≪ 憂国の竜 ≫
 


 

 おおおおと、声がうなりを生ずる。
「トラバント王! 我らが王よ!!」
「トラキア万歳!!」
 囂ごうと、耳が鳴るような響きを伴って歓声がわき起こった。

 
 ──これで、北トラキアはトラキア王国のものとなる。
 ──我らの長年の悲願が叶う。
 

 蒼穹の下で、歓びの声はいつまでも深く大気を揺るがした。
 トラバントとて、歓喜のほどは彼らと等しい。
 彼らの悲願は他の何物でもなく、男自身の願いであったから。そう、男にとっては全身全霊を掛けた願いであり、他の何物にも代え難い望みだった。
 これで民が飢える日々は遠ざかり、他国の戦のために民の命を危険にさらす傭兵業も終わりに出来る。ハイエナと呼び称された彼らを、誇り高い騎士にも戻してやれる。
 その未来へと続く道が、ついに開かれたのだ。
 背をしびれが抜けるような感慨が男をつつんだ。
「お、王……」
 そんな中、その声は控え目に、ごく控え目に掛けられた。
 トラバントは目を開くと、声を掛けた竜騎士の一人に目をやった。今のこの部隊ではトラバントに継ぐ高位の竜騎士でマゴーネという。無論トラバントも良く見知った男だったが、マゴーネは自らの立場には似合わぬほど困惑を露わにしていた。そのような姿はトラバントも初めて目にするものだった。
「王……あの、先の子どもがひどく泣くもので、部下たちが手を焼いております。どういたしましょう?」
 かえりみれば、確かにこの熱狂の中で困惑の気配に包まれている小さな一帯があった。その輪の中央には泣き叫ぶ子どもがいる。
「ひと思いに、殺しましょうか?」
「……」
 男は顎に手をやると、沈思した。神器たるおのが槍に掛けて誓った以上、その誓いを破ることは出来ない。戦士としての名誉や誇りは捨てて久しいトラバントだが、この誓いを違えれば言霊が彼を引き裂くだろう。神器を継ぐ者としてそれがわかっていたからこそ、娘の父親もただ一言で聖槍を手放す気になったのである。
 殺せぬとあれば、生かすより他なかった。
 しかし迂闊に長らえさせれば、娘の存在は禍根となる──。
「ノヴァの娘か……」
 男は口の中で呟くと、部下に向き直った。
「殺すには及ばん。わしに考えがある、その娘を連れてこい」
「はっ」
 トラバントは娘が連れてこられるのを待つ間に、飛竜の首を返して砂地に刺さった槍を取り上げた。神器は持ち主を失っても神器であり、その槍からは周囲の空気を陽炎のごとく揺らがせる、特異な波動が感じられた。
 あるいは、それが他の神器であれば話はまた違ったのかも知れない。
 けれどダインの血筋と地槍ゲイボルグには、他のどの神器よりも深い絆がある。あるいは、深い宿命が。
 だからこそ感じられるのかも知れぬ、男は思った。
「王、連れて参りました」
 部下の手にある娘からは、強いノヴァの血の匂いがした。紛れもない、神器を振るえる者の気配がそこにはあった。
「うむ」
 短く答えてトラバントは泣きやむ気配のない幼子を受け取った。
 男の手に抱かれ、いっそうひどく娘は泣き出した。
 男は思わず鼻に皺を寄せた。
 わかるのだろうか、と男は疑問を覚えた。まだ物心がつくか否かというこの幼子にも、自分が憎むべき相手であることはわかっているのだろうか。
「泣くな」
 ひっ、ひっ、と娘はしゃくりあげる。小さくふくよかな指が男の手にあるゲイボルグを指し示した。
「お……お父しゃまのお槍ぃ」
 本来ならかわいらしいはずの顔をくちゃくちゃにして、娘はゲイボルグへと手を伸ばす。
「返してよぉ」
 ばたばたと槍へ向かって、娘は男の手の中で泳いだ。
 男は、息をつく。血筋とは恐ろしいものだと、少しも怖くないのに思った。
「この槍はまだ、お前の手に余る。だがいずれはお前に返してやろう──名は?」
 泣きはらして真っ赤な目をした幼子は、それでも男を見据えて答えた。
「アルテナ」
 男は娘の言葉に頷いてみせると、マゴーネを振り返った。
「わしはこの娘を連れて返る」
 普段は王に絶対の信頼を寄せ、その言葉に諾々と従うマゴーネもこの言葉にはやや驚いた様子だった。
「は? その子どもをどうされるおつもりで?」
 目を瞠り、半ば頓狂とも言える声をあげる。
 トラバントはわずかに苦笑した。
「馬鹿者。お主が知る必要はないことだ」
「は、はっ。申し訳ございません」
 恐縮したように男の部下は頭を垂れた。
「では、我らはシグルド軍の追撃に向かいます」
 男は大仰に頷いた後、真摯な声で言った。
「渡された金の分の働きはせねばならぬが、無駄に死んではならぬぞ。我らの夢はもう手の届くところまで来ている。皆、生き残って共にその夢の地へ行くのだ、良いな。そのためにも気を引き締めよ」
 マゴーネは感極まった体で、王の言葉に頷いた。
「皆にもそう伝えよ。ここで死んではならぬと。わしは一足先に本国に戻り、北トラキア進行の準備を進めておく」
「ははっ」
「頼んだぞ!」
 トラバントは娘を腕に飛竜の腹を蹴って、空へと舞い上がった。
 

 後世の歴史家の中には、トラバント王は当初より、アルテナ王女に憐憫の情、ないしは悔恨の情を抱いて我が子として引き取ったのだという説を唱える者も、皆無ではない。後にトラバント王がアルテナ王女に対して示した姿勢を主な根拠として、当初より王は王女を道具として扱うのではなく、深く気にかけていたのだとする説である。
 が、これは概ねトラバント王を過大評価したものとされる。
 旧トラキア王国の竜騎士団が当時ハイエナと称されていた所以の一つとして、戦場では女子供──正確には女戦士や新兵のことであるが──にも容赦がなかったことが上げられるが、すなわち、トラバント王を含めて、彼らは男の騎士はおろか女騎士を殺害することも厭わなかったと見られるのである。
 また、レンスターの王太子夫妻は不倶戴天の仇敵として、トラバント王にとってはある意味で思い入れの深い相手であったことを根拠とし、アルテナ王女はトラバント王にとって特別な存在になりえたとする説もある。しかしながら、伝わっている限りにおいて、トラバント王はそういった「ある種の軍人的ロマンティシズム」とは無縁の人物であった。よってこの説は、トラバント王にとってのレンスター王太子夫妻の存在価値を過剰評価したものとされることが多い。
 ために、どのような理由にせよ、イードの虐殺の時点で、トラバント王が宿敵の娘であるアルテナ王女の立場を憐れんだとは考え辛いのであった。
 少なくともトラバント王がアルテナ王女を保護した直後は、彼にとって王女は軍事的政治的にはともかく、精神的にはさして重要な存在ではなかったという説が大勢を占めている。
 さらに、よりトラバント王に厳しい見方をする歴史家の中には、やがてアルテナ王女を駒として、王女自らにレンスターを憎ませることで意趣返しを計ろうとしたのだという、トラバント王の悪意を説く者もおり、その数は必ずしも少なくない。
 しかしながら、当時のトラバント王の内面を明らかにするような資料は一切存在せず、どの説を主張する者も、自らの意見を完全な自信でもって断言することは出来ないのであった。
 したがって、トラバント王がアルテナ王女を我が子とした際の心情がいかなるものであったかは、永遠の謎となるのである。
 
 

NEXT