けれど、クリスティーヌがそんなことを考えるようになるのはあくまで後になってのこと。
彼女はその時、ただ息を呑んだ。青年の言葉にクリスティーヌは相手を見上げた。いや、それまでも彼女はずっと目の前の青年を見上げていたのだけれど、こ
の時になって改めて、ラウル・ド・シャニィの姿は彼女の心に届いたのだ。
青年は静かに笑っていた。そこに憂いはなく、哀しみはおろか、一点の痛みを見出すことさえ難しかった。青年の顔に浮かんでいたのはただ温かいだけの微笑
だった。
その顔を見上げ、なぜ、とクリスティーヌは声にならない声を上げた。
なぜ、あなたはそんな風に笑えるの──。
日の光も差さぬ地下にあって、見上げた青年の顔は春の陽射しのように光って見えた。
ラウルの輝きは、置いてきた男の存在に占められていた彼女の心を刺し貫いた。そう呼ぶより他にないくらい、青年の姿は彼女の心に強烈な痛みを与えたの
だ。
ラウルには、今こんな風に笑顔を浮かべる理由などない。
青年の笑顔はオペラ座の屋上で彼女が救いの手を求めた時以上に温かだった。だが、いま彼女が青年に求めたものは、あの夜に求めた愛の言葉とはまるで違っ
ていた。それを全く忘れてしまえるほどには、彼女は無慈悲ではなかった。
それなら、今ラウルが当たり前のように笑えるはずはない──。
クリスティーヌは息もできずに青年を見つめた。しかし、彼女が穴の空くほど見つめても青年はただ優しく、翳りなく、あるはずの憂いや痛みはどこにも見出
すことができなかった。
その姿を見て、一度は置いてきた男性の元に行くと決めた彼女の心が大きく揺らいだ。
行くべきではない。いま目の前に立つ、このひとのために行くべきではない。
彼女の動揺が表情に表れたのだろう。青年はわずかにその微笑を深めた。もし、輝きが増すのではなく深まるということがあるならば、その時の青年の表情を
おいて他にはなかった。
「いいよ」優しい声でラウルはもう一度言った。「気をつけて行っておいで」
クリスティーヌは唇を開いた。
けれど、彼女は言うべき言葉を見つけられなかった。
ラウルの目は無言の内に行っていいと告げている。
クリスティーヌは青年の変わらない笑顔を見上げていた。
その内に青年を見上げる目が熱くなり、やがて彼女はその眼差しに押されるようにして頷いた。せわしなく瞬くと、今にも涙がこぼれそうだった。クリス
ティーヌはラウルから逃げるように数歩退いて、それから地下の奥へと足を向けた。
ためらいながら二歩、三歩と進み、ラウルはどんな顔をしているのだろうとクリスティーヌは考えた。想像すると恐ろしかったが、たしかめないのはもっと怖
いことに思われた。
だから彼女は二度、三度と青年を振り返った。振り返った先に青年は変わらず静かな表情でたたずんでいた。彼女が振り返ったことに気がつくと、青年は優し
く笑った。そこに哀しさは無く、憂いもなかった。行っておいでと言った、その言葉どおりのほほえみだった。
クリスティーヌは思わず走り出した。
混乱した頭のままで、気づけばクリスティーヌは地下の奥に辿りついていた。シンバルを叩くオルゴールを前に、男はひとり歌っていた。彼女は立ち止まると
そのひとを見た。
半ばは失われた金の頭髪。今の彼女から見える側の顔立ちは、常人とさほど変わりない。あるいは秀でているようにも思われた。けれど、クリスティーヌは彼
のもう半面も知っている。彼女はその姿を、すでに醜悪とは思わない。強いて言葉にするなら今はかなしさを覚えた。そして、その姿を目にすると、ラウルの姿
は意識の背後にかすんでいった。
男は、彼女の存在に気がついたようだった。顔を上げ、彼女を見た。
クリスティーヌはそのひとにかける言葉をなにひとつ用意していなかった。彼女はしばらく男と見つめ合った。
そうして、男の愛の言葉を聞いた。
その言葉を聞いて、クリスティーヌは指輪に手をやった。そこで彼女は迷いを思い出した。今から自分がしようとしていることは、このひとにとって酷ではな
いだろうか。正しいと言い切る自信は、やはりわずかもなかった。けれど、彼女は目の前の男のために嵌めた指輪をその手に握らせた。それ以外、もう彼女にで
きることはない。それなら彼女は自分にできるすべてをしたかった。
掌に託された指輪を見つめる男は、今はまるで幼子のようだった。その姿に胸が痛んだ。
しかし、彼女はこの彼を置いてゆかなければいけない。
たぶんこの時のことを、自分はずっと未来まで忘れない、繰り返し思い出すだろうとクリスティーヌは思った。この痛みも、悲しみも、彼の人生の哀れさも。
託した指輪を思う時、それを持っているだろう人のことを生涯思い出すだろう。しかし、彼女は去らねばならなかった。
今、彼女にも「正しい」と信じられることがあるとすれば、それは唯一、ここで目の前の彼と道を分かつことだけだ。
だから、クリスティーヌは最後に微笑んでみせた。少なくとも、微笑もうと努力した。
──「行け」とあなたは言った。
──それだけは絶対に間違っていない。