資格


 それからふと思い出して、成歩堂は言った。
「ああ、そういえば、似たようなことを電話でも言われたなあ」
「デンワ?」
「そう。誰から掛かってきたかな……。御剣が最初だったと思う。イトノコさんも何か言ってたな。あとは狩魔検事からも掛かってきた気がするけど」
「どういうメンバーなの、それ」
「なんか、叱られたよ。ぼやかれたり」
「意味がわからないよ」
「そうだね」成歩堂は思い出してまた笑った。「聞いてたぼくにもよくわからなかったもんなあ」
 それでもわかったのは、彼らが一様に腹を立てていることと、そのくせ誰も成歩堂に掛けられた嫌疑をわずかも疑っていない、ということだった。
 いや、話が逆か。
 彼らは一様に、成歩堂を疑っていなかった。彼の無実をハナから信じてくれていた。狩魔冥ばかりは、自分を負かした成歩堂龍一が、彼女と似たような経歴を 持つ新人検事に敗れたことに著しく名誉を傷つけられた様子だったが、その彼女の文句でさえも「バカが、バカの、バカな手に引っかかって!」というもので、 ツマラナイ手に引っかかった成歩堂に罵詈雑言を浴びせかけても、成歩堂がツマラナイ真似をした、とはわずかも口にしなかった。
 それだけに、彼らは成歩堂が弁護士会の処分を受け容れたときには、一様に成歩堂に本気で腹を立てたように思われた。
「叱られたって、あの事件のことで?」
 真宵が聞くので、そうだね、と成歩堂は頷いた。
「やってもないことで処分されて、どうして黙ってるんだ、みたいな」
「そりゃ、みんなそう言うよ。御剣検事なんて青筋立てて怒ってそうだよね」
 たしかに電話を受けた成歩堂にも友人のその姿は目に浮かぶようだった。それは成歩堂に学級裁判のことをわずかに思い出させた。成歩堂は少し可笑しくな る。
 かつて、成歩堂龍一はまったくの潔白の中、やはり犯人だと疑われてつるし上げられたことがあった。彼は間違いなく潔白だっだが、誰も成歩堂を信じてはく れなかった。教師さえも成歩堂を犯人だとみなした。たしかに事件の起きた状況は紛れもなく成歩堂に不利だった。けれど、成歩堂が犯人だという具体的な証拠 は何ひとつなかったのに。
 それはひどく幼い頃の話で、しかし幼かっただけにひどく成歩堂の心は傷ついた。今の状況は、あの時によく似ていると彼は思う。少なくとも周囲が成歩堂龍 一を疑う理由には事欠かない、その一点で。
 だが、学級裁判の日、最後に後の友人が正当な声を上げてくれるまで誰一人味方がいなかったことに比べて、今は真逆だった。あの日の成歩堂は本当に孤独 だった。誰も彼の潔白を信じてくれていないように思われた。それに比べて今はどうだ。あの時よりなおも悪いと思える状況で、しかもすでに実質的な処罰まで 下っているというのに、当たり前のように成歩堂の無罪を信じてくれる人々がこんなにもいる。
「これってけっこうすごいことだと思うよ」
 成歩堂は至極控えめに感想を口にした。どれほど世間が成歩堂に厳しくても、マスコミが彼を声高に糾弾しても、友人たちはわかってくれている。それが、ひ どくありがたい。
 そのせいもあるだろう──と、成歩堂は思う。
 自分が証拠のねつ造という不名誉な言いがかりに対しても、ムキにならなかったのは。
「なるほどくん……」
 小さく呼びかけられて、成歩堂は我に返った。
 真宵はなぜか沈痛な面もちでうなだれていた。
「本当に……」
「うん?」
「本当に、弁護士、やめちゃうの……?」
「やめるっていうか、もう、ぼくにはその資格がないんだよ」
「どうしてよ!」
「そりゃ、弁護士会で資格の剥奪が決まったからね」
「そんなのってないよ……」
「仕方ないんだよ。偽の証拠品を提出したのは、間違いなくぼくなんだから」
 そう、それだけは仕方がないと断言できる。成歩堂はもう一度自分にたしかめた。


 弁護士会は、調査不十分な証拠を提出し法廷に混乱を招いた、という理由で成歩堂龍一を処罰した。
 無論、そんなものは額面だけの話で、弁護士資格の剥奪という厳罰には証拠のねつ造に対する嫌疑が(さらには被告人の逃走に関与した嫌疑も)ものを言って いるだろう。それは成歩堂自身がいちばん感じていることだ。だから、成歩堂はその気になれば厳罰に対して異議を唱えてもよかった。だが、敢えてそうしな かったのは、成歩堂が何をするまでもなく信じてくれた友人たちがいたからだろう。
 元はと言えば、成歩堂は古い友人に会うために弁護士になった。おそらく司法試験を受けるには前代未聞の動機で、成歩堂龍一は弁護士になったのだ。
 しかし、その目的はすでに達成されていた。友情は復活し、弁護士資格を剥奪された今も交友が途絶えることはない。その点で、成歩堂は弁護士という職に対 して誇りは抱いていても未練は持ち得なかった。
 ウカツにも偽の証拠を提出した責任は取らなくてはいけない。その処分が厳罰でも構わないと思うことができたのは、声高に自分の無罪を叫ぶまでもなく、信 じてくれた人々がいたからだ。
 だが、
「あたしは、やだよ」
 真宵の言葉に、成歩堂は顔を上げた。「え?」
「なるほどくんが弁護士じゃなくなるなんて、あたし、やっぱりやだよ」
 真宵の言葉に、成歩堂はにわかに動揺した。もし、弁護士資格を剥奪されて辛いと思うことがあるとすれば、それはひとつだけ、親しい人々の自分を見る目が 変わることだけだったろう。あの事件から二ヶ月。これまで成歩堂はそれを感じずに済んできたが、まさか今になって綾里真宵がそれを言い出すとは思っていな かった。
「どうして……」成歩堂は驚いて尋ねた。「やだって、なんで?」
「だって、困るよ……」
「え?」真宵の意外な言葉に成歩堂は目を丸くした。「困る?」
「当たり前だよ! 困るよ!」
「ど、どうして?」
 成歩堂がぽかんと聞き返すと、真宵は両の拳を握りしめた。
「だって、だって、……そんなの当たり前じゃない! なるほどくんが弁護士やめちゃったら、あたしがなんかやった時、助けてくれる人がいなくなっちゃうで しょ!」
「ちょ、ちょっと待った!」成歩堂は真宵をいさめた。「真宵ちゃんが本当に何かやってたら、いくらなんでも助けられないんだけど」
「だから! そこをなんとか!」
「いや! 無理だって!」即答して、それから成歩堂は三度脱力した。「何かと思ったらそんなことか……」
「そんなことって、いちばん大事なことでしょ!」
 真宵は大いに真剣な様子だが、成歩堂は苦笑せざるを得ない。
「まあ……たしかに、二度あることは三度あるって言うしね」真宵の略歴を思い出して、成歩堂は少し真面目に真宵をなだめることにした。たしかに、彼女ほど 大きなトラブルに巻き込まれやすい人間もそうはいない。「でも、あんまり心配しなくていいと思うよ。弁護士ならぼくじゃなくても、他に優秀な人がいっぱい いるから」
「ナニ言ってんのよ!」だが、成歩堂の慰めは怒鳴り声によって却下された。「そんなことじゃないでしょ!」
「え、でも……」
「なんでわかんないのよ!」
 顔を真っ赤にして叫ぶ真宵の顔を見ていて、やがて成歩堂ははっと身を乗り出した。真宵の目尻に涙が浮かんでいる。
「真宵ちゃん……」
「……なるほどくんにいちばん助けてもらったの、あたしなんだよ……?」
 握りしめていた両手を下ろして真宵が言った。
「どんな時でもなるほどくんが助けてくれたんだよ、あたしのこと。なるほどくんは忘れてるかもしれないけど、誰もあたしの弁護なんて引き受けてくれなかっ た、味方になってくれる人なんていなかった事件でも、なるほどくんだけは、あたしの味方をしてくれたんだよ」
 忘れてはいない。成歩堂はもちろんそれを覚えていた。真宵と出会った最初の事件だ。真宵は縁のある大先生にも弁護を断られていた。大きな脅迫の力を後ろ に、彼女の弁護をしようという者はおらず、姉を失った彼女は本当にひとりに見えた。
「あたしだってあたしのことを信じられなかった事件だってあったんだよ? それでも、なるほどくんだけはあたしを信じてくれたんだよ」
 それだってもちろん覚えている。霊媒中に起きた殺人。真宵自身さえも、それが自分の──自分に降ろした霊の──仕業だと信じていた。
「なるほどくんの法廷は、あたしみたいに、味方がいなくて、誰にも信じてもらえなかった人ばっかりだったじゃない。それでも、なるほどくんはそんな人たち をいつでも信じて、ずっと助けてきたんじゃない! そんなの他の弁護士さんじゃ無理だよ!」
「……」
「それなのに……これからだって、なるほどくんが必要な人は、きっといっぱいいるはずなのに……。なるほどくんが、弁護士じゃ、なくなったら……」
 真宵はそこで言葉に詰まったようだった。歯を食いしばった彼女の白い頬を、大粒の涙がぽたぽたと流れ落ちている。
「真宵ちゃん……」
 成歩堂は言葉を失った。
 弁護士である、という意味。
 弁護士ではなくなった、という意味。
 彼は初めてそれを考えた。
 なぜ、成歩堂龍一は弁護士だった?
 雨の音がしていた。濡れた路面を走る車の音は晴れた日よりも大きく、小さくしゃっくりをするように泣く真宵の泣きの声をわずかに減衰させている。成歩堂 は何も言えず、長く黙っていた。
 そんな時、電話が鳴った。


 

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