オペラ座の地下には湖が広がっていた。
クリスティーヌ・ダーエがそのにわかに信じ難い眺めを目にするのは、この日がやっと二度目だった。
彼女をこの地下に連れてきたのは、二度とも一人の男性だった。けれど、この地下から永久に去ろうというこの時、彼女の傍にいるのは別の青年で、彼女を地下に誘ったその
男性ではない。
クリスティーヌは地下を抜けるための小舟を前に、正解のわからない問いと向き合っていた。
振り返ればこの数ヶ月というもの、彼女はずっとそんな風に何かに悩み続けていたように思う。
「この数ヶ月」とはつまり、<音楽の天使>が本物の天使ではないと彼女が知った時からのことで、彼女の懊悩は今この時も終わることなく続いていた。
そして、これが最後になるだろう。
クリスティーヌは、今一度その男性のところに戻ろうと考え始めていた。その男性とは、歪んだ半面を持った哀れな人だった。
クリスティーヌにとっては長きに渡って<音楽の天使>と信じてきた相手だった。彼女の人生の半分よりも長いあいだのことだから、本当に長い年月のことに思われる。それどころか、クリスティーヌは今でもなお彼を<音楽の天使>だったと信じているのかもしれなかった。彼が人間だとわかった今もこの先も、彼が音楽の天使ではなかったと思う日は、彼女には来ないように思われた。
けれど、彼女はそのひとを置いてきてしまった。
行けと叫んだのは男のほうだった。私を置いて行け、と彼は叫んだ。クリスティーヌはその言葉を受け入れた。けれど、この地下の王国を離れようという今になって、彼女は胸が苦しくなるのを感じていた。
せめてこんな形で別れてしまう以外に何かできることはなかったろうか? まだ何かできることはなかったろうか? このまま別れてしまうと思うと、その問いは彼女にひどく重くのしかかった。
やがて、彼女は戻りたい、と思った。もう一度、彼のところへ戻りたい。
戻って何をしようというわけではなかった。クリスティーヌは、少なくともこの時、その男性と共に生きようと思っていたわけではなかった。それはできないし、してはならないことだ。
けれど彼女は戻りたかった。
──正しいことだろうか。
自らに問うて、クリスティーヌはいよいよ苦しくなった。彼女は正しい答えが知りたかった。もし正解を知る者がいるなら、迷わずその知恵を借りたいと年若い彼女は考える。
いま自分が導き出す答えは、正しいものであるべきだ──とクリスティーヌは思っていた。ここで選ぶ答えは欲望によるものではなく、同情によるものでもなく、おそらく愛情によるものでもいけなかった。この数ヶ月の出来事で彼女に学んだことがあるとするならば、その中には愛さえ常に人を正しく導くわけではないのだ、ということが含まれるだろう。そして今、クリスティーヌはただ『正しい』と言える答えを知りたかった。
けれど、そんな答えを与えてくれる者はいない。この問いに真に向き合っているのはこの世でただ一人クリスティーヌ・ダーエだけで、彼女は結局、最後まで自分ひとりで現実に向き合わなければならなかった。
そして、クリスティーヌは戻ろうと決めた。
正しいという自信があったわけではない。むしろ間違っているのではないかという恐れの方が強いかもしれない。結局のところ、このまま去るには心残りが大きすぎた。戻ろうと決めた理由はそれだけだ。あるいは、そんな心残りを残したままにしておくことが正しくないと言えたかもしれないけれど……。
舟を目前にしてクリスティーヌは心を決めた。彼女は顔を上げると前を進む青年に声を掛けた。
「ラウル」
青年が振り返った。彼女はラウル・ド・シャニィを見上げて言った。
「お願い、ラウル。少しだけここで待っていて。すぐに戻ってくるから」
彼女は自分の胸元で両手を握りしめ、青年が頷いてくれるように祈った。クリスティーヌの心はすでに、置いてきた彼のもとに向かいたい一心になっていた。
「お願い」
告白するならば、この時、彼女の心を占めていたのは残してきた男の存在だけだった。
それに対して、静かに、軽くすら聞こえる調子で青年は答えた。
「うん。行っておいで」
その青年の返事を、「あれがすべてだった」と言うことはたやすい。
あまりにも、簡単すぎる。
クリスティーヌは後に何度もそう思い返した。
つまり、すべてと言ってしまうと簡単になりすぎて、もう正しくはないだろう──と。
しかし、そのラウルの答えがいくつかのことを変えたこともまた、確かだった。それはたぶん、彼女たちの人生や生き方と呼べるものを。
そう考えると、彼女にはやはりあの時の答えがすべてだったと言って間違いではないようにも思われるのだ。
その短いやりとりは、彼女たちの人生をたしかに決した。
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