Compassion
 
 
 
 
 どのくらいの時間、そうして待っていたろう。
 エリックが隣室から戻ってきた。ラウルを肩にかついでいるのを見て、クリスティーヌは思わず駆け寄った。
 咄嗟にラウルの名を呼びかけて、彼女はそれを口の中に押しとどめた。どう言って良いかわからず、二度ほどラウルとエリックの間に視線を往復させた。ラウルに意識がないことは明らかだった。
「無事なの?」
「あまりいい状態ではない」エリックは堅い声音で答えた。「介抱するから、お前は湯を沸かしてきてくれないか」
 クリスティーヌは頷いた。それから思い出してエリックを振り返った。
「あのペルシアの方は?」
 エリックは一度黙った。
「彼はもっと悪い。危険な状態だ」
「そんな……」
「安心なさい」男は早口で告げた。「どんな形であれ、お前との約束だからね、必ず助けよう。だからお前は言われたとおり手当の準備を」
「はい」
 クリスティーヌはもう一度うなずいて、今度こそキッチンへ走った。
 エリックの言ったとおり、ペルシア人の様子はラウルよりさらに悪く見えた。彼が連れてこられた時には、その黒ずんだ顔色にすでに死んでいるのではないかとクリスティーヌが思ったほどだ。
 エリックは「ルイ=フィリップ様式」のあの部屋でラウルを長椅子に、ペルシア人をベッドに休ませ、代わる代わる看病に当たった。クリスティーヌに出来ることはほとんどなかった。彼女はただ、時折エリックに指示された物を取りに行くために、彼と病人二人の傍らに立って案じているだけだった。だが、その彼女の目で見ると、エリックは本物の医者のように手際がよくて、なぜか安心できた。少なくとも二人を助けようとする姿に偽りは感じなかった。彼らを害するようには見えなかったのだ。
 お前の方が倒れそうだとエリックが言ったのは、それからどれだけ経った時のことだったか。心配で眠れないと言うクリスティーヌに、男は睡眠薬を渡して眠ることを厳命した。
 

 次にクリスティーヌが目覚めた時、エリックは開口一番、次のような言葉を彼女に告げた。
「子爵に意識が戻っても口をきいてはいけない」
 その言葉に、クリスティーヌは尋ね返した。
「では、ラウルは助かるのね?」
「ダロガも大丈夫だろう」
 彼女は思わず息を吐き出した。
「良かった……」
 それからクリスティーヌは改めてエリックを見た。エリックが休んだのかどうか見た目では分からなかったが、休んではいないようだと、なぜか彼女は漠然と考えた。
 クリスティーヌが自分を見ていることはあまり意識にない様子で、エリックは低い声で指示を続けた。
「お前は彼らに意識が戻っても、二人と口をきいては行けない。視線なども極力合わせないようにしなさい。二人と何かやり取りすることは許さない。約束できるね?」
「はい」クリスティーヌはうなずいた。「お約束します」
 エリックが自分を見つめ直すのを感じたが、彼女は静かに相手を見つめ返しただけだった。
 クリスティーヌにも、エリックが何を恐れているかはさすがに検討がついた。意識を取り戻した彼らと、彼女が口をきくことをエリックが快く思うはずはなかった。さらには、不思議なほどに、エリックの目を盗んで、彼らと何かのやりとりをしようというつもりもなくなっていた。休む前から感じていた奇妙な落ち着きが、彼女の中でその強さを増していた。あの二人が助かった。それだけでいい気がしていた。
 彼女が思い描いた<音楽の天使>の夢に、どれほどの人々が巻き込まれたことだろう。これ以上、その犠牲になる人がいないなら、それだけで、もういい。
 クリスティーヌの落ち着きをエリックがどう思ったかはわからない。しかし、少なくとも表面上はエリックも落ち着きを取り戻していた。彼はクリスティーヌに二人の様子を見ているように言いつけると、その後のわずかな時間、休息を取ったようだった。
 再びルイ=フィリップ様式の部屋に戻ってきたエリックは、また二人に長い時間付き添った。定期的に脈を取り、体温を測り、呼吸を見て、不安があればすぐに強心剤を投与して、あるいは水を飲ませた。エリックの指示に従い、クリスティーヌも黙々と──文字通り口をきかず黙って──看病を手伝った。
 

 一度、意識を取り戻したペルシア人に声を掛けられたことがあった。エリックが丁度休んでいる時で、クリスティーヌが指示されていたとおりの時間に強心剤と水を持って行った時だった。
 彼女は自分を呼ぶ声に振り返りかけて、しかし思いとどまった。このペルシアの男性は、エリックとクリスティーヌの間で交わされた誓いを知らないのだ。元もと彼女を助けるためにこの地下まで来てくれた人物なのだから、今からでも逃げ出すように勧めてくるかも知れなかった。そして、今は落ち着いているように見えても、エリックはエリックだ。もしこの相手がそんなことをクリスティーヌに勧めたと知ったなら、再び激昂しない保証はどこにもない。せっかく助かった命を、そんなことで不意にして欲しくはなかった。
 何より、もし地上へ戻る術を聞かされたら、それに誘惑を感じずにすませる自信がクリスティーヌにはなかった。だから、ペルシア人の男性の声に、クリスティーヌは背を向けた。
 それと似たような理由から、クリスティーヌはラウルに対しても一切口をきかず、極力彼の姿も目に入れないように振る舞っていた。そうして、この愛しい幼馴染みを視界に入れないように努めることに、自分がどれほど馴れているか彼女は気がついた。<天使>の怒りに触れてからずっと、ラウルへと心が向かないように、痛ましいほどの努力をクリスティーヌは続けてきたのだ。
 エリックは、ラウルには時折睡眠薬を与えていたらしく、彼女がそばを訪れる時のラウルはいつも眠っていた。オペラ座で──地上のオペラ座で──なんとか自分に声を掛けようと、視線を送ってきたラウルに比べれば、ただ静かに眠る彼の姿を視界に入れないようにすることは彼女にとって幾分ながら易しく、ラウルが眠り続けていたことは、ある意味で幸いなことかも知れなかった。
 ペルシア人がわずかに上げていた頭をまたすぐに枕に戻し、低く呻いているのに気づいてクリスティーヌは我に返った。そして今度はきちんと振り返ると、ペルシア人の額に手を当てた。男の額はぞっとするほど冷たかった。そんなとき、彼女はすぐにエリックを呼びに行く。そんなことを繰り返した。
 

 しかし、その頃にはクリスティーヌにはもうゆとりがあった。
 この地下の王国の主はひどく手際が良くて大概のことはひとりで出来たし、病人たちの看病に手間が掛からなくなると、クリスティーヌが意識を取り戻しつつある彼らに近づくことを良しとしなかった。彼女に与えられた仕事はたまにお茶を淹れることと、エリックが休んでいる間に二人の患者を、少し離れたところから見守っているだけになった。
 そうして彼らのそばについている時間にクリスティーヌが本を読むことにしたのは、何もすることがないことと、ラウルから視線を外す理由がやはり必要だったためだ。読む本として「キリストのまねび」を選んだのは、それくらいしか読める本がないという消極的な理由に因った。エリックはかなりの書籍を有していたが、どれもが専門的なもので、分野も科学や数学だった。芸術の分野では建築や美術書もあるようだったがフランス語の書籍はほとんどなかった。音楽関係の書籍は面白そうだったが、<音楽の天使>から始まったこの一連の出来事を思えば、音楽からはわずかなあいだ離れていたい気がした。
 その小さな宗教書を──エリックからはひどく縁遠そうな内容のそれを──彼が有していたのは、装丁が気に入ったからだろうと思えた。金の縁取りがついたその本は上品に小さく、美しかった。中は真新しく、開いて読んだ様子はほとんどなかった。
 彼女は眠る二人の様子が見える肘掛け椅子に腰を下ろし、ゆっくりとそれを読み始めた。この看病がどのくらいの期間続くのか彼女には検討がつかなかったので、その小さな本を読み切ってしまわないように、敢えて丁寧に読んだ。
 思えば、キリストのまねびというその本に相応しい名を与えられたにも関わらず、自分は主の教えに対して熱心であったことはなかったと、クリスティーヌはふと自らを振り返った。
 彼女が祈る対象は常に亡父か<音楽の天使>であって、主であったことはなかったように思う。天使さまを遣わしてくださいと祈る対象さえ神ではなかった。なぜなら彼女が待っていたのは、<天国にいる父が贈ってくれた音楽の天使>であって、それ以外に意味はなかったからだ。故に彼女は教会の教えに対しても熱心であったとは言えない。そのことに気がついてからは、クリスティーヌは一ページ一ページ、より大切にその本を読んだ。そうしていくらかの時を過ごした。
 
 

NEXT