終われぬ日々


 その日、綾里千尋はかなり、ぼんやりしている様子だった。
 彼女が初めての法廷の顛末に大きすぎるダメージを受けてから二ヶ月余り。まっとうな弁護士としての活動ができずにいる彼女は神乃木荘龍の助手として、ならびに再研修中という立場でなんとか星影法律事務所に席を維持していた。裁判を請け負えない弁護士である彼女に向けられる周囲の視線がけして暖かなものでないことを思えば、悪くない待遇だったろう。
 そんな彼女だが、神乃木に言わせれば充分に優秀な助手だった。神乃木がこうした資料が欲しいと言えば、千尋は資料を集め、それらを取捨選択し、見やすいように整理してから彼に渡す。彼女から渡される資料の中には、一見しただけだと神乃木でさえその重要性を見逃してしまうような、けれどよくよく検討すればひどく重大な意味を持つものがしばしば混じった。 
 そうした取捨選択を彼女が直感で行っているのか、それとも充分な検討の末に行っているのかは神乃木も知らなかったが、いずれにしても綾里千尋はきわめて優れた才能の持ち主だ。それに加えて依頼人を信じ抜く心と、≪真実≫に真っ向から向き合う強い姿勢。今のところ身内である星影事務所の人間からさえ低い評価しか与えられない彼女を、神乃木は誰より認めていた。大成すれば比肩するもののない弁護士になるだろう。幾人もの人間を救える弁護士に。だから、神乃木はなんとしても彼女にあのダメージから立ち直ってほしいと願う。
 しかしながら、現在優秀な助手で、将来は法曹界の至宝になるだろう彼女も、本日は明らかに様子がおかしかった。書類のコピーを忘れたり、メールを間違った相手に送信したり、コーヒーを自分のスカートにぶちまけたりと小さなミスを連発していた。体調が悪いのかと神乃木は二、三度尋ねてみたが、そんなことはないと言う。一度は半ば無理やり熱がないかを確かめもしたが、確かに異常はないようだった。
 もう就業時間は過ぎたというのに、綾里千尋はそのことにも気づかない様子でぼんやりと自分のデスクで頬杖をついたままだ。そんな彼女を観察するために同じく事務所にまだ残っている神乃木は、心ここにあらずだな、と彼女を評した。 
 彼女の頬杖をついたのと逆の手は、胸元のアクセサリーをまさぐっている。 
 今日のチヒロの様子はおかしいと気づいて、もうずいぶん前から、神乃木は彼女のその仕草に目をとめていた。今日の彼女は、ふと気を抜いているような表情をするとき、いつも胸元のアクセサリーに触れていた。神乃木が知る限り彼女が常に身につけている勾玉形のかなり大きな石だ。これまで、彼女のそうした仕草はあまり見たことがないだけに、ひどく目立つ。
「お疲れさまでしたー」
 神乃木と綾里千尋以外でこのフロアに残っていた最後のひとりが、ドアの傍で声を上げた。 
「おう」
 と神乃木はいつも通り短く返す。 
「お疲れさまでした」 
 綾里千尋は相も変わらずぼんやりとした面立ちのままで、そう返した。まるで鸚鵡(オウム)だと神乃木は思う。条件反射以外の何物でもない、意味の伴わない言葉だ。 
 他に人間のいなくなったフロアを見やり、さてと、と神乃木は呟いた。淹れたばかりのコーヒーをサーバーごと右手に、左手には自分のカップを持って立ち上がる。長い足を振り子のように動かして歩き、彼女の横に立った。 
「アンタは帰らねえのかい?」 
 そう、尋ねる。綾里千尋は返事をしなかった。むしろ聞いていない。だが、聞こえてはいるはずだ。神乃木は待つ。旧式の衛星中継で話をしているようなものだと考えればいい。 
 沈黙。三秒経った。
「いえ、まだ……」
 綾里千尋が答えた。 
「そうかい。だが、もうみんな帰っちまったぜ」 
「そうですね」 
 今度はタイムラグなしに返事が返ってきた。だが、それは鸚鵡の返事だ。綾里千尋が答えたのではない。
 今度は五秒待った。
 ぼんやりと宙を見つめていた彼女の目の、焦点がゆっくりと合う。瞳に光が戻る。 
「……、えっ!?」
 千尋は声をあげた。まず右から振り返ってフロアの右半分を確かめ、すぐに今度は左に振り返って左半分を同じように確かめる。当然ながら彼女と神乃木以外に人影はない。 
 「い、いつの間に」というセリフを顔に書いて、千尋はまた右を向くと、そこに立つ神乃木を見上げた。
「今さっき、最後の一人が帰ったとこだ」 
「気づきませんでした……」
 神乃木は笑って千尋の隣の席、と言っても椅子ではなくデスクに腰を預けた。 
 彼女のデスクには空のカップが置かれている。手にしたコーヒーサーバーの中身を半分そのカップに注ぎ、残りを自分のカップに入れた。 
「コネコちゃんにはちょっとばかり苦いかもしれねえが、目を覚ますにはいいだろう」 
「すみません……」
 詫びなのか礼なのか不明なセリフを千尋は口にして、カップを両手で包むように手にする。眉間をわずかにしわ寄せながら、間違いなく彼女には苦いだろうコーヒーを飲む姿を見つめ、神乃木は唇の片端を持ち上げた。 
「今日は一日、ずいぶんぼうっとしてたようだが……、」 
 そこまで言って、神乃木は珍しく言葉を一度切った。次の言葉はすぐには、彼の口から出てこない。
 話の途中で突然黙った神乃木を、千尋が訝しげに見上げた。 
 神乃木は、いったんは思い付いたセリフを喉元にのぼった時点で却下していた。 
 そのセリフはすなわち──「恋煩いとはヤケるじゃねえか」。 
 だが、彼女に向けるのに、それは神乃木にとってあまり愉快でない内容だった。いったん思いついた言葉をそういう理由で切り捨てるのは、神乃木には稀なことだが、どうやら自分もまだ青いらしいと神乃木は考えていた。そもそも今となっては、そのセリフで自分が不快になることはまる分かりだ。思いつく時点で未熟さを露呈しているようなものだった。 
 だが、こんな風になる自分はなかなか面白いとも思う。 
「センパイ?」
「いや……。何か、考え事でもあったのかい?」 
 神乃木が急な代打として登場させたセリフは結果的に、彼には珍しいほど凡庸きわまりないものになった。
 普段の綾里千尋なら、神乃木が内心思わず自嘲したそういう失調を見逃すことはない。さらに不審がったろう。だが、神乃木以上の変調を来していたのは元もと彼女の方だった。
 千尋は神乃木から視線を逸らし、自分のデスクを見つめた。 
「……実は昨夜、あの事件について、思い付いたことがあって」 
「そいつを考えてたってわけか」 
「すみません」 
「仕事をしてなかったわけでもねえ。謝ることはねえさ」 
 「あの事件」と向き合うことは、彼女にとってはむしろ辛いことだろう。頭の片隅に追いやって記憶に蓋をしてしまうことは簡単だ。それを敢えて泣いて済ませてはいけない、向き合った上ですべて終わらせなくてはならないと言ったのは神乃木だった。チヒロはよくやっているというのが、神乃木の評価だ。 
「で? なにを思い付いたんだい?」 
「ええ……」 
 千尋はデスクの引き出しを明けると、そこに保管された彼女の唯一の法廷記録を取り出した。分厚いファイルのどこにどの資料が納められているか、すっかり覚え込んでいるのだろう。彼女はすぐに目的のページを開いて神乃木に見せた。 
 被害者・美柳勇希の検死報告だった。 
 目新しい資料ではない。神乃木はそれを一瞥して、千尋に目を戻す。 
「これが?」 
「被害者の身長と体重が、書いてありますよね」 
「ああ」
 美柳勇希は160センチ、体重は……神乃木はマナーとして女性の体重を見るつもりはないので、そちらに視線は向けていなかったが、まあ50キロ前後だろう。 
「美柳勇希は、女性としては小柄な方じゃありません」 
「そうだな」
 相づちを打ちながら神乃木は頭の片隅が反応するのを感じた。 
「センパイ、美柳ちなみの体格を覚えていますか?」
「身長は、150センチ台半ば。シャム猫みてえにキャシャなコネコちゃんだったはずだ」 
 神乃木は即答する。綾里千尋の質問は、神乃木の中で反応した部分にストレートで決まるものだった。神乃木は千尋に目線で先を促す。 
 千尋は、重々しく口を開いた。
「その美柳ちなみが、一人で、被害者の遺体を車のトランクに隠すことが可能だと思いますか?」
「なるほど」
 神乃木はにやりと笑った。
「──共犯者、か」
 綾里千尋は頷いた。


 

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