Compassion
 
 
 
 
「そろそろ二人を地上に帰すとしよう」
 エリックがそんなことを言い出したのは、さそりとばったの夜から五日目のことだった。ずいぶん長い時間が過ぎたように思われたが、そうでもなかったようだった。
 クリスティーヌはその言葉に少し驚いた。確かに二人とも危険な峠は脱したと思うが、ラウルもペルシア人も一日の大半を眠って過ごしていて、未だ一人では枕も上がらないという状態だった。
 そんなクリスティーヌの疑問を見透かしたのだろう。エリックは元々ゆがんでいる口元をさらにゆがめるように笑った。
「彼らは少しの距離を移動する程度なら、不都合は無い所まで回復している。なにも彼らがすっかり元気になってしまうまで我々が看病してやる必要はないのだよ。子爵にはもちろん、ダロガにも忠実な召使いがいるからね。二人を送り届ければ、あとはそれぞれの家人が十分な手当をするだろう」
 クリスティーヌはその言い分に納得した。この地下にいるうちに二人があまり元気になるのもエリックにとっては困ることなのだろうと、それが一番の理由なのはわかっていたが、それでも薬で強制的に眠らされることがないだけ、戻れるなら自分たちの家に戻った方が彼らのためにも良いことかもしれない。なぜかごく自然に、そう思えたのだ。
「動かしても、本当にもう大丈夫なのね?」
 だからクリスティーヌはその点だけ念を押した。この問いかけに関しては、エリックは真摯な口調で二人の体調を保証した。彼女はそれで、後はすべてをエリックに託すことにした。
 それから一日も経たないうちに、エリックは宣言通り二人を地上に返しに行くと言った。
「子爵にさよならを言いなさい」
 そう言われてクリスティーヌは──今更ではあったが──にわかに動揺した。
 これでもう二度とラウルに逢えなくなる。
 それまで反らしていた視線を、彼女は思わずラウルへ向けた。そこではラウルは健やかに眠っていた。オペラ座に集う貴婦人たちが「少女のような頬を持つ可愛らしい青年」と笑って噂したその頬にも血色が戻り、改めて見ると彼は本当に美しく見えた。
 幼い頃に出逢い、友だちであり、小さな恋人だった幼なじみ。思えば父がいた昔をクリスティーヌと分かち合える、この世でただ二人の人間のうちの一人でもあった。このあまりに純粋な青年が少年だった頃から、彼女はずっと彼が好きだった。自分の気持ちと彼の身分を持てあましてきらいになったこともあったが、その時でさえ、クリスティーヌは彼のことが好きだった。ずっと。
 彼女は思わず手を伸ばし、ラウルの手に触れた。青年の手は温かかった。それから、頬にそっとふれた。頬も温かかった。それは生きている人間の温度だった。
 これでいい。
 彼女はそう思うことにする。
 これでいい。自分に言い聞かせた。
 元より彼と自分で添い遂げられるはずはなかったのだ。初めから一ヶ月きりの約束の婚約だった。それがわかっていてなお、その短い幸せの記憶で、自分を支えると決めていた。
 けれど、その間、ラウルはおそらくどんな婚約者よりも熱心に彼女を愛してくれたろう。文字通り命がけで、文字通りすべてを捨ててこの地の底まで彼女を捜しに来てくれたのだ。
 その彼が生きて地上に帰る。
 だから、これでいい。
 彼女は黙ってラウルから手を離した。
「お別れは済んだのかね」
 クリスティーヌはラウルとエリックの双方から顔を背け、ただ頷いた。噛みしめている唇をほどけば、嗚咽をこらえきれないことを知っていた。
 エリックにもそれは分かっていたはずだった。しかし、彼はそれ以上の無理強いはクリスティーヌに求めなかった。エリックは間を置かず、二人を連れて出て行った。
 遠くで隔壁が閉まる音を待ってクリスティーヌは長椅子に腰を下ろした。
 それから不意に体を折り曲げる。
 彼女は、あのさそりを回した夜から初めて、声を上げて泣き出した。
 
 

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