早苗が言う。その顔を、香はにわかに思い出す。早苗と初めて会ったときに彼女が香に見せた表情だ。
「どうして……」
 呟いて、す、と音が聞こえるほど鋭く早苗は息を吸い込んだ。小柄な彼女の小さな手が蛇のように延びた。香が避ける間もなく、肩が痛いほどの力で掴まれる。
 雷がまた鳴った。近くに落ちたのか、ひどく大きな音だった。
「どうして彼の命を奪ったあなたがそれを言うのっ!?」
 その雷鳴をはるか上回る声で早苗が叫ぶ。
 香はたまらず身を固くした。
「彼を殺したくせに! たくさんの人を殺してきたくせに! どうしてあなたがそれを言うの! シティーハンターさえいなければ死なずにすんだ人間がどれだけいると思っているのよぉっ!?」
 ガクガクと関節が鳴るほど香の体は揺さぶられた。
 揺れる視界に耐えきれず、香は思わず目をつむる。
「大切な人を殺されたことがあるんでしょう!? その痛みを知ってるんでしょう! それなのにどうして……、死んで欲しくない人がいるのにどうして……!」
 早苗の言葉は矛盾しているかも知れなかった。
 けれど香の胸には痛い。
 大事な人に死んで欲しくないと、ごく当然のことを願う時、初めてその向こうに他者の死がわずかに透けて見える。
「誰かを大切に思っているのは、あなたたちだけじゃないのよ……!!」
 最後にそう言って早苗の手が香の肩から滑り落ちた。
 彼女は顔を片手で覆うと一歩二歩と後ろにさがる。下ろされたままの彼女の手がナイトテーブルに当たったのは、おそらくあまり広さのない部屋で起きた偶然だったろう。
 早苗はその場で立ち止まった。何かに気づいたように手のひらに埋めていた顔を上げる。異様にギラギラと光る目が、吸い寄せられるようにナイトテーブルへと向けられた。
 香はハッとしてベッドから腰を浮かせた。
 ナイトテーブルの上には早苗が持ち込んだ銃が置かれていた。早苗の手が銃に伸びる。
 ひときわ大きな雷鳴が、まるで爆音のようにとどろいた。
 

 目の前が真っ暗になった。
 まさか自分は撃たれたのかと一瞬、香の脳裏をよぎったのはそれだった。
 だが、違う。痛みはない。
 ──停電?
 香はほとんど本能で、とっさにベッドの上で体の位置をずらした。
 光が落ちる寸前、早苗の手は銃に届いていた。彼女は引き金を引いていないが、その銃口は香がいた位置を狙っている違いない。光がついた瞬間、早苗は引き金を引くかも知れない。
 暑くもないのに背筋に汗が伝う。心臓の音がうるさかった。
 光が戻れば、あるいは闇に目が慣れたら早苗に飛びかかるくらいの覚悟で香は闇を注視し、身構えた。
 停電してから十秒。
 鈍く赤い非常灯が灯った。
 間髪入れず飛び出そうとした香は、その瞬間、自分の負けを悟った。
 暗闇の中で動いていたのは香だけではなかった。早苗はナイトテーブルのそばからさらに三歩ほどを退がって、香と距離を空けていた。光が点灯した最初の瞬間こそ銃口は今の香の位置からずれていたが、早苗が遠のいていることに虚をつかれた香が床を蹴るより早く照準は修正された。
 赤く頼りない光の中で銃は黒々とした口を開けて香の胸をまっすぐ狙っている。
 ──撩……。
 頭の片隅にパートナーの姿が浮かんで消えた。
 ──どうしたらいい? 撩。あたし、どうしよう……。
 早苗は両腕を伸ばして香の体の真ん中を狙っている。その細い肘にはゆとりが無く、一度撃てば反動はきっと大きいだろうと思った。けれど、その一度がよけられない。よけられる気がしない。
「……」
 早苗の唇がかすかに動いた。何かを呟いている。雨音と雷鳴が激しくてなんと言っているかわからなかったが、香には予感があった。いま香が撩の名を胸の内で呼んだように、きっと早苗は恋人の名を唱えている。
 早苗が大きく肩で数度息をした。引き金に触れる白い指が赤い光の中ではっきり見えた。指は彼女が息を吐くたび引き金に掛かり、離れ、それを繰り返した。
 雷が少し遠のく。弱くなった雨音だけが残った。
 早苗の指が再び引き金に触れた。
 一発。その一弾をよける。香は全神経を集中させた。
 胴の力だけで体を横倒しにするのでは、弾丸の速度に足りないと思った。
 香はベッドに片手を突く。
 雨の音がやんだ。
 早苗が息を詰めた。
 ──来る!
 香は腕に力を込めた。
 早苗が包帯を巻いてくれた手のひらが鈍く痛んだ。
 

 緊迫は、意外な形で破られた。
「空木さん?」
 まさに早苗が引き金を引こうとした瞬間、ドア越しに声が掛かった。
 その声に、早苗の体がびくんと跳ねる。まるで早苗が銃弾を浴びたようだった。
 早苗の指は引き金を引くことはなく、その場で固まった。
「空木さん、大丈夫?」
 控えめなノックに続いてドア越しに声は繰り返した。
 低い声は桐生美和のものではない。
 早苗は顔をこわばらせたまま動かない。
 香は体を横倒しにするのをやめ、早苗を見た。
「空木さん!?」
 室内から返る沈黙に、ドア越しの声が切迫感を帯びた。
「どうしたの? 返事をしてちょうだい! 何かあったの?」
 花井と呼ばれた女性のものだと香はその声の主の名を思い出した。
 早苗の銃を持つ手が、小刻みに震えた。もう照準は香に合っていなかった。
「空木さん!?」
 やがて、早苗は顔が歪むほどきつく目をつむって、銃を下ろした。
 目を閉じたまま、彼女はそのままドアのそばまで足を引きずるように後退してゆく。
「空木さん!」
「……だいじょうぶ」
 早苗の洩らしたそんな声が、かろうじてドアを通して外に届くようになるまで、もうしばらく時間が掛かった。
「大丈夫です、花井さん……。何もありませんから……。開けてください……」
 早苗は頭を垂れて、ドアの脇の壁に背を預けた。慌てたように落ち着きのない鍵の開く音がして、ドアが開かれた。ドアの外の廊下も赤い光でわずかに照らされているだけだった。
「空木さん、どうしたの!?」
 早苗とそう変わらない身長の少しふっくらした女性が飛び込んできた。壁に寄り掛かり今にも崩れ落ちそうな早苗の肩を支える。
「どこか怪我を!?」
 早苗の顔をのぞき込むようにして、それから、その目が香を向いた。
「だいじょうぶ。私は、なにも……ほんとうに……」
 早苗が弱々しく頭を振ってそう言ったあとも花井の視線はしばらく香の顔の上の留まった。
「撃とうとしたんです……撃ちたかったの……」
「──ええ」
 花井は静かに応えて、吸い寄せられる磁力を引きちぎるようにその目はゆっくり香から離れ、早苗に戻った。花井は早苗の手からそっと銃を取り上げた。
「……出ましょう」
 早苗は小さく頷く。
「……ごめんなさい……」
 噛みしめられた早苗の唇からそんな呟きが洩れ聞こえた。その声は、何度も何度も繰り返された。
 早苗は花井に腕を支えられるようにして廊下へと出ていく。
 香はその一部始終を見ていた。
 やがて、二人の姿がドアの陰に消えて不自然なオートロックがカチリと小さな音を立てた頃。
 ドアを通して、早苗の絶叫にも似た慟哭が室内の空気をふるわせた。
 香は、聞くに堪えない思いで奥歯を噛みしめた。
 


 
 

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