クリスティーヌは地下の最深部から足早に離れた。足を進めるほどに涙が溢れる。今にも嗚咽が漏れそうだった。
後悔しているわけではなかった。正しいことをしたと思った。ただ、この別れはあまりに悲しかった。
正しくても悲しいことがある。けれど、どれほど悲しくても正しいことがあるのだ。
やがて、いくらか進むと彼女はとぼとぼと歩き始めた。押さえきれず、何度かしゃくり上げた。そして一歩二歩と進むごとに彼女の足取りは重くなった。
この地下の王国は、決して広くはないのだ。ともすれば湖畔はすぐに目の前になる。目と鼻の先にひとつ角があり、そこを曲がればもうすぐに青年の姿が見え
るだろう。
それを思って、彼女の足が止まった。
──ラウル。
そこで待つだろう青年の名を、彼女は声に出さず呼んだ。涙が止まり、湖畔に向かって立つラウルの背中が目の前にあるように心に浮かんだ。
ラウルが振り返る時、彼はどんな顔をするだろう。彼女は考えた。
厳しい顔をするだろうか? それとも笑顔になるだろうか? あるいは、安堵の表情を浮かべるのだろうか。
──安堵。
その単語に、彼女はその場に立ち尽くしてとうとう動けなくなった。
自分が戻ればラウルは安心するかも知れない。
その予感は、自分と恋人の関係が変わったことをクリスティーヌにはっきりと悟らせた。
クリスティーヌは戻らない──あのラウルがそう考えているかもしれない。それは今日の舞台が始まる前にはありえなかった想像だった。
けれど今、彼女はそれを考えるようになった。
つまりそれが意味することは、ラウルがもう彼女の裏切りに気づいているということだ。
クリスティーヌ・ダーエが仮面の男に向けて抱いた情熱、想いに、あの青年は気がついた。
それなのになぜ──なぜ、と彼女は問うた。
なぜ、彼はこの地下まで自分を救いに来てくれたのか。そしてどうして、いま再びあの
男性のもとに送り出してくれたのか。
行っておいで、と言った青年の姿、青年の目は、彼女の気持ちを知っていた。憂いのないラウルの表情には、やはり光しかなかった。
戻ってはいけない、という気がした。
戻ってはいけない。ラウルのために。
しかし、だからといって彼女は今駆け戻ってきた道を、再び引き返そうとは思わなかった。彼女はそれを望んでいない。その男のもとに戻りたい、という気持
ちはすでになかった。この別れは正しいものだ。悲しくても、悔いはない。充分だったかは分からなくとも、彼女にはもう出来ることはなかった。
けれど、ラウルに対してはどうだろう。
もし、この道が一本道ではなく、誰の元にも続いていない道があるなら、自分はその第三の道を選ぶかもしれないとクリスティーヌは思った。その方が、あの
青年のためになる気がした。しかし、彼女の背後にはあの哀れな男が、そして進む先には青年が待っていて、彼女には進むか、戻るかしかなかった。
「……戻ると約束したわ……」
やがて彼女は口の中だけで呟いた。青年のそばを離れる時、彼女は確かにそう口にしていた。すぐに戻ってくるから──。
それでもなお、青年の元へ戻るべきではないかも知れない。彼女はひどくそう思った。たとえ、そのために自分が<天使>と共に行ったのではないかとあの青
年が考えるとしても、戻るべきではないかもしれない。
長い逡巡の末、彼女は結局足を前に踏み出した。少しずつではあるけれど、頭上から人の声と足音が迫ってきている。いつまでも青年を湖畔で待たせておくこ
とは出来なかった。
角を曲がった先で青年は変わらず彼女を待っていた。最前クリスティーヌが思い描いたとおり、まっすぐに立って湖を見つめていた。その背中は、けれど彼女
が思い描いたより孤独に見えた。
彼に孤独を見るのは初めてだ。
そう思いながら彼女が数歩歩み寄ると、青年は初めて気がついたようだった。ラウルは振り返った。その顔には、彼女が思い描いたようなあからさまな安堵は
なく、そしてもちろん怒りもなかった。そこにあったのは送り出したときと同じ静かな優しさだけだった。
走り寄ることもできず、ましてや抱きつくこともできずにクリスティーヌは青年の前に立った。静かな彼の姿に、彼女の胸は苦痛に満ちて言葉は出なかった。
青年もまた、何も言わなかった。彼の口元は優しい曲線で結ばれたまま、じっと彼女の言葉を待っているようだった。
その沈黙の中で、彼女は思った。もし、今ここで自分が置いてきた彼と共に行きたいと告げたなら、このひとはそのまま送り出すのではないか。
そうだ、と彼女は思った。ラウルはたぶんそうする。
ラウル・ド・シャニィという青年を、彼女は確かに知っていた。
彼女の赤いスカーフを取りに海に飛び込んでくれた少年の日から、彼は変わらなかった。
出逢いの日、ずぶ濡れになりながらなんの苦もない笑顔でスカーフを差し出してくれたように。
あの舞台の上で裏切ったに違いない彼女を、命をかけてただ自由にしたいと言ってくれたように。
ラウル・ド・シャニィは、紛れもなくそういう青年だった。
──愛している。
彼女は思った。
わたしはこのひとを愛している。
彼女の胸を占めたのは身を焼くような思いではなかった。狂おしいほどの心の乱れもなく、そして幼い日に抱いた甘いときめきですらなかった。
けれど、これが愛でないのなら何を愛と呼ぶのだろう。相手の悲しみを思って、身を切られるほどの切なさを感じるというのに。ぬくもりを、この敬いを、愛
と呼ばないなら他になんと呼ぶというのだろう。
あなたを愛している。
彼女は思わず口を開きかけ、しかし、青年の顔を見て口をつぐんだ。
今その言葉を告げても、ラウルには決して伝わらない。クリスティーヌは本能で悟った。
ここで愛の言葉を告げても、この思いの深さは決して彼には伝わらない。
彼女は言葉もなく青年を見上げた。今語ることがあるとすれば、それはあなたを愛しているというその一言だけだった。けれどそれはどうしても言えなかっ
た。言ってしまえば、その言葉はただの慰めにすり替わり、胸をしめる想いに見合うものには絶対にならない。
言葉を失った彼女は長く口を閉ざした。文字通りそこに言葉はなかった。途方に暮れる中、最後に近づいてくる喧噪に彼女は我に返った。
「──行きましょう」
言葉は口をついて出た。青年は短く頷いた。彼女が自分の意思を口にして初めて、彼は動き始めた。
たぶん、このひとはそうして、自分のすべてを受け容れると決めたのだ、と彼女は思った。
差し出された手に、彼女は目をやった。青年の腕からはいつかの傷が開いたのか赤く血に染まっている。それだけが目に見える彼の痛みだった。見えない痛み
は、ついに表には現れなかった。
気がつくと彼女はラウルに詫びていた。
「ごめんなさいね……」
青年は答える。
「いいんだよ」
彼女は頷いた。
ラウルはそう答えるだろうと、彼女にはすでに分かっていた気がした。
離れてはいけない。クリスティーヌは思った。もう二度とこの人から離れてはいけない。別の男性への情熱が消えないとしても、それでも、わたしはこの人と
生きていく。
クリスティーヌはラウルとひとつの船に乗り、そっと青年の背に手を当てた。
"わたしはここに、あなたと共に──"
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