「待っていて」
オペラ座の地下深く、小舟を前にクリスティーヌが言った。
「お願い、ラウル。少しだけここで待っていて。すぐに戻ってくるから」
ウェディングドレスを着せられた娘は、そう、彼に懇願した。
遠く頭上からは喧噪が聞こえてくる。少なからぬ人の声は、探せ、と叫んでいた。
『オペラ座の亡霊を捕らえろ』。
その声を背に、ラウル・ド・シャニィは目の前の娘を見つめた。
ラウルはその名の示すとおり貴族の青年だった。ものの分かった者が彼の名を聞けば、それだけでこの青年が十三世紀の終わりから続くフランスきっての名門
の出であることに気づくだろう。それはそのまま、彼がヨーロッパ有数の葡萄畑を有する裕福な家柄の生まれであることを意味した。もし、人がラウルの為人
(ひととなり)を知ったなら、この青年が経験以外にはおよそ欠けたところのない若者であることをすぐに理解したに違いない。
そのラウル・ド・シャニィは、目の前に立つ娘を見つめた。
年若いラウルよりなお若い彼女は、美しい娘だった。パリの街を闊歩する紳士が彼女の姿を目にすれば、誰しもが邪な企みの一つも考えるだろうと、そんな想
像を人々にもたらすほどに。そして、もしそんなことになれば、彼女には紳士たちから逃げ切る術はなかった。権力や財を一切持ち得ない、クリスティーヌ・
ダーエはオペラ座の一介の踊り子で、歌姫だった。
しかし、ラウルの婚約者のクリスティーヌ。
彼女の左の薬指には、ラウルが贈った婚約指輪が輝いている。クリスティーヌ・ダーエは、ラウルにとってただの恋人ではなく、ましてや一時の戯れを愉しむ
愛人とは断じて違った。彼女は、ラウルにとって身分の隔ても超えて一生守り抜くと誓った女性だった。
そのクリスティーヌが言う。
「お願い」
そんな彼女の頼みを、どうして青年に断れるだろう。
それが別の男の元へ行かせて欲しいという願いであったとしても、ラウルには拒絶することなどできなかった。
だから青年は頷いた。
「行っておいで」
ラウルが笑ってそう答えると、クリスティーヌの体が一度揺れた。彼女は、端的に言って驚いたように見えた。
青年はクリスティーヌがその美しい目を瞠って自分を見つめ直す様を見ていた。ひとたび目を見開いた彼女が、ややしてその顔に深い悲愴を浮かべるのも見ていた。
その顔を見て、ラウルは思わず笑みを深めた。
「いいよ」クリスティーヌに向けて、ラウルはもう一度頷いた。「気をつけて行っておいで」
美しい娘は何かを言いかけるように唇を開いた。けれど彼女は何も言わずラウルを見上げるだけだった。
彼女たち(その中にラウル・ド・シャニィは含まれない)に残された時間はそれほど多くはないはずだ。クリスティーヌは急ぐべきだった。だが、彼女は長く
青年を見つめていた。
クリスティーヌが唇を開いた。彼女は幾たびかそうして何かを言いかけ、結局、唇を閉ざした。そうして、クリスティーヌは最後に無言のまま頷い
た。彼女はそのとき少し泣きそうに見えた。
だから、それで充分だ、と青年は思ってしまった。
本当に充分だと。
ラウルの見ている前でクリスティーヌは彼から離れ、ためらいがちに地下の奥へと足を進めた。彼女は途中、一度、二度とラウルを振り返った。彼は、そのた
びにほほえんでクリスティーヌを送り出した。やがて彼女は地下の奥へと駆けていった。
恋人の姿が見えなくなり、地下の洞窟に反響する靴音も遠のいてゆく。それを確かめて初めて青年は肩を落とした。まだ年若い彼には、溜息をこらえること
はできなかった。水に濡れた体は冷たく、開いた傷口は痺れるように痛み、全身が急に重みを増したかのようだった。
青年はその重さにしばらくうなだれていたが、ふとうしろを振り返った。
彼の背後には地下の湖面だけが静かに控えていた。ラウルは見るともなしに足下に寄せてくる湖水を見つめ、ややして重い体を引きずるように舟を出す支度を
始めた。もっとも、舟を出すと呼べる程のさしたる準備が必要なわけでもなかった。ラウルのしたことと言えば、その小舟を繋ぐロープを簡単に外せるようにし
て、舟や櫂に問題がないかを──あるはずもないのだが──確かめただけだ。湖水の下には、彼が落ちた落とし穴のような仕掛けが無いとも限らなかったが、そ
れは彼には調べようもない話だった。
──いや、それはもはや調べる必要のないことだ。
ラウルは、遠い目になって靄(もや)に覆われた湖面を見つめた。
仮に事実、罠が存在していたとしても、もうそれが働くことはない。
それはラウルの確信だった。【あの男】はもうそんな真似をしないはずだ。仮に仕掛けそのものは存在したとしても、行けとクリスティーヌに告げた以上、
あの男は一切の罠を止めたに相違ない。あの哀れな男には、クリスティーヌに危害を加えることなど二度と出来ない。
それは確信よりなお強固で、言うなれば事実と呼んで差し支えなかった。「決して起こりえないこと」。その純然たる不可能。
哀れだと思った。
ラウルはあの男に憐憫を感じていた。それは、マダム・ジリィの昔語りを聞いたときよりもずっと強い哀れみだった。
亡霊と呼ばれ、さもなくば自らそう称した男。正直に言えば、今なおラウルの中からあの男に対する負の感情が払底されたわけではない。天使の名を騙って
彼女をだましたことに対する怒りも、彼女の聖域とも言える父親の存在につけ込んだことに対する憎悪も、そして吐露するなら心の奥に存在する嫉妬も消えたわけではなく、おそらくこの先も完全に失われることはないだろう。
だが、オペラ座に住まう亡霊は、今となってはただ人を愛することの意味を知らなかった男に思われた。あるいは焦がれることを愛とはき違えたのかも知れな
い。
どんな人生を送ってきたの──、とはクリスティーヌがその男に問うた言葉だ。ラウルも同じ問いを心から思う。マダム・ジリィの助けの手からも人の情を学
んだと思えぬ男は、本当にどんな人生を歩んできたのだろう。それを思えば、あの男はただ不憫としか言い様がなかった。
そう思えるようになった理由は自問するまでもない。あの男が今にしてようやく愛を知ったからだ。
哀れな男は、ようやく人を愛することを知った。乞うのではない。焦がれるのでもない。恋い慕うこととすら違う、人を愛することの意味をあの男は理解し
た。
そして、彼女と分かたれた。
彼女から離れるより他に、あの男に道は残されていなかったのだろう。あの男の過ちは大きく、これまでに犯した罪はあまりに大きかった。愛のためには彼女
と共に生きることはできなかった。そして、彼女の傍にあることを自らに許せぬほど、あの男はたしかに彼女を愛した。
だから、初めてこんなにもあの男を不憫に思う。
──クリスティーヌ。
我知らず、ラウルはその名を胸の内で唱えた。
クリスティーヌ。きみは帰ってこないかもしれない。
あの男が再び彼女を連れ去るのではないかという恐れはすでにどこにもなかった。あの男は彼女の背に真白い翼を見たはずだ。彼女が神に呼びかけたあの時、
それはラウルにすら見えた彼女の光だった。ならば実際に彼女の慈愛を注がれたあの男の目に、その翼が見えなかったはずはない。
哀れなあの男は、もうあの天使に何かを強いることなどできない。
だから、彼女が帰ってこないとすれば、それはただ彼女の意志によるものだ。
青年は彼女にあの真白い翼を与えた感情が何であるか、もう知っていた。
ラウル・ド・シャニィは揺れる湖水を見た。遠く、頭上からは人々の怒声が響いてくる。
けれど、クリスティーヌが戻ってくる足音はまだ聞こえてこない。
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