Compassion
 
 
 
 
 額に触れる唇がわずかに震えたように思った。温かく湿った息が額に当たって、唇の感触が離れて消えた。
 クリスティーヌは伏せていた目を開けてエリックを見上げた。エリックは、クリスティーヌが額を差し出す前と同様に立ちつくしていた。違うのは一点、彼女を見下ろす彼の目が見開いていることだった。あの仮面の下にあってさえそうとわかるほど、エリックは限界まで目を瞠っていた。
 微動だにしない彼を不思議に思い、クリスティーヌは二度、三度まばたいて彼を見た。そのクリスティーヌの前でエリックの体が小さく震え始めた。
 その様子に彼女はわずかに首を傾げた。体の具合でも悪いのかと心配になったのだ。だから「大丈夫?」と、そう彼女は口にしようとした。その瞬間、不意に男が手を持ち上げた。
 いきなり上がった両手に驚き、クリスティーヌは口をつぐんでエリックを見た。
 エリックは彼女を見ていなかった。
 彼は両手を顔の高さまで持ち上げた。手はわななくように大きく震えていた。それから、彼は急に体を大きく折り曲げた。
「お……」
 エリックの口から呻きが上がった。両腕からわななきが伝播し、全身がぶるぶると震え出す。
 クリスティーヌはその激しい反応に怯えて立ちすくんだ。何か病の発作なのか、それとも怒っているのかわからない。彼女は思わず両手を胸元に引き寄せ、固唾を呑んで男を見守った。
 エリックは体をくの字に折り曲げ、頭を抱えるように打ち震えた。次に震える両手をそろそろと伏せた顔の前に運んでいく。男は両手の指先をそろえて、そっと歪んだ唇に押し当てた。ややして彼は指先を唇から離すと、その手をしばらく見つめ、それから頭を上げた。
 大きく見開いたエリックの目が、クリスティーヌを見た。
 怯えて彼を見つめ返すクリスティーヌの前で、エリックはその目から唐突に涙を流した。それは、一度に仮面の外へ湧き出すほど大量の涙だった。
 クリスティーヌは呆然とエリックを見やった。
 エリックが涙を流す様を、クリスティーヌはこれまでに幾度も見たことがあった。彼女に愛を乞うとき、彼は仮面にぽかりと空いた二つの穴から涙を零した。その様があまりに悲痛でしかも恐ろしいので、二度と見たくないと、思い出すことすら耐えられないと、どれほど思ったか知れない。
 けれど、今は違っていた。
 男は確かに両目から涙をこぼしていた。しかし彼女を見上げる仮面の奥の顔は微笑んでいるように見えた。声もなく涙を流しながら、けれどエリックは笑っていた。泣きながら笑うその様は、これまでなら絶対に恐ろしく思えたろう。しかし、今は恐ろしくはなかった。恐ろしいと言うよりなぜかひどく哀れに思えた。なぜ……。
 どうして良いか分からず、ただ立ち尽くすクリスティーヌの前で、男の体が崩れ落ちた。
 エリックはそのまま彼女の足下にひれ伏した。そしてすすり泣きを始めた。それはすぐに号泣へと変わった。男の震える手が自分の踵を押さえたことに気づいたが、彼女は動けなかった。自分の足にすがり、幼児のように全身で泣きじゃくる男の、その小さく丸めた背中をクリスティーヌはただ唖然と見下ろした。フェルトの部屋履きに包まれた足の甲にかすかに温かい感触を覚えた。今度は濡れていたが、堅い紙をすりつけられたような感触に、彼が口づけたことがわかった。
「……エリック……」
 泣き伏す男の肩に、クリスティーヌはとまどいながらも手を伸ばした。それほどに今のエリックは、ただ哀れだった。
 クリスティーヌの手が男の肩に触れる前に、エリックはまた素早く頭を上げると彼女を見た。クリスティーヌは伸ばした手を止め、ただ男を見つめ返した。
 クリスティーヌには何もわからなかった。エリックがなぜ泣いているのか、なぜ笑っているのか、問いかけようにも、その声も出ない。
 ただ彼女を見上げるエリックの口元に、また笑みが浮かんだ。
 ……ああ。
 その笑顔を見て、不意にすとんと、何かがクリスティーヌの腑に落ちた。
 喜んでいるのだわ……。
 彼女は間抜けのようにぼんやりとそう思った。
 これまでのエリックの笑顔は、いつも恐ろしかった。皮肉か、狂気が、いつも混じっていた。喜んでいるように見えている時でさえ、彼はその幸福を信じていないようだった。
 けれど、今、エリックの顔に浮かんでいるものは歓喜以外の何物でもなかった。なぜ、そうとわかるのかはわからない。けれど今、エリックを笑わせているのは、掛け値なしの喜びだ。
 ──……よろこび?
 男は抑え切れぬというように、再び彼女の足下にひれ伏し泣き出した。また、かすかに足の甲に濡れた感触を感じた。今度のそれは唇ではなかった。涙のしずくがほたほたと落とされる感触だった。
 それは、かなしみの涙ではなかった。老いた男が感じているえも言われぬほどの喜びは、その全身のふるえが物語っていた。言葉になどできない。そこにあったのは、身を震わせ、むせび泣き、立っていられないほどの歓喜だった。
 そう、歓喜。
 よろこび。
 それに幸せ。
 ──……しあわせ?
「エリック、あなた……」
 クリスティーヌは小さく呟いた。何かが──その男をかくも涙させたその答えが──胸の奥で膨らむのを彼女は感じた。男の肩にのばすつもりで中空に留まっていた指先が、小さく跳ねた。
「……エリック……」
 やがて、クリスティーヌは小さく息を呑んだ。彼女の目からもまた、唐突に涙があふれ出した。
 クリスティーヌは両手で口を押さえた。目が熱くなり、目蓋が震えた。救いを求めるように彼女は天を仰いだ。体を震えが走り、涙はさらにあふれた。熱い流れがこめかみを伝い、髪の中に流れていく。
 「しあわせ」だ。
 彼女はそれに気がついた。まるで雷にうたれたような強さで、クリスティーヌはそれを悟った。彼を泣かせたもの。彼を笑わせているもの。掛け値ないもの。
 それは、彼の幸せだった。
 しあわせ。歓喜し、身を震わし、泣きじゃくるほどの圧倒的な彼のしあわせ。
 彼の今の、この至福のすべて。
 それがあった。ここに。
 彼女の額に。
 たった、
 ……たったあんな、小さなキスが。
 

「……」
 クリスティーヌは足下で泣きじゃくる男を見た。男は歓喜に、その体を木の葉のように震わせていた。その震えに、エリックが感じているのと全く等しいものを、今や彼女は全身全霊で感じることができた。
「……エリック……」
 彼女は声を掛ける。エリックは変わらず足下でしゃくりあげていた。彼女の目から涙がぼろぼろとあふれ出し、エリックの上へ降り注いだ。ひとつ、ふたつと、立て続けに滴が彼を濡らす。
 震える息が、長い時間を掛けてクリスティーヌの唇をふるわせた。
 やがて、息を吐ききった次の瞬間。
 彼女の中で、何かが弾けた。
 
 
 ──なんて可哀想なエリック──!!
 

 その場に崩れるようにひざまずき、クリスティーヌは声の限り叫んだ。クリスティーヌは男の頭に被さるように倒れ込んだ。
「なんて可哀想な……不幸なエリック……!」
 その言葉だけを繰り返し、クリスティーヌは火がついたように泣き出した。喉奥から号泣が溢れ出し、抑えようはなかった。
 彼が可哀想だった。どうしようもなく可哀想だった。
 こんなごく当たり前の小さな口づけを、ふつうの人々は何千回、何万回していることだろう。それを、これほどの幸せに感じるエリックが、あまりにも可哀想だった。
 彼女はエリックの人生の孤独を知った。クリスティーヌはその悲しさに、いっそう身をよじって泣きじゃくった。けれどその悲しさが、彼の苦しみのほんのわずかなものでしかないことがすぐにわかった。それを思うと涙はさらに激しくなり、わけもわからないほどクリスティーヌは泣きわめいた。
「可哀想なエリック……!」
 いつの間にか自分を見上げていた彼の頭や額や仮面を濡らしていることに気づいても、涙は止めようがなかった。
 彼は泣く彼女を、わずかに口を開けて見上げていた。彼女はどうしようもなくてただ泣き続けた。
 やがて、涙でゆがんだ視界の中で、そのエリックの手が彼の仮面に触れた。
 彼は自分の仮面を引きはがす。
 それを遠くへとかなぐり捨てた。
 クリスティーヌは、その顔を見た。
 ゆがみ、ただれ、ひからび、およそ遠い昔に埋められた死者よりも醜いその顔。
 その顔が、すべてだった。彼の悲しみのすべてであり、彼の不幸のすべてを生み出した。
 クリスティーヌはエリックの手を取った。
 かつては自らも振り払った冷たいその手を、力の限り握りしめた。
「なんて可哀想で、不幸せなエリック……!」
 叫びはかれた喉の前で声にはならなかったろう。けれど、クリスティーヌの手の中で、かすかにエリックの手も震えた。
 彼の目から新しい涙が溢れ出す。それを知って、またクリスティーヌの目からも涙が溢れ出た。二人は共に泣き出した。長い間、二人はそうして一緒に泣いていた。
 
 

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