Intoxication
 
 
 
 
 しかし、エリックだけは変わらずその娘を見ていた。むしろ、娘が周囲から孤絶すればするほどに、彼は娘に興味を 持った。彼女は若く、美しく、にもかかわらず、生気というものからほど遠かった。その動く人形のような在り方は、彼の心をひどく引きつけた。
 加えて、エリックはその娘の瞳を気に入っていた。彼女が追いやられた楽屋は、奇しくも彼が通路として使うための仕掛けを施した部屋のひとつで、エリック は特別な鏡越しに娘を正面から見ることができた。鏡越しにのぞき込むと、娘のうつろな瞳は空の色をしていた。オペラ座に集う紳士たちはクリスティーヌの出 自を知ってその瞳を北の国の湖の色に喩えたが、エリックにとって娘の瞳は空の青──エリックがずっと思い描き、そして決して見ることが適わぬ空の青──そ のものだったのだ。
 エリックは、これまでの短いとは言えない人生の中で、美しい青空というものを見たことがない。
 むろん、青空そのものを見たことがないわけではなかった。彼は今でこそ地下に籠もり人目を避けて生きているが、かつては世界を旅し、また時には一国の王 宮を好きに歩き回れる立場にもあったのだ。今でさえも、日のある時間に外出することは皆無ではなかった。いかなるエリックであっても青空を見ずに生活を維 持することは困難なのだ。──否、やろうと思えばできるのだろう。しかし、彼は最後の最後でそれを望んではいなかった。
 だが、そうして日中外を出歩いたとしても、日の光のもとで見上げる空がエリックの目に美しく映ることはなかった。彼の周囲には常に人がいて、または人の 気配があって、日の光は周囲に対して彼の仮面をあらわにした。それはすなわち、仮面を付けねばならぬほどの彼の異形をあらわにすることと同義である。恐れ と好奇がないまぜになった人々の眼差しは、当然ながら彼の矜持をいみじく傷つけた。その屈辱と絶望の中にあって見上げる空が、エリックの目に美しく見える はずはなかったのだ。
 だからと言ってひとりで空を見上げれば、それはなおさら悪かった。たしかに外を歩くときも、ひとりであればそこに平穏は築かれる。誰から石を投げられる こともなく、指をさされて笑われることも、また恐れから顔を背けられることもない。彼はひとりであれば陽の光のもとでも好きに振る舞えたし、その気になれ ば仮面を外すことだってできた。だが、それは同時に、ひとりでなければ安心して外も歩けないエリックの孤独を浮き彫りにした。そうして見上げる青空は、彼 の孤独を助長するかのように広すぎて、哀しいほどに忌々しかった。
 それでもなお、地下に籠もり振り返ってみたとき、空は美しいものに思われた。人目から顔を伏せて歩く、その時にかすかに目の隅に映っていた空の色の記憶 そのものは、感じていた恥辱を別とすれば美しく思われたのだ。けれど、その青を求めて実際に地上に上がってみれば、やはり空は澱み、呪わしい色に映るの だった。
 そうして、エリックはいつからか美しい空の青を内部に作り上げた。まるで宝石を磨くようにイメージを研磨し、おそらくこの世のどこにもないであろう青い 空を自分の中でだけ作り上げた。
 娘の瞳は、彼が創造したその空の青をしていたのだ。


 ゆえに、エリックはその娘の観察を続けた。そうしている内に、彼はオペラ座に集う主立った人々が知ることのなかった、娘のもっと奇妙な点に気がついた。
 周囲に対してあまりに無気力、無関心に見えるにもかかわらず、彼女はこの劇場には何かこだわりを持っているように見えた。娘は暇さえあればオペラ座の端 々を歩き回っていた。彼女の行動はまるで探し物をしているかのようだった。しかし探し物をしているという割に、彼女は同じ場所に何度も足を運ぶことがあっ た。特に、屋上にはたびたび長い階段を登って向かった。とりわけ、翼を生やしたアポロンの像を、時間を忘れて見つめていることが多かった。そんな時の彼女 は、今にもその像が動き出して彼女に語りかけるのではないかと、その瞬間を必死で待っているように見えた。
 ──そう、そんな時ばかりは、娘にはわずかに心があるように見えた。それ以外の時の彼女には、およそ精神が存在していないか、もしくはかつてあったとし ても死んで久しいように見えたものだが、オペラ座を歩き回っている彼女には、わずかに感情らしきものが見て取れたのだ。
 劇場を歩き回る彼女は悲愴だった。何か大事なものを探しているのに、それがどうしても見つからない子どものようだった。しかし、それもじっとクリス ティーヌを見つめていたエリックの目だからこそ、そう思えたのである。何も知らぬ者が見れば、彼女は単に茫洋とした面もちで通路を歩いているようにしか見 えなかったろう。
 そうして振り返ってみると、ふだんの彼女に比べれば、クリスティーヌはあのオーディションの日でさえ明らかに緊張していたのだとエリックは気づかざるを 得なかった。あの日の彼女の歌声が、日頃の彼女の歌声よりまだしもマシだったのも、なけなしの覇気が込められていたからだろう。その娘は、たしかに彼の劇 場に何かこだわりを持っていた。
 そのためだろう、彼女は時折、まじめに歌うことがあった。彼女の日頃の歌のまずさは弁護のしようもないほどだったが、この劇場を追い出されるのは避けた いらしく、まれに、少しばかり気合いの入った歌を歌うことがあったのだ。もしくは、長い時間をかけて力を蓄積して、ようやく何度かに一度そうして歌える日 が来るのかも知れない。その時の彼女の歌声は、やはり欠陥は多いが人の心を騒がせる何かがあって、そのたびに支配人たちは、彼女を解雇することを思いとど まるのだった。
 
 

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