ラウル・ド・シャニィにとって、クリスティーヌ・ダーエは幼い日に見知った少女だった。愛らしい容姿と美しい歌
声に恵まれた彼女は、ラウルの目にはお伽噺に出てくる少女のごとく純粋に映った。
思い返せば少女のそれは好ましい無垢の形とも言えたが、同時に、何事をも信じかねない無防備さでもあったのだろう。再会してから知った寄る辺ないクリス
ティーヌの孤独は、その娘をいっそう危うく見せた。
だから、ラウルはクリスティーヌを守る楯になりたかった。彼女の孤独を癒す光になりたいと望んだ。
だが、それはもう過去のことと言っていいだろう。
今の彼女をただそんな風に見ることが、すでにラウルにはできそうになかった。
待っていて、と告げた彼女は──いや、それ以前に、亡霊のオペラを演じた彼女は、もはやラウルの知る無垢な少女ではなかった。
しかし、それでもなお、
「クリスティーヌ」
青年はまぶたを閉ざし、今度は意識して彼女の名を口にした。
「──僕は、きみを自由にしたい」
独語して、彼は目を開く。
ラウルが初めてクリスティーヌに愛を誓った時、彼が最初に望んだことがそれだった。
きみを自由にしたい。
二人でオペラ座の屋上へ走った夜。あの屋上は光ではなく闇に包まれていた。その中で揺らぐ彼女は明けない夜に囚われていたかに見え
た。
その夜はすでに明けたのかも知れない。けれど、今もなおラウルの中でその誓いは消えていなかった。クリスティーヌに対してではなく、自らに課した誓いと
してその言葉は今も生きていた。
クリスティーヌが好きだ──と青年は思う。彼女の心がどこにあろうと、今も彼女のことが好きだと。クリスティーヌがあの男に示した奇跡のような愛情を見
て気持ちが深まることはあっても、ラウル・ド・シャニィが彼女への愛情を失うことは有り得なかった。
だから、僕は誓いを果たそう。青年は決めた。
例え彼女があの男のそばに残ることを望んでも、自分はそれを受け容れよう。
クリスティーヌが、ただ憐れみだけではなくあの男を愛したことをラウルはもう認めてしまっている。彼女はあの男に惹かれていて、あの舞台の中で、ともす
ればあの男と行こうとしているのだと気づいた時の痛みは烙印となってラウルの心に焼き付いていた。もし彼女があんな形で連れ去られたのではなく、自らの意
思でラウルの前から去ったのなら、青年にはきっとクリスティーヌを追えはしなかった。
しかしそれでも彼女を責める気持ちは浮かばない。ラウル自身ふしぎに思う。しかし、彼にはどうしてもクリスティーヌに対してそんな気持ちを持てなかった。誰かに焦がれる気持ちが止めよう
のないものであることは、身分違いの恋をした彼とて良く知っている。
ただ身を切るような痛みが募るだけ。
哀しみが深まるだけだ。
ラウルは傷つく自らに気づくことで、自分がどれほど彼女に心を寄せているかを改めて知る思いだった。彼女を変わらず愛している。だから、おそらくこの苦
しみはこの先ずっと続くだろう。
クリスティーヌの心からあの男は消えない。屋上での夜に彼女の心を捕らえていた歌声は、この先も永久に彼女の中に残るだろうから──。それは青年には自
明のことに思われた。
しかし、ならばそれでもいいと、彼はこの時覚悟した。
クリスティーヌの心がどこに行くとしても、彼女を助けたいという自分の気持ちに変わりはない。
それは最前、彼はあの男の最後の「選択」へ頷きを持って彼女を送り出した、あの時よりもただ静かな覚悟だった。
それならきっと大丈夫だ。
青年は自分に言い聞かせた。僕は、大丈夫だ。
今し方、行っておいでとラウルが告げた時、クリスティーヌはその顔に深い悲愴を浮かべた。彼女には情熱のままにあの男の元へ走り去って行くこともできた
はずだ。けれどクリスティーヌはそうはせず、立ち止まった。彼女はラウルを見上げ、この痛みを察してくれた。そしてラウル・ド・シャニィの痛みを前に、彼
女もまたあの瞳に痛みを浮かべてくれたのだ。
だから大丈夫。僕にはそれ以上望むものはない。
ゆえに、青年はもし彼女があの男と行くことを望むならその望みが叶うようにクリスティーヌを守ろうと思った。それがわずかでも彼女の助けになるのなら、
彼らのために助けの手を差し出すことも厭うまい。
そして、もし彼女が戻ってきたなら──。
その時は、彼女のすべてを受け容れよう。
青年は自分にはそれ以外の生き方がないことを知っていた。彼女のすべてを
容し、ただその幸せのために尽くすこと。この青年にはそれ以上に人を愛するという方法を思い浮かべることができなかった。
だから、僕は君を自由にする。
生涯を賭して、僕はあの夜の誓いを果たすだろう。
痛みの中で、しかし、ラウルはひとりそう決めた。
足音が聞こえてきた。誰の足音かは確かめるまでもない。小さな足音はだんだんと近づいてきた。だが、間もなくその姿が見える、と言うところで足
音は一度止まった。ラウルは何も言わずじっと立っていた。彼女の足を止めたものがためらいなのか、それとも別の理由なのか、沈黙の中で青年にはわからな
かった。
ラウル・ド・シャニィは舟を前にじっと待つ。足音は近づくかも知れないし、離れていくかも知れないと思った。
決して短くはない時間が経って、再び歩き出す気配がした。足音は近づいてくる。ラウルは疲労にたわんでいた背筋を伸ばし、意識して穏やかな表情を
つくった。正に今気づいたように振り返ると、白いドレスを着たままの姿で彼女はそこにいた。
ちらりと見えた左手に、一度は戻ったはずの指輪が見えないような気がした。
たぶん見間違いではないだろう。そう思うとラウルの心は痛んだ。それが彼女のどんな思いの現れかは、きっと考えるまでもない。
しかし、彼はほほえんだ。
クリスティーヌは左手を隠すように手を重ね合わせたまま、ラウルを見上げた。よく見れば青ざめた頬には涙が伝ったあとが残っていた。彼女は堅く、悲しい
表情をしてラウルを見上げていた。ラウルは黙ったまま何も言えなかった。おかえりも、さあ行こうも、決して言ってはならない言葉だと思った。それは彼女の
未来を縛るだろう。どうする? どうしたい? と問うことさえ、今ははばかられた。
ラウルは黙ったままじっと彼女の言葉を待った。
「ラウル……」
クリスティーヌが口を開いたので、初めて、うん、とラウルは問い返した。
問い返した途端に、クリスティーヌの瞳に浮かんだ悲愴の色が増した。
クリスティーヌは何かを言いかけた。何か、それは決定的な一言だったかも知れない。だが、彼女の声はいよいよ近づいてきた喧噪にさえぎられた。
「殺人犯を捕まえろ!」
「オペラ座の亡霊を!」
クリスティーヌは我に返ったように頭上を見上げた。それから、彼女はもう一度ラウルを見た。
「……行きましょう」
一拍の沈黙を挟んで、彼女は悲しい顔でそう言った。
その目を見て、彼女の決意が確かなものであることを知って、ラウルは頷く。
青年はクリスティーヌに先だって小舟に乗り、気づかれぬほどの時間ためらってから彼女に手を差し出した。彼女は、ラウルの手を取って小舟に移った。
その時のことだ。クリスティーヌが小さく言った。
「ごめんなさい」
それは彼女にとって何気ない言葉だったろうと青年は思う。
だが、彼女がその瞬間に何気なく口にした言葉が「ありがとう」でなかったことが、彼女の心のすべてを物語っているように、青年には思われた。
彼女は自分に詫びたのだと。
ラウルは思わず覚えた痛みを、けれど心の底に沈めた。
それもまた仕方のないこと。受け容れると決めたことだと彼は思う。
だから、青年は笑って首を振った。
「いいんだよ……」
そうして、ラウル・ド・シャニィはふたりの乗った小舟を進め始める。
"きみがどこへ行こうとも、僕は──"
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