資格


 そもそも「なるほどくん」は、自分自身を二の次にするところがある。
 今さらながら綾里真宵はそれを確かめた。
 成歩堂龍一はかつて、検事の御剣怜侍の弁護を引き受けたことがあった。その際に、成歩堂は重要な証人との取引で、実にあっさりと「弁護士を辞めてそば屋を 継ぐ」ことを約束した。その姿を見たときから真宵はうすうす感じていたが、成歩堂龍一は、こと彼自身に関わる話では無頓着になるのだ。
 真宵はひとつ息を吐いて両の拳を握った。
「ねえ、なるほどくん!」
「なんだよ。そんな急にリキんで」
「もう一度、確認するよ。芸能事務所やる気はあるんだよね?」
「まあ、そうだね。少なくとも芸能事務所ならみぬきちゃんがいるし。他にできそうなこともないし」
「みぬきちゃんっていくつだっけ?」
「8つ、かな。春美ちゃんより年下だったと思うけど」
「そういう子って働かせていいものなの?」
「だって、ほら。テレビにも子役が出てるだろ? 問題ないと思うな。法律も調べたし……一応」
「一応ね……」
 真宵は(元)弁護士の「法律を調べた」という台詞より、テレビに出ている子役の話を信用することにした。たしかに問題はないのだろう。
「じゃあ、じゃあ、聞くよ」
「だから、なんだよ」
「なるほどくんは、それでいいんだね?」
 成歩堂が口を閉ざした。
 実を言えば、成歩堂のその反応は真宵の予想に反した。成歩堂のことだから、あっさり「いいよと」でも言うかと思っていた。だが、そうではないのだと彼女は気がついた。ここでスガスガシクいいよと言ってしまえるほどには、成歩堂は割り切ってはいないのだ。思わず、真宵はそのままたたみかけた。
「法律事務所をやめて、芸能事務所にして。なるほどくんは弁護士じゃなくて、タレントになるってことだよね。なるほどくんは、それでいいんだね?」
 真宵は両手を握ったまま、成歩堂を見つめた。だから彼女は成歩堂が一瞬──本当に瞬きほどの間だけ──険しい顔になったのも見た。
 けれど、やがて成歩堂は大きく息を吐いた。男は体から力を抜いた。
「……仕方がないからね」
 やっと返ってきた答えはそれだった。小さく笑ったのようなその顔を見て、真宵は思わず握りしめた手にさらに力を込めた。ひどく腹が立った。成歩堂に対し てではない。もっと別の何かに対して。
 仕方なくない、と言えればどんなにいいだろう。
 けれど、真宵もその手から力を抜いて、息を吐いた。
「……そっか」真宵は頷く。少し遅れて笑った。「うん。わかった。なるほどくんがちゃんと考えてそう決めたなら、いいんじゃない?」
 成歩堂が少しだけ驚いたように真宵を見返してきた。
 成歩堂は、あるいは真宵が怒ると思ったのかも知れない。「どーしてよ! なんでなるほどくんが弁護士辞めなきゃいけないのよ!」などと言うのは、真宵か ら見てもいかにも自分らしかった。実際に、今もそう思っていないと言えば嘘になる。けれど、真宵はもう一度笑った。
「いいんじゃないの? 芸能事務所。面白そうだし」
「……そういうものかな」
「だって、ほら。やっぱりホーリツ事務所って、カタい感じがするじゃない。ゲーノー事務所のほうが楽しそうだよね。なんかウカレてて」
「まあ、そうかもね」
 そりゃそうだよ!と言う真宵にちらりと笑顔らしきものを見せて、成歩堂は黙ってしまった。男はしばらく自分の膝を見つめ、それから顔を上げた。
「……うん。そうだね。ぼくは芸能事務所を始めていいと思ってる。……だけど」
「けど?」
「それは、別にここじゃなくてもいいんだよ。実際にタレントが何人もいるわけじゃないんだし、それこそぼくのアパートの部屋で始めても済むことだ」
 どういうこと?と真宵は斜め上を見上げた。成歩堂がそんなことを言い出した理由を、彼女は考えた。それは、例えばこの事務所の維持にかかるお金の問題だ ろうか? だが、それなら真宵に相談を持ちかけるまでもなく、成歩堂自身が把握しているはずだ。
 真宵は成歩堂を見た。そうして、彼女は他ならぬ自分がさえぎった成歩堂の相談内容を思い出した。おそらく成歩堂が問題にしているのは、ここが真宵の姉が 始めた法律事務所であることだろう。結局、真宵が一度逸らしたはずの話は、心持ちの回り道をしただけで本筋に戻ってきたということだ。
 しかし、それでも真宵はもう一度だけ首をひねる。それから少し遅れてなるほどねぇ、と一人で納得した。
「何がなるほど、なんだよ」
「なるほどくんがヘンだな、と思ってさ。いつも以上に」
「さらっと失礼なことを言うなよ」
「だってさ」真宵はもう一度、目を上に向けた。「ねえ、なるほどくん。最近どこかで頭打ったりしなかった?」
「は?」
 唐突な真宵の質問に、成歩堂が目を丸くした。真宵はそれを無視して続ける。
「知らないうちに消火器で頭を殴られたとかさ。実は駅の階段を転がり落ちてたとか。道で突進してくる猛牛に跳ね飛ばされたとか」
「いやいやいやいや。いくらなんでも最後のはないだろ」
「そうかなー? 絶対ないとは言い切れないと思うけど」
「猛牛が野放しにされてるようなところに住んだ覚えはないぞ」
「そう? 倉院の里にはいるけどな、牛」言ってから、真宵は笑った。「じゃあさ、なるほどくん。あたしが誰か覚えてるよね」
「……はい?」
 いきなり何を言い出すのかという顔で、成歩堂が真宵を見る。真宵はそれに構わず続けた。
「いやー、なるほどくんのことだから、うっかり忘れてるんじゃないかと思ってさ。だって、あたしは綾里真宵ちゃんだよ? しかも、今じゃただの霊媒師じゃ なくて家元なんだよ? 修行中の」
「修行中の家元ってなんだよ」
「そこはほら、政治的なものだから」
「……なるほど。それはミョーな説得力があるね」
「でしょ。で、そのあたしがいるんだから、」真宵はにやりと笑った。「なるほどくんは、お姉ちゃんに直に相談することだってできるはずだよねー」
「……あ」成歩堂がばかりと口を開けた。「……ああっ!?」
 その顔を見て真宵はほろ苦い気分になった。
 そう、つまり、彼はヘンだったのだ。成歩堂龍一ほど死者に相談する機会に恵まれた人間はいない。にもかかわらず、その成歩堂が霊媒にまったく思い至らな かったということは、彼はふつうの状態になかったということだろう。成歩堂が本当に落ち着いていれば、真宵の来訪を待つまでもなく、ましてや真宵から指摘されるまでもない。電話越しにでも千尋に相談することを考えて良かったはずなのだ。
「ね、なるほどくん、どうする? お姉ちゃん、呼んじゃおっか」
「あ、いや……い、今すぐ?」
 成歩堂は汗を流して慌てていた。真宵は男の様子をじっと見つめた。このまま待っていれば、成歩堂はきっとどこかで覚悟を決めて千尋を呼び出してくれと頼 むだろう、と思った。なぜなら、彼は真宵の姉に報告をしなくてはならないし、事務所についても筋を通さなくてはいけない。そう考えているはずだからだ。その勇気を絞り出すことがかなり困難でも、成歩堂は最後には覚悟するだろう。
 やがて、真宵は少し可哀想になって口を開いた。
「本当はね、もうずっと前にお姉ちゃんになるほどくんの話はしてあるの」
「えっ!」
 成歩堂が悲鳴のような声を上げた。その顔があんまり青ざめているので、真宵は逆に苦笑してしまう。
「……事件のことを聞いて、本当にすぐだよ。なるほどくんに電話したことがあったでしょ? あたしには全然わかんない話だったけど、もう腹が立ってさ。な にかしなきゃって思って。メモして、お姉ちゃんに見てもらったんだよね」
 言って、真宵は少し消沈した。
 結局、真宵は今回も自分になんの力もないことを実感するより他なかった。成歩堂法律事務所の副所長などと言っても、真宵には法律の難しい話はほとんどわ からない。綾里真宵にできることといえば、それは霊媒だけだ。
 だのに、今回の事件で霊媒の力はなんの役にも立たなかった。なぜなら事は殺人事件ではない、成歩堂に着せられた容疑は証拠品のねつ造だった。それでは死 者を霊媒して見せたところで、彼の無罪を証明することはできない。これが仮に殺人容疑で逮捕されたというのなら、真宵は無理矢理にでも被害者の霊を 霊媒して真相を明らかにして見せたろうに。
 けれど、成歩堂龍一の一大事に対して、真宵は自らの力を発揮する機会すら与えられなかった。
「……それで、千尋さんはなんて?」
「うん……」真宵は呟いた。
 だから、真宵が考えついた唯一の仕事は姉の霊に相談することだった。成歩堂龍一の永遠の師匠、偉大な弁護士だった姉。その綾里千尋なら、生前の弟子が置 かれた状況を逆転するヒントを与えてくれるだろうと、真宵は信じた。
 けれど、
「弁護士会の決定をひっくり返すのは……むずかしいだろう……って」
 だからこそ真宵はこの二ヶ月、何もできなかった。今だって、仕方がないと言う成歩堂の言葉に反論することができないのだ。何か逆転する「仕方がある」と 言えない限り、異議を唱えることはできない。
「なるほどくん、ごめんね……」
「いや、真宵ちゃんが謝ることじゃないよ」
 ぼくがウカツだったんだ、と成歩堂龍一は即答する。
「で、でも!」真宵は思わず身を乗り出した。「お姉ちゃんからは伝言があるんだよ!」
「え、千尋さんから?」
 真宵は頷いた。
「えっとね」真宵は姉が残したメモを取りだした。「まず、この事務所のことだけど……きっとなるほどくんが気にするだろうって、お姉ちゃん言ってるよ」
 はは、と短く成歩堂は笑った。
「お見通しだね」
「なるほどくんはわかりやすいからね!」
「……」
「事務所はなるほどくんの好きにしていいって。もうここはなるほどくんのものだから。どんな形でも、自分には気を遣わなくて構わないってさ」
「そう……」
「それから、今回の事件の証拠品ね。全部きちんと保管しておきなさいって。いつか必ず本当のことを明らかにするチャンスがくるからって」
「『本当のこと』」
「うん。それと、最後にこう書いてあるよ」真宵はメモの内容を頭に入れて、顔を上げた。
「『なるほどくん。私は、あなたを信じているわ』」
「……」
 成歩堂龍一は黙って目を見張った。たぶん、今、その目には綾里千尋の姿が見えているに違いない。
 真宵は少し待ってから、メモを成歩堂へ差し出した。
「はい、これ。お姉ちゃんからの伝言」
 成歩堂は一度瞬いてから、ためらいがちに手を伸ばした。彼は、受け取ったメモに一瞬目を通し、それから顔を隠すように頭を下げた。
「ありがとう」
 と成歩堂は言った。


 

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