Over the Music of the Night

 
 
 
 ──新聞記者の方?
 どうぞこちらへ。どのような御用です? こんな田舎町に。
 私が当ててみましょうか? この町の組鐘(カリヨン)について、お聞きになりたいのでしょう。
 図星ですね。
 なぜわかったか? 簡単なことです。こんな田舎に、あなたのような職業の方がわざわざ中央からいらっしゃる理由は、他にありませんからね。
 ……ええ、そう。そうです。この町には、たしかに素晴らしい組鐘奏者(カリヨネア)がいたのです。そう「いた」のです。残念でしたね。もう過去形です。彼はすでにこの町を去りました。しかし、素晴らしい組鐘奏者がいたのは本当ですよ。彼は奇跡のような弾き手だった。
 名前? ……いえ、それは、故あって申し上げられません。ただ「彼」とだけ呼ばせて頂きましょう。
 素性? 素性は知りません。言えないのではなく、知らないのです。
 ああ。私を疑ってらっしゃいますね。無理もない。そんな素性も分からないような怪しげな男にしばらくの事とは言え、町の鐘を預けたのかと、それは疑問に思われるでしょう。その理由を説明するのも難しい。
 少し長い話になりますが、聞いて行かれますか? 記事になるとは思えませんが。
 ……いいでしょう。お掛けになって。どうぞお楽に。
 

 組鐘の奇跡の弾き手であるという「彼」に関する話は、そんなやり取りから始まった。
 話を聞かせてくれたその鐘楼の責任者に当たるという男は、もう老年の域に達した、形良く整えられた顎髭がいささか仰々しい芸術家肌の男だった。この辺りの街々の鐘は、時知らせの鐘と言う以上にひとつの楽器と呼ぶべき品だ。演奏には高度な技巧が必要であるし、音楽的な感性も無論重要である。そうした組鐘を預かる者に、音楽家の風情が漂うのは良くあることだった。
 その老人のことはラインダール氏と呼ぶことにしよう。
 ラインダール氏の話では、その「彼」といちばん数多く口をきいたのは自分だろうということだった。言葉を換えると、問題の「彼」は町の人々とは口をきく機会をほとんど持たなかったらしい。
 彼はいつも隠れるようにしていたという。鐘楼に入ることをラインダール氏に許されてからは、ろくにそこから出ることも無かったようだ。
 彼がそのようにして人目を避けたのは、何も彼が指名手配中の殺人犯で、人目を忍ばねばならないからではなかった。
 いや、後にラインダール氏が「彼」自身の口から聞いた話によれば、「彼」は紛れもなく何らかの大罪人であり、とても恐ろしい出来事を引き起こした人物であるらしかった。
 しかし、彼が身を隠さなければならなかったのは、それ以前に別の理由があったというのだ。
 「彼はいつも、その半面を隠すようにしていました」
 ラインダール氏は語った。
 ラインダール氏が「彼」と出逢ったのは、その鐘楼の前で、夜のことだったという。氏が組鐘の手入れを済ませ塔の外に出ると、男が一人立っていた。辺りはもう暗く、その男は頭からすっぽりとフードを被り、特に顔の右半分を隠すようにしていた。わずかな明かりに照らされた左半面は、ラインダール氏よりはいくらか若く、五十半ばに見えた。
「あなたがここの責任者だろうか」
 その男は氏を見るなり、そう尋ねた。
 それは今年の遅かった復活祭の頃で、もう外套は要らない季節になっていた。だから、ぼろをまとっているわけでなくとも、顔を隠しているとしか思えない男の風体は確実に異様で、うさんくさいものだった。しかし、氏に掛けられたその声が穏やかで美しく、またひどく丁寧な響きを持っていたために、氏は男に答えを返した。
 男は顔の半分をやはり隠したままで、
「しばらく私にこの組鐘を弾かせて貰えないだろうか」
 と尋ねた。氏はもちろん、驚いた。
 組鐘は町の一つのシンボルだ。その顔を隠した男は明らかにその町の者ではなく、ふらりと現れた得体の知れない男に組鐘を任せられるはずはない。
 だから氏は、最初この不躾な申し出に対して憤った。
「そんなことが出来るはずはないだろう。そもそも顔を隠したままでいることも非礼ではないか。せめて顔を見せて素性を明かしてからそういうことは言いたまえ」
 氏が言うと、男は見えている方の顔をわずかに歪めた。それから長い時間黙し、やがて再び静かな声で言った。
「私は生まれながらに右の顔に奇形を患っていて、顔をさらすことができない。非礼と不躾は承知の上でお願いしている。この組鐘は素晴らしい。響きが美しく、音が遠くまで届く。私には……」男は深く息をついた。「私には、こうした鐘が必要なのだ」
「なんのために?」
 氏は尋ねた。その鐘の素晴らしさを誇りにしていた氏は男の言葉を内心嬉しく思ったが、それだけに顔をさらせないという理由を訝しんだ。複雑な音階を扱え、遠くまで音の届くこの町の鐘が、長い歴史の中で時に戦時の伝令の役割を果たしてきたことも知っていた。鐘が必要だという、男の言葉を氏は不審がった。
 鐘楼を見上げていた男は、再び氏に目を向けた。
 少し考えるようにうつむいた後、彼は言った。
「祈るために」
「祈る?」
 彼は頷いた。「どうか、頼みを聞いて欲しい」
 もちろん、氏は断ろうとした。そんなよく分からない説明はない。その言葉だけで到底納得できるものではなく、そもそも意味がわからない。
 しかし、にもかかわらず、断りの言葉は氏の口から出てこなかった。
 一つには、目の前の男の目があまりにも真剣だったためだった。第二に、男の声が──それはただ話すだけでも音楽的な響きを感じさせるほど本当に美しい声だったというが──あまりにも痛切な震えを湛えていたからだった。まるで、その男だけがただ一人、真冬の最中に取り残されているようだった。
 ラインダール氏は男の前で黙り込んだ。町の鐘を預かるものとしては、どこの誰とも知れぬ相手に容易く鐘を預けられようはずはない。けれど、目の前の男の頼みはなぜか胸を打ったのだ、と氏は語った。
 氏が考え続けている間、男も黙って待っていた。氏は改めて口を開いた。
「そもそもきみは、組鐘を弾けるのかね」
 それは大きな疑問だった。組鐘の演奏には相当な技量が必要とされる。その技量を、顔を隠さねば生きてこられなかったような男が果たして身につけているだろうか? しかも町中に響き渡る音を持つ組鐘では、試しに弾かせてみるという真似も出来ないのだ。
 しかし、そんな氏の問い掛けに対して男は頷いた。それから彼は付け加えた。
「もし良ければ、私にしばらくここの鐘の整調をさせて欲しい。もちろん、あなたが見ている中で私は作業をしよう。もし、私の仕事にまずいところがあれば、あなたがすぐに止めればいい。その上で、私の整調を気に入ってくれたなら、私に鐘を弾かせて欲しい」
 なるほど鐘の扱いを見れば、男の組鐘に対する知識は多少なりともわかるだろう。
 氏はここでもかなり迷ったが、結局そこで妥協した。ピアノの一流の調律師でも一流のピアニストとは限らないことはわかっていたが、他に判断する術を氏は持たなかったのだ。
「いいだろう」
 氏は言った。
「しばらくきみに、鐘の手入れをして貰いましょう」
 彼はわずかに目を伏せ、ありがとう、と言った。「本当にありがとう」
 そこには万感の思いが籠もっているようで、氏が戸惑ったほどだった。
 
 

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